第二十二話 選択の時
「アステシア様、お茶が入りましたよ」
「ありがとう。ティア。そこに置いてくれるかしら」
眷属の置いた茶器に口をつけながら、アステシアはほぅと息をついた。
彼女がいるのは大空が見渡せる神殿のテラスだ。
「相変わらずティアの入れるお茶は美味しいわね」
「ありがとうございます」
羽を折りたたんでお辞儀をする天使の姿にアステシアは頬を緩めた。
ティアが眷属になってから既に三百年以上経っているが、飽きずに飲めるのはティアの煎れたお茶だけだ。
思えば彼女に対して何も報いていない気がする。
「いつもありがとうね。近いうちに何か──」
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「ーーは?」
欲しいものはあるかと、そう言おうとしたアステシアは硬直する。
アステシア様?と呼びかけてくる天使の声にも答えられない。
彼女の頭は高速で思考していた。
──間違いない。今、世界が揺らいだ。
冥界の神々が天界を攻撃してきた?
否、そうであればここから天界を警備する天使たちが異常を発しているはず。
ならば地上で冥界の神々が暴れている?
あり得ない事ではない。だが、そうであるなら神々の誰も気付かないのはおかしい。
──まさか。
アステシアの脳裏に浮かぶ、屈託のない笑顔。
おのれが加護を与えた存在を思い浮かべ、アステシアは地上へのパスを開いた。
その瞬間、愛しい少年が一人の男と対峙しているのを見る。
「……冥王ッ!?」
見間違いかと目を擦るが、間違いない。
死の神オルクトヴィアスと契約した男、冥王メネスだ。
不死の都に居るはずの彼が、一体なぜジークと対峙しているのか──。
「さっきの揺らぎ……あれは冥王……! 世界の時間を巻き戻したのね……!」
一歩間違えれば世界の崩壊にもつながる危険な行為だ。
冥王にそれほどのことをさせる何かが、この先の未来にあったというのか。
いや、もしかしたらジークを見た自分たちが彼の元に駆け付けた可能性もーー
「ティア。飛ぶわ。後はお願い」
「……危険、と言っても止まらないのでしょうね。お気をつけて行ってらっしゃいませ」
「えぇ。いって
「それはなりません」
ばさり、と翼がはためいた。
神殿のテラスを吹き抜ける風を起こしたのは、空から舞い降りた神獣だ。
「今、あなたが地上に飛ぶことは禁じると、ゼレオティール様が仰せです」
「……!」
鳳凰ゼガルディア。創造神が使役する使い魔である。
アステシアは愕然と目を見開き、唇を噛みしめた。
「なぜ……! 今、ここで止めなければ、ジークは闇の勢力に取り込まれてしまうかもしれないのよ!?」
「見守りなさい。予言で示された選択の時が、ついに来たのです」
「……っ」
『黒き者と出会う時、其は答えを出すであろうーー』
(今が、その時だと言うの……!?)
アステシアは奥歯を噛みしめた。
地上を映す鏡の中、ジークの顔は憔悴しきっている。
何があったのか分からないが、あんなにも心折れそうな彼の顔を見るのは初めてだ。
傍にいてやれないことがもどかしい。
駆けつけてやれない自分を殴り飛ばしてやりたい。
最初は未知のものを教えてくれるだけの存在だったのに、今や彼はアステシアにとって唯一無二の存在だ。
ゼレオティールの命がなければ、今すぐ神霊を飛ばしていくのに。
「ジーク……!」
アステシアは食い入るように地上の様子を見つめた。
──否、彼女だけではない。
「ーー弟子よ」
ラディンギルが。
「負けんじゃないわよ、ジー坊……!」
イリミアスが。
天界に存在する全ての神々が。
世界の運命を左右する邂逅を、固唾を呑んで見守っていた。
◆
「さぁ、答えを聞こうか。ジーク。運命の子よ」
差し出された手は、慈しみと暖かさに満ち溢れていた。
人類の九割を殺し尽くした死者の王なのに、彼の瞳は今まで見てきた誰より人間的だ。ジークの脳裏に、これまでの思い出が泡のように浮かんでは消えていく。
怒りと、憎しみと。
愛情と、友情と。
愛憎の間に挟まれたジークは顔を歪め、
ゆっくりと手を伸ばしてーー
「選べない、ですよ……」
「……」
力なく、手を降ろした。
たった一人の肉親の提案を受けるでも、拒絶するでもなく。
