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ゴッド・スレイヤー  作者: 山夜みい
第三章 飛躍
83/231

第二十話 封じられた記憶

 

 冥王メネスは終末戦争を引き起こし、旧世界を終わらせた怪物である。

 旧世界の遺物が貴重な新世界においても、冥王の怪物ぶりは語り継がれていた。


 ーー冥王が来るぞ♪ 怪物が来るぞ♪ 悪い子のおへそを食べにくる♪

 ーー真っ赤な夕陽を背負って会いに来る。お前の命を終わらせにやってくる♪

 ーー逃げても無駄だ、どこまでも、冥王は必ずやってくる♪


 子供を躾けるための歌は多岐にわたり、数々の伝説もある。


 曰く、旧世界最強のカガク兵器を真っ向から叩き潰し、

 曰く、たった一人で当時最強の軍事国家を滅ぼし、

 曰く、闇の神々を率い、異端討滅機構を壊滅寸前まで追い込んだ。


 荒唐無稽、おとぎ話、街談巷説にも思える逸話。

 しかしそれらは全て事実で、誇張は一切ない。


 終末戦争の折、神々と単身で渡り合い、

 暗黒大陸に『不死の都』を築き上げ、冥王は世界の敵として君臨した。


 ーーそんな存在が、目の前にいる。


「めい、おう……」


 告げられた名前に、ジークは空いた口が塞がらなかった。

 頭の中でぐるぐると思考が回って理解が追いつかなかった。


 なんで冥王がここに?

 不死の都にいるはずじゃないのか?

 なんで母さんの墓に親しげに話していたんだえ?


「……ふ。その顔、やはりお前はセレスに似ているな」

「ぁ」


 疑問そのものを言葉にしたメネス。

 ジークは震える全身の力を絞り出して問う。


「あなたは、母さんを、知っているんですか」

「あぁ。良く知っているとも」

「なんで……」

「聞いていないのか?」


 誰から、何を。


 そう口にしようとしたのに、唇は震えて動かない。

 既に答えは出ている。出てしまっている。

 けれど、最低最悪の答えを心が受け付けなかった。


「はぁ……! はぁ……! はぁ……!」


 呼吸の仕方を忘れてしまっていた。

 目の前がチカチカして、今すぐ逃げ出したいのに、

 ジークの視線は、冥王を捉えて離さない。


元第一死徒(・・・・・)、蒼き月の調べセレス……」


 冥王は墓石を見つめながら呟いた。

 墓の下に遺体はないのに、愛おしそうに、親愛を込めて。


 最悪の答えを口にする。



「彼女は私の妹だ」



 つまり、



「そしてジーク。お前は私の甥だ」



 それが事実だった。


「……っ」


 全身が雷に打たれたみたいに動かなかった。

 緊張で胃がちぎれそうなくらい痛くて、声が震えて力が出ない。

 母と同じ褐色の肌、母に似た面立ち。ジークを見つめる目は、母と同じもので。

 魂が、彼の答えを肯定している。


「ぼ、ぼくが、あなたの、甥……?」

「そうだ。お前の叔父であり、人類種最悪の敵がお前の目の前にいる」


 信じざるをえない証拠を前に、ジークは固まっていた。

 冥王は面白がるように両手を広げる。


「どうした。斬りかからないのか。お前も葬送官になったのだろう」


 ここで私を倒せば全て終わるぞ、メネスはそう言った。

 アルトノヴァに伸びた手は動かない。いや、動けないのだ。

 冥王が放つ得体の知れない不気味な気配ーーその正体を、ジークは理解した。


(どれだけ手を伸ばしても届かない、圧倒的な力の差……!)


 地を這う虫が、星々の輝きに決して届かないように。

 人間がどれだけ見上げても宇宙の彼方を見通せないように。

 天と地と言うのも生ぬるい、隔絶した実力差が両者の間にはある。


(絶対に勝てない。この人はそれを分かってて……!)


