II.save me ...
朝、智哉は突然、俺に言った。
「おい、慎。お前、神谷のやつと、ここで話してたらしいじゃねーか」
「ん、何が?」
突然すぎて、微妙に会話がかみ合わない。
すると、智哉は一息ついてから、また口を開いた。
「あのよ・・・神谷のやつが誰かと話してるなんて、そりゃもう大事件なんだぞ?もう学校中で噂だぞ」
「・・・意味がわかんないんだけど?」
首を傾げても、智哉は頭をボリボリと掻いていて、呆れられていることくらい、言わずともわかった。
仕方無さそうに、智哉は説明し始めた。
「神谷ってさ、どっから見ても美少女って感じじゃんか?それで、もう告ってフラれた男は、数知れずなわけ」
「噂になるほどの理由はわかったけど、話しただけだし・・・」
俺がそう言った瞬間、目にとまらぬ速さで、指をビシッと突き出してきた。
面を喰ったのは、言うまでもない。
「そこなんだっつの。フラれたやつらは皆シカトされ、散っていった戦場の兵士なわけよ」
「・・・つまり?」
「神谷の声を聞いたやつは、誰一人いないらしい。教師さえも、な」
それは、何とも言えない。
しかし、よく思い出してみると、とても可愛いかったし、声も透き通っていた。
神谷さんの声を聞いた、第一号が俺だと思うと、何か俺だけ特別なのかと勘違いしてしまいそうだった。
そんな、ややご機嫌な気分でいると、不意に智哉は訊いてきた。
「・・・んで、お前は神谷と何を話してたんだよ?」
答えに困った。
何て言えばいいのか。
俺も、彼女が何のことを話しているのか、よくわからなかった。
「んー・・・俺もよくわかんないんだよな」
「はぁっ?」
怪訝そうな顔をされたが、他に言いようがない。
わからないものは、わからない。
「んじゃ、神谷が言ってたこと、そのまんま言ってみ?俺が判断してやる」
「わ、わかった」
「・・・“クジラ”が、ないているの・・・」
「“クジラ”が鳴く?」
俺がそう訊き返すと、神谷さんは夕空を見つめながら、小さく首を横に振った。
「・・・“クジラ”が、泣いているの・・・涙が、止まらない・・・」
神谷さんが窓を開けると、涼しい風が吹き込んでくる。
そして、遠くに向けて、思いっきり手を伸ばした。
俺はこの時、あの地平線の向こう、海のことを言っているのだと、勝手に思い込んでいた。
もともと、何のことを話しているのかはわからなかったけど、鯨は海にいるモノ、少なくともこれは間違いないから。
鯨がどこかで打ち上げられ、浜辺で苦しんでいるニュースを見て、そのことで嘆いているのだとしたら、神谷さんはとても優しいんだと思った。
しかし、何かが違う気がした。
だから、“クジラ”が何なのか、俺にはわからない。
「・・・慎くん、これ・・・」
突然、神谷さんは俺に、手を差し出してきた。
その手には、真っ白な羽根が、優しくそっと握られていた。
俺は思わず、手を差し出し、それを受け取っていた。
触れると、とても温かくて、彼女の手の温もりが感じられた。
いや、もしかしたら、この羽根の温かさなのかもしれない。
よく見れば、微かに光を放っているような気がした。
「・・・これは?」
羽根を見せて尋ねると、今にも消えてしまいそうな、儚げな切ない瞳の中に、俺を映していた。
「・・・あなたは、私を・・・“クジラ”を助けられる・・・?」
その瞬間、窓の外で真っ白な羽根が、空からたくさん降ってきた。
あまりに突然で、夕陽で反射した羽根が鮮やかで、見惚れていた。
羽根が見えなくなった頃、遠くで何かの声がした。
それは哀しそうな、鳴き声だった。
もしかしたら、これが“クジラ”なのかもしれない。
そう思った時には、すでに神谷さんの姿はなかった。
俺は静かに一人、呟いた。
「・・・そんなの、わかるわけないだろ・・・」
「おう。俺もわからねー」
「だよな」
事情を話したところで、何かがわかるとは思っていなかった。
ただ、窓の外に見えた、たくさんの羽根や、遠くで聞こえた鳴き声。
このことは、俺だけの秘密にしておくことにした。
だから、智哉には言っていない。
「ちなみに、神谷さんがくれたのが、この羽根なんだけど・・・」
俺は、あの真っ白な羽根を、お店でネックレスにしてもらい、いつも身につけるようにしていた。
Yシャツから羽根を取り出し、智哉に見せると、驚いた様子でそれを見ていた。
「ネックレスにしたのかよ」
「まぁな」
しばらく、智哉は見つめたまま、黙り込んでいた。
そして、口を開こうとしたその時、ちょうど昼休みの終わりを告げるチャイムが、校舎の中をとどろいた。
「智哉、もう席に戻れよ。この話はまた後で」
「・・・わかったよ」
何か言いたげに、渋々と席に戻っていった。
“クジラ”は、空を見つめれば、哀しそうに鳴き声をあげていた。
・・・遠く・・・遠く・・・遠く・・・。
見れば見るほど、“クジラ”の心は傷ついていった。
“クジラ”は雄叫びをあげ、また空へと跳び上がる。
海に叩きつけられ、“クジラ”は涙をながした・・・。
胸が苦しい。
この光景が目に映った時、間違いなく俺はそう思っていた。
神谷 海咲も、この光景を見てるのだろうか?
だから、彼女もあんなに嘆いていたのだろうか?
“クジラ”は、どうしたら助けられるのだろうか?
“クジラ”の涙が、海に消えてしまうように、気がつくと、俺の意識も、この夢から消えて、現実に戻ってきていた。
すでに放課後で、顔を押し当てていた袖は、涙で濡れていた。