ジークはただ拳を握り、俯くことしかできない。
選択を放棄した少年に、メネスは眉を顰めた。
「何を迷う必要がある。母を殺した人間が憎くないのか?」
「憎いですよ。憎いに決まってるですか!」
「ならば!」
「それでも!」
ジークはメネスを見上げて、
「それでも、人間の全部が悪いわけじゃないって……知っちゃったから!」
「……」
「こんな僕を、匿ってくれた人がいた。修業をつけてくれた人がいた。好きだって言ってくれた人がいた」
辛くて悲しくてどうしようもない闇の中で、手を差し伸べてくれる人がいた。
孤独に震えていた自分に温もりをくれた。弱い自分に力をくれた。
寄る辺もなく、彷徨うしかなかった自分にとって、彼らの気持ちは本当にうれしかった。
「あの人たちみたいな人が、他にも居るって、知っちゃったから……!」
彼らが居なければジークは迷わず冥王の手を取っていただろう。
アーロンに虐げられていた頃なら、喜んで彼の味方になっていたはずだ。
けれどジークはもう、知ってしまったから。
「ならば、葬送官を続けるのか?」
ひゅっと息を呑み、ジークは俯いた。
「…………それも、分かりません」
人間の全てが悪いわけじゃない。
だが同様に、どうしようもない人間だって絶対に居る。
アーロンがそうだ。ミドフォードだってそうだった。
どれだけジークが頑張っても、きっと彼らは理不尽を押し付ける。
今は英雄だなんだと称えてくれている人も、一歩間違えれば手のひら返しするに決まってる。
人間はそういうものだ。きっとジークは、この世の誰よりもそれを分かっている。
「人間か、悪魔かなんて……選べない……僕はもう、立てないよ……」
「何も選ばず、全てを諦め、逃げ続けていくのか? それでは何も手に入らないぞ」
「それじゃダメだって……分かってます……でも、でも、僕はもう、手に入れてたんだ」
かけがえのないものを。
絶対に失くしたくないものを、見つけていたはずなのに。
「僕は、リリアが大好きだった」
優しく握ってくれる手が暖かくて好きだった。
ジーク、と名前を呼んでくれる笑顔が大好きだった。
ふとした時に耳をかきあげて、顔を覗き込んでくる仕草が好きだった。
死んだと分かって、死にたくなるほど悲しくて。
もう会えないと分かって、心がズタズタに引き裂かれて。
「あの人は、僕の光だった。あの人がいなきゃ、僕は……」
ジークは唇を結び、メネスに懇願する。
「リリアを、生き返らせてください」
「……」
「リリアを生き返らせてくれるなら、僕はなんだってする。あなたの味方でも、世界の敵になってもいい! お願いします。リリアを、リリアを助けてください。時間を巻き度せるような力を持ってるだから、人を生き返らせる事だって出来るでしょう!?」
「無理だ」
メネスの膝に縋りつくジークだが、死者の王はきっぱりと言い切った。
「死の神オルクトヴィアスでも、楽園に葬魂されている魂を蘇らせることは出来ない。本来、死は絶対なのだ」
「…………死徒が、殺したのに」
「すまないと思っている」
「……っ、謝ってくれても、リリアは帰ってこないじゃないか! 冥王なんでしょう!? 神様の力をいっぱい持ってるんでしょう!? なのに、なのに……!」
「……私も全能ではない。例え神々の力をもってしても……五百年の歳月をかけても、望んだ物を一つ手に入れる事が出来ない」
メネスは自嘲げ口元を歪め、
「私もお前と同じだ」
「……おな、じ」
「そうだ。だからこそ同じ痛みを分かち合うことが出来る。共に生きる事が出来る」
家族だからと、メネスは言った。
「今一度言う。共に来い、ジーク」
なおも差し伸べられた手を見て、ジークは唇を噛んだ。
「失ったものは戻らない。死者は帰らない。だが、なによりお前が生きる為に、この手を取れ」
「…………リリアに、もう一度会わせてもらえませんか」
「……よかろう」
メネスは先ほどと同じように影の中からリリアの遺体を呼び出した。
さっき見たときと死に顔は変わらない。
まるで眠っているように、彼女は死んでいる。
「ごめんね……リリア。僕が、守れなかったせいで」
もしもあの時、完全に死徒を滅ぼせていたら。
もしもあの時、リリアと離れずに一緒に居たら。
あの時、あの時、あの時、あの時、あの時、あの時、あの時ーー