「母の仇に味方してまで葬送官になったのだ。このチャンスを不意にするのか?」

「……ぇ?」


 挑発するような言葉に、ジークは間の抜けた声を出した。


「母さんの仇……って」

「……まさか、知らないのか?」


 メネスは不愉快げに眉を顰め、ジークをじっと見つめた。


「……記憶を封印されている……いや、自ら封じ込めているのか……?」

「なに、を」


 一拍の間を置き、メネスは告げた。


「お前の母を殺したのは、人間だ。人間こそが、母の仇なのだ」

「嘘だッ!」


 ジークは思わず叫んでいた。

 冥王の怖さも力も忘れ、思いっきり叫んでいた。

 大切な母の事に触れられるのだけは許せなかった。


「母さんは、母さんは悪魔に殺されたんだ。僕の目の前で、僕を庇ったから!」

「違う。セレスを殺したのは人間だ」


 一歩、メネスは足を進める。

 後ずさろうとしたジークに近づいて、彼は手を伸ばした。


「忘れたのなら、思い出させてやる」

「や、やめ

「逃げる事は許さぬ。これは貴様が負うべき業だ」


 メネスの手がジークを掴んだ。

 蒼白い光が頭を包み込み、メネスは耳元で囁いた。


「おのれの過去に向き合え。我が甥よ」

「ぁ……」


 視界が真っ白に染まり、ぐるぐると視界が回る。

 ジークの意識は、記憶の彼方へ落ちていくーー。




 ◆




 その日は、冬の冷たい雨が降っていた。

 ザァ、ザァ……と降りしきる雨粒が窓ガラスを滴り落ちていく。

 窓枠に手を置いていた少年は眉を下げ、タタタ、と母の元へ駆けていった。


「母さん、雨だよ」

「そうねぇ」

「寒いねぇ」

「ふふ。こっちへおいで、ジーク」


 母に呼ばれた少年ーージークは暖かい胸の中に飛び込んだ。

 ふくよかな胸の感触が身体を優しく包み込み、膝の上で頭を撫でられる。

 母の愛を全身で感じられるこの瞬間がジークは何より好きだった。


「父さん、遅いね」

「……そうね。きっとすぐに帰ってくるわ」

「でも、ちょっとだけこのままでいいかも」

「あら、どうして?」

「お母さんを独り占めに出来るから」


 ぎゅっと、ジークは母の背中を手を回した。

 暗く冷たい廃墟の中、孤独を癒してくれる光にすがるように。


「あらあら。ジークはいつまでも甘えん坊さんね」

「うん……僕、甘えん坊さんなんだ」

「……そんなんじゃ、大人になった時に苦労するわよ?」


 ぴく、とジークの肩が震えた。

 恐る恐る、困った顔をする母を見上げて、消え入るようにつぶやく。


「……僕、大人になっていいのかな」

「え?」

「今まで、僕と会った人はみんな言ったよ……鬼の子、穢れた血、気持ち悪い、早く死ね、死ね、死ねって……」

「……」


 母──セレスは何も言わなかった。

 生きることを否定され、存在を拒絶されたジークは一人呟く。


「お母さん……僕、生きていていいのかなぁ」

「いいわよ……いいに決まってるじゃない」


 セレスはぎゅっとジークを抱きしめ返した。

 頭にキスを落とし、温もりを分け与えるように背中をさすってくれる。


「あなたは生きてていいい。生きてくれなきゃお母さんが困るの」

「……そうなの?」

「えぇ。そうよ。お父さんだって、ジークが生きてくれた方が嬉しいわ」

「…………えへへ。そっかぁ」


 ジークは母の胸に顔をうずめ、流れてきた涙を隠した。

 母に甘えたいけれど、情けない姿を見せるのは嫌だった。

 心の中にあふれる暖かな気持ちを、ジークは言葉にする。


「僕、母さんと父さんがいてくれたら、なんにも要らないや……」

「……ありがとう」


 セレスは決して『ごめんね』とは言わなかった。

 今まで一度も、ジークを半魔として生んだことに対して謝らなかった。

 それは自分の存在を肯定する、母の全力の愛だ。

 ジークはそれが何より嬉しく……そして誇らしかった。


「ジーク。もし辛くなったら、笑うのよ」

「笑う……?」

「そう。楽しい時も、辛い時も、笑うの。笑えば、力が出るから」

「……こう?」


 にしし、とジークは歯を出して笑う。

 セレスも同じように「にしし」と歯を出して笑い返してくれた。


 しばし、二人の間に優しい沈黙が流れる。


 それが途切れたのは、雨音が強まってきた時だった。


「……ジーク。隠れていて」

「え」


 セレスはそう言ってジークを降ろし、背中を押した。

 いきなりの事で戸惑うジークに彼女は「早く!」と鋭く叫んだ。


「ぅ、うん」


 ジークは言われるまま、廃墟の奥へと走り、影からセレスを見守る。

 黒い神官服を着た者達が現れたのはその瞬間だった。


「……やはり来たのね。カルミア」

「セレス。子供をどこへやった」

「あの人の所に居るわ。世界中のどこよりも安全だもの」

「嘘だな。いくらあのルプスでも、子供を庇いながら冥王と死徒を相手に出来るわけがない」

「……!」


 セレスの顔が歪んだ。

 神官服の女は周りを見渡し、「フン」と鼻を鳴らす。


「まぁいい。隠れているなら探し出し、もろとも殺すまで」

「私がそれをさせると思ってるの?」

「出来るさ。そのためにここに来た」


 睨み合いは一瞬だった。

 セレスと神官服たちが激突し、足元にクレーターが生じる。

 衝撃に耐えきれない廃墟がぐらぐらと揺れ、ジークは母の邪魔にならないように退避した。


「はぁ……! はぁ……! 母さん、母さん……!」


 セレスが強い事を、ジークは誰よりも知っている。

 たった一人で悪魔の群れを軽く撃退できるし、父と喧嘩して負けたところを見たことがない。

 唯一懸念事項があるとすれば自分を庇う事だ。それだけは何としても避けなくては。


 だからジークは走った。ひたすら走り続けた。

 歴戦の葬送官を相手に、七歳のジークが逃げ切れるはずもないのに。


「ーー見つけたぞ!」

「ひっ」


 怒号一閃。

 路地裏の闇を切りさく葬送官の剣がジークの胸を薙ぎ、赤い鮮血が噴き出した。

 すさまじい灼熱に全身を支配され、脳の処理能力を奪われたジークは悲鳴を上げて倒れこむ。


「ぁ、ぁ……」

「ようやく見つけた。呪われた鬼め」

「がっ」


 背中を足で押さえつけられ、ジークは呻いた。

 死神の刃がジークの首筋に突きつけられた。


「貴様のせいで、どれだけの民が不安に陥るか。恥を知れ、ケダモノッ」

「う、ぅう……ッ」

「泣くな、鬱陶しい」

「ひ、ぁ……!」


 ガン、と音がした。

 視界が真っ赤に染まり、頭を鈍器で殴られたような衝撃が襲った。

 身をよじって逃げようと伸ばした腕は踏みつけられ、鋭い切っ先が穴をあける。


「ーーーーッ!」


 声なき悲鳴を上げるジークは逃げられない。

 右腕に穴が開き、胸は袈裟斬りに断たれ、肋骨は何本か折れている。

 それでも逃げねばと、感覚のない腕を伸ばした。

 バキボキッ!と指を全て折られ、ジークは悲鳴を上げた。


「疾く死ね。バケモノ。貴様の存在そのものが、世界の汚点なのだ!」


 いたぶるように男はジークを仰向けに転がした。

 自分の血の色で赤く染まった死神の刃が、心臓めがけて振りかぶられている。

 今にも死んでしまう状況下の中、母の声がジークを突き動かした。


『あなたは生きてていいい。生きてくれなきゃお母さんが困るの』

「--------ッ!」


 獣じみた咆哮を上げ、ジークは震える全身を叱咤して足を動かした。

 思いっきり振りかぶった足は葬送官の背中を蹴り飛ばし、狙いのそれた死神の切っ先はジークの頬をかすめる。

 唯一にして絶対のチャンスを、ジークは逃さなかった。


「ぁ、あぁぁああああ!」

「ぐ、ぁ!?」


 使い物にならない腕を振り回し、葬送官の手首を強打する。死にかけの獲物に油断していた葬送官は傷を負い、ジークは素早く立ち上がって聖杖機(アンク)を蹴り飛ばした。葬送官が起き上がらないうちに、足を前へ。背中に怒号。何かが飛来する音が聞こえては避けて、避けて、走り続けた。