そんな意味のない問いかけを、ジークは首を振って振り切った。
「…………僕、決めました」
「そうか」
母を殺した人間が憎くてたまらない。
それは疑う余地のない本心だ。
この人に付いて行けばきっと、ルージュもみんなも助けてくれるだろう。
ーーけれど、それでも。
本当に申し訳ないけれど、母の事は、ジークの中で過去の話なのだ。
憎くてたまらないし、今も人間を見たらどんな気持ちになるか分からないけれど。
ーー母さんは、あの時死んでいなくても、きっと悪魔に殺されていた。
「さっき……記憶の中で、見たんです」
「…………」
ジークたちを追っていたのは人間だけではない。悪魔もだ。
先ほど見た記憶では、冥王ですら自分たちを追っていた可能性もある。
そう、葬送官の女が言っていた。
「あなたは……母さんを救えるはずだった。悪魔に僕たちを追わせていた! 違いますか!」
メネスは顔を歪め、
「それはセレスを救うためだ。私は人間どもに味方をする妹を救おうとーー」
「それでも!」
冥王なら、救えるはずだったのだ。
世界を巻き戻すほどの力を持っている彼なら、強硬手段を取る事も出来たはず。
それをしなかったという事は……母を救うつもりがなかったという事。
「何か事情があったのかもしれないけど……でも、おじさん。あなたは母さんを見殺しにした。僕にとっては、それが事実だから!」
キッ、と視線を持ち上げ、冥王を真っ向から睨みつける。
血のつながった紅の瞳が互いを映す。ジークは拳を握った。
「あなたに、母さんの死を、どうこういう資格はない」
絞り出すように、ジークは言った。
「……ならばどうする」
「この剣は、リリアの為に」
数十億の人間を殺し尽くした、人類最大最悪の怨敵。
言葉で言い尽くせないほどの強さを誇る相手に対し、魔剣の切っ先を向ける。
「死徒を統率していたのはあなただ。どれだけ謝っても、リリアは帰ってこない。どうしたって、僕は許せない」
母の事よりも、今のジークはリリアの方が大事だから。
例え彼女が帰ってこないのだとしてもーー
いや、だからこそ、落とし前はつけなければ。
「だからーー僕は、あなたと戦います」
「……死ぬぞ」
「どんな時でも、大切な人の為に戦う。それが僕の生き方だから」
ジークはメネスを見つめ、真っ向から言い放った。
「……」
魔剣の切っ先がカタカタと震えている。
涙にぬれた紅の瞳を揺らしながら、その視線は冥王を捉えて離さない。
未だ十六にも満たない少年の、それは魂の叫びだ。
(……やはり、お前はセレスの子だな。ジーク)
知らず、冥王メネスは口の端を歪める。
こうなることは薄々分かっていた。
予言神メルディオが予言をした運命の子、赤き瞳を持つゼレオティールの使徒。
そんな事は関係なく、あのセレスが生み、育てた子供だ。
(地獄のような環境の中、まっすぐに育った。このまま成長していれば、良い男になっていただろう)
もしかしたら、自分の脅威になっていたかもしれない。
いや、『もし』ではない、放置していれば、いずれ必ずそうなる。
それでも彼らが出会ったのは今だ。
だからこそ。
(それがお前の、生き様ならば)
「私も、それに応えようーー」
ーー旧世界を滅ぼした、魔を束ねる王として。
ーー何よりも一人の男として、信念の異なる男を迎え撃とう。
ばさりとローブを翻し、冥王は腰の剣を抜き放つ。
「我が名はメネス。『冥王』メネス。人類を滅ぼす征服者にして、魔を束ねる叛逆者なり」
光を吸い込むような、漆黒の刀剣がジークに突きつけられる。
互いに剣を突きつけ合い、紅色の瞳を真っ向からぶつけ合う。
「名乗れ! 誇り高き半魔よ! お前の全力を、この私が受け止めよう!」
「……っ」
世界の頂点たる存在を前に、ジークは双剣を構えた。
勝敗も、生死も関係ない。リリアの仇を討つという、その一心を胸に。
「《蒼き月の調べ》セレスの息子、ジーク・トニトルス」
キッと瞳に光を宿し、叫ぶ。
「リリアの為に。僕が僕であるために」
視線が交錯する。
きっかけ一つ違えば、共に手を取り合っていたかもしれない相手。
彼の隣を歩く、ありえたかもしれない未来を振り払い、
「いきます。おじさん」
「来い。ジーク」
今、ジークは世界の頂点に挑む。