「はぁ……、はぁ……! うぅ、痛い、痛い、痛いよぅ……」


 身体中が痛い。割れるように痛い。

 今まで何度も襲われたが、ここまで明確に死を近く感じたのは初めてだ。

 背中を追いかけてくる葬送官の、鬼のような形相がジークの心をズタズタにする。


「バケモノ、バケモノめ!」

「殺せ、殺せ! そのガキを生かせば必ず禍いが起きる!」


 腕に穴をあけ、胸を切り裂いただけでは足りない悪魔がやってくる。

 今度こそジークの命を刈り取り、戦利品のように掲げる為にやってくる。


 獣人の女がいた。

 人間の老若男女が居た。

 皆。等しく死神の鎌を掲げた悪魔だった。


「母さん、助けて、母さん……」


 ーー……ひゅんッ!


 鋭い矢の音と同時に、ジークは走行能力を奪われた。

 裏路地から表通りへ転がるように、凄まじい戦塵の中に飛び込んだ。


「ぁ、ぁあああッ」


 腕、胸、足と、三つの深手を負ってジークは呻いた。

 悲鳴を上げる体力は既にない。頭にあるのは苦しみから逃れたい、その一心。

 空の上では激しい戦いの音が響いており、既に何人かの葬送官が倒れていた。


「かあ、さん……」


 戦塵が切り裂かれ、死神の足音がジークを捉えた。


「やってくれたな、この化け物め」

「ぁ」


 悪魔のように瞳を充血させ、死神が剣を振りかぶる。

 血に濡れた刃が腕を、足を、胸を、傷口を抉り、全身の裂傷が増えていく。


「死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ねぇぇえええええ!」

「う、ぁあああーーーーーーーーーーーー!?」


 トドメとばかりに、死神がジークの胸を串刺しにした。

 ザシュ、と。

 思わず目を瞑ったジークは、痛みがない事に疑問を感じて薄っすらと目を開ける。


「ごふッ」


 胸を貫かれた母が、そこにいた。


「ぁ、ぁぁぁあッ! 母さん、母さんッ!!」

「……ジーク。大丈夫。私は、大丈夫だから」


 自分を抱きしめる母の言葉は儚げで、今にも消えてしまいそうだった。

 血だらけの全身に力はなく、左腕は完全に黒焦げだ。

 傷を再生する余力もないほどの消耗ーーその上で、心臓を貫く一撃。


 あと一撃入れられたらーー母は祈祷に耐えられない。


「い、いや、だ……母さん、いやだよぅ……」

「大丈夫。私が、一緒にいるから」

「ぁ」

「どこまでも、いつまでも、一緒に居るからね」

「ぅ、うう……!」


 自分のせいだ。

 自分のせいだ。

 自分のせいだ。


 母さんがこんな人たちに負けるわけがない。

 自分をまきこむような大技を使えず、苦戦させられたのだ。

 自分の存在が足を引っ張り、母を殺してしまったのだ。


 この、人間たちに。


 ヘドロのような憎しみが、腹の底から沸き起こってきた。


「……にん、げん。ニンゲン、ニンゲン、許さない、許さないッ!!」

「貴様に許してもらわずとも構わない」


 母と戦っていた女が、空中で銃を構えた。

 銃口から光が迸る。


「母子もろとも、死ね」


 雷鳴が轟いた。

 全身がひっくり返るような衝撃波が地面を揺るがし、身体が宙に浮く。


「ーーよぉ。好き勝手やってくれたな、このクソ共」


 バチ、と雷が迸る。

 黒いローブを纏った父が、そこにいた。

 ローブの端から覗く肌は傷だらけで血を流している。


「とぉ、さん」

「……おう」

「母さんが……助けて……母さんが、死んじゃう……」


 父ーールプスがこちらを振り向き、母を見つめた。

 負傷を感じさせない身軽さで膝をつき、母の頬に手を当てる。


「……ざまぁねぇな。セレス。弱くなりやがって」

「ふふ……えぇ。本当に」

「これが、旅の終わりか」

「……そうね、ルプス。私の愛しい人……どうか、この子を……」

「分かってる。あとは全部、俺様に任せろ。俺様は最強だ」


 安心したように、母が目を閉じた。

 ザァ、ザァ……と止まない雨が家族を包み込む。

 ぎゅっと目を瞑ったルプスの頬に、一筋の雫が流れていった。


「じゃあな、相棒……楽しかったぜ」


 それが別れの言葉だと気づいたのは、視界が光に包まれた時だ。


「とうさ

「先に行ってろ。後で迎えに行く」


 ルプスの聖杖機が変形し、ジークとセレスを包んで球形となった。

 聖杖機は空中に浮かび上がり、流星のように空をかけていく。

 視界がぐるぐると回り、右も左も分からない中、母はジークをぎゅっと抱きしめていた。


 数秒も経たず、視界が開けた。

 真っ赤なヒナゲシが咲き誇る花畑に、ジークは居た。

 自分たちから流れる命を吸い取るような、赤々とした花の匂いに脳が麻痺していく。


「かあ、さん……」


 ジークの呟きに、母は薄く目を開けた。

 樹の幹にもたれかかり、両手を広げて安心させるように微笑む。


「ジーク。おいで」

「ぁ」


 ジークは母の胸に顔をうずめた。

 つい先ほどこうしていたというのに、こんなにも、変わってしまって。

 頭を撫でられる母の温もりだけが、心をつなぎとめていた。


「かぁざん……」

「ジーク。人間を恨んではダメよ」

「でもッ、でもッ! あいつらは母さんを!」

「彼らの心は鬼に取り憑かれているの……恐怖という名の、悪魔に」

「あく、ま……?」


 心が引き裂かれそうだった。

 今すぐ大声で叫びだしたいほど、心がめちゃくちゃだ。


 どんな時でも母の言葉は絶対で、逆らっちゃいけなくて。

 この人の言葉に縋らなければ、自分は生きていけないというのに。


「そう。悪魔……彼らは……悪魔に取り憑かれているの」

「にんげんじゃ、ないの……?」

「えぇ。違うわ。だから、人間を恨んではだめ。あなたは、彼らと共に生きて行くのだから」


 そう言って頭を撫でる母の手が、だんだん弱まってきて。

 熱い呼吸がか細くなるまで時間はかからなかった。

 頭の中がぐちゃぐちゃになって、ジークは思わず「いやだ!」と叫んでいた。


「嘘つき。嘘つき。ずっと一緒って言ったじゃん! どこまでも一緒って言ったじゃん!」

「ごめんね」

「ぁ」


 それは母が初めて発した『ごめんね』だった。

 蒼玉の瞳から涙を流し、母の足先が、光の粒子となって空に消えていく。


「私も、あなたともっと一緒に居たかった……」

「ぁ、ぁ、ぁ、ごめん、ごめんなさい。嘘つきって言ってごめんなさい……!」


 ジークは堪らず抱き着いた。

 母の存在を繋ぎとめようと、必死に。


「僕、いい子にしてるから、言いつけも守るから、わがままも言わない。嫌いなものも全部食べるから……だから一緒に居てよ! 僕から離れないでよ!」

「あなたはとっくにいい子よ。可愛い坊や」


 母が額に口づけ、頬を優しく撫でた。


「あなたは、お母さん似だから……きっとカッコよくなるわ。性格はお父さんにも似てるから……芯の通った、良い男になるでしょう。でも、好き嫌いはダメよ。ちゃんと治してね。それから、朝ご飯はちゃんと食べるのよ。お父さんの言うことは、よく聞きなさい……それから……」

「かあさん、かあさん……もういいよ、喋らないで……消えちゃうよぉ……!」


 既に手遅れだ。母の足は腰から先が消えていた。

 いつも優しく守ってくれた手も、徐々に光に変わっていく。


「ジーク。強く生きなさい」

「ぁ、ぁあ」

「世界中の人々が、あなたを蔑むでしょう。殺そうとしてくるかもしれない。でも、負けちゃだめよ。あなたはこの私とあの人が生んだ、誇らしい息子。絶対に闇に落ちてはいけない。誰に言われるでもない、神々に操られるでもない、これはあなたの物語なのだから」


 視界が滲む。こみ上げる涙が邪魔で母の顔が見えない。

 抱き着けば抱き着くほど、その存在の儚さを思い知らされて。


「無理、無理だよ……僕、二人が、二人がいなきゃ、生きていけないよ……!」

「今は、一人かもしれない……でも、いつかきっと、あなたを心から愛してくれる人たちが現れる」

「ぁ、ぅぁ」

「その時は、絆を大切にね。その人は……その人たちは、どんな宝石よりも、かけがえのない存在なのだから」


 母の手を握ろうとして、その手が虚空を掴む。

 もはや腕も足もなく、上半身だけとなった母は優しく微笑んだ。


「信じて、生きなさい。そして運命を打ち破るのよ」

「かあさん」

「ほら。最期に笑って見せて?」


 死にゆく母の言葉に、ジークはくしゃりと顔を歪めた。

 俯き、ぎゅっと瞼を瞑り、顔を上げて、靄のかかった視界で笑う。


「に、しし」


 引きつった笑いが出た。

 それでも母を安心させたくて、ジークは笑った。


「にしし、にしし」

「ふふ。そう、やればできるじゃない。さすが、私の息子だわ」


 ジークは笑った。泣きながら笑った。

 母も微笑んで、笑って、そして、


「ジーク。私はずっと、あなたを愛しているからね」

「ぁ」

「今まで、ありがとう……」


 母の顔が、光に呑まれて消える。

 思わず手を伸ばしたジークの手は何もつかめない。

 伸ばしても伸ばしても何もつかめず、ただ樹の幹だけがあった。


「に、しし……」


 ジークは笑った。

 辛い時、苦しい時は、笑うのだと、母に教わったから。

 せめて最後の言葉だけは守ってあげたかった。


「にしし……にししにし、にし……ぅ、うぅぁあ……!」


 無理だった。

 あふれ出す涙は拭っても拭っても止まらなくて。

 ジークを繋ぎとめていた母の温もりが、音を立てて決壊する。


「ぁ、ぁぁあああああああああああああああああああああああああ!」


 地面を殴り、無力な自分を殴りつけた。

 どれだけ痛めつけても母は返ってこない。

 楽園(アアル)へ旅立った母の魂は、地上のどこにもない。


 ーー僕のせいだ。


 僕がいなければ母は助かった。

 僕が足を引っ張らなければ母は楽に勝てた。

 僕が、殺した。


「僕の、せい……?」


 違う、違う、違う。

 人間だ。人間が母を殺したんだ。

 理不尽な怒りをジークに向けてくる、あの怪物たちが……!


『ジーク。人間を恨んではダメよ』

「ぁ」


 暗い憎悪の沼に沈むジークの腕を、母の言葉が引っ張り上げる。


『彼らの心は鬼に取り憑かれているの……恐怖という名の、悪魔に』

「そうだ……悪魔だ。人間じゃない。悪魔が、母さんを殺したんだ……」


 そう、そうだ。

 そうじゃないといけないのだ。


 だって、殺したいほどに憎い仇が人間だなんて。

 人間の血が半分流れている自分が死なないのは、おかしいじゃないか……。



 やがて父が迎えに来て、あの悪魔たちは殺したと告げられた。


 もう仇を憎まなくて良くなった。

 悪魔の全てが悪いわけじゃない。

 母もまた、彼らと同じ悪魔なのだから。


 だから、恨んではいけない。

 母を殺した悪魔たちは、もう死んだのだからーー。




 ーーそうして目まぐるしく時は流れ、追憶は終わりを告げる。




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