第八話 冥界の門番
旧世界で神話や伝承として語られていた冥界は、今や現実のものと認知されている。ただ冥界がどのような場所なのかは、未だ分からない部分が多い。
元々は、死した魂を浄化するための場所だったようだ。
死した魂は太陽の船と呼ばれる船に乗り込み、審判の神の導きで冥界に赴く。
そうして死の河を渡った先で前世の行いを測られーー。
その心を悪と判断された者は虜囚となって魂を浄化し、
善と判断された者は天界の使いに引き渡され、楽園へ向かう。
だがそれは、旧世界の話。
今や冥界は死者を受け入れ、楽園へ旅立たせる役割を放棄している。
死んだ魂は冥界に囚われ、肉体は悪魔となって現世で暴れているのだ。
天界は冥界の神々が放棄した役割を、なんとかつなげようと必死なのだとか。
「でも、はっきりしているのはそこまでなんだよね」
林の出口の手前で、ジークたちは休憩していた。
かれこれ四時間以上歩き詰めだったため、一旦身体を休ませることにしたのだ。
「冥界がどんな広さなのか、どんな魔獣が居るのか、どんな神々が居るのか……大部分が、分かってないって。未踏破領域みたいな魔晶石は取れるけど、瘴気に侵されすぎてるから地上じゃ使いにくいし、冥界の神々がいる事は分かっているけど、その人たちがどこに住んでいるのかも分かってないーー」
「詳しいね、お兄ちゃん」
「テレサ師匠に聞かされたんだよ。冥界に潜るなら知っとけってさ」
そもそも葬送官が冥界に潜るのは、よっぽどの事がなければない。
異端討滅機構の依頼で冥界の稀少鉱物を取りに行ったり、魔獣の生態調査などが主だ。それだって、深いところまで潜ると冥界の神々に囚われてしまうため、あまり調査は進んでいない。ジークたちが今、冥界に潜っているのは規則破りの例外である。
「ふーん。でも、《魂の泉》ってやつもテレサさん? あの人色々知ってるね」
「そこは……まぁ、テレサ師匠も年だから。年の功ってやつじゃない?」
「なるほどねー……」
ルージュは何か言いたげだったが、何も言わなかった。
代わりに、オズワンが口を開いた。
「おい、いつまで休憩すんだ? 急いでんじゃねぇのか
「急いでるけど、それで無茶したら元も子もないでしょ」
ただでさえ冥界は未知の部分が多く、普段以上に体力を使うのだ。
《魂の泉》がどれくらい離れているか分からないが、まだ五日ほど時間がある。
ジークも早くリリアを迎えに行きたいのは山々なのだが……
「ここに来るまでに、結構色々戦ったしね……」
冥界の林では様々な魔獣に遭遇した。
動く樹の魔獣であったり、黒葬狼であったり、見たことのない魔獣もいた。
そんなトラブルに見舞われても、三人がそれぞれ対応すれば怖くはなかった。
ここはまだ冥界の浅層ーー地上の影響が色濃い地帯だからだ。
だがこの先は、話が違ってくるはず。
慎重に慎重を重ねても無駄ではないだろう。死んだら元も子もないのだ。
(こういうとこは、今までの経験が活きてるのかな)
五歳の頃からほぼ十年間、父と共に流浪の旅をしていたジークにとって、危機感知能力は何より重要だった。
無理と無茶は違うし、挑戦と無謀は弁えなければならない。
そうしたことを、父との旅で嫌というほど教えられた。
(……父さん。懐かしいな)
と、ジークが一人考えているとーー
「別に、ゴリラは一人で行ってもいいんだよ? あたしたちは自分たちのペースでいくし」
「誰がゴリラだ吸血女。言われなくてもおれから休憩を言いだそうとしてたところだよ、クソが」
「はいはい。そうでちゅね~。ちゃんと分かってるウホよ?」
「喧嘩売ってんのかテメェ!?」
やいやいと、言いあう二人にジークは口元を緩めた。
「二人とも、仲良いねぇ」
『良くない!』
二人は声をそろえて言った。
やっぱり仲が良いのでは、と思うジークである。
(まぁ二人は放っておいて……僕はこっちかな)
ジークはカバンの中から一冊の本を取り出した。
『第五元素エーテルと電子力学の関係』と書かれた本だ。
細かく付箋が張られていて、文字が書き加えられている。
小難しい論調で書かれた本がこの付箋と書き足しで簡単に理解できる。
ページを開いて読み進めていると、ルージュが本を覗き込んできた。
「お兄ちゃん、何読んでるの?」
「これ? テレサさんに貰ったんだ。戦いに応用するために知識をつけろって」
「へぇ……」
陽力の調整や力の加減などは実戦で経験を積むことしかできない。
しかし、以前リリアが言っていたように、《天威の加護》はただ雷を撃つ加護ではない。まだその仕組みを全部理解できたわけではないが、電子や素粒子と言った、目に見えない粒に干渉する力がある。その力を完璧に使うためには実戦だけではなく、知識を蓄え、理論を応用できる必要があるとテレサは言っていた。
「適当に見繕ったって言ってたけど、きっと任務の合間に書いてくれたんだよ」
リリア同様、テレサもジークの加護の可能性に気づいていたようだ。
だから異端討滅機構に召集されてからも、本を見つけ、分かりやすいように書き加えてくれたのだろう。
「本当に、僕にはもったいない師匠だよ」
「……師匠、かぁ。あたしはそんなのいないけど、いっぱい勉強はしたよ」
「ルージュの力は、伸ばすの難しそうだね」
「『重力粒子理論』とか『宇宙工学理論』とかは詰め込まれてるから、あたしの場合、あとは実戦だけかな」
「ハッ! しゃらくせぇことやってんなお前ら」
オズワンは鼻で笑った。
「結局のところ、悪魔との戦いで役に立つのは腕っぷしだろ。ひたすら鍛えりゃいい話じゃねぇか」
「そういう考え方もあるのかも。でも、僕はこっちを頑張ってみようと思うから」
「フン。役に立てばいいけどなァ」
「そんなこと言って、自分が分かんない会話に混ざりたいだけじゃないの?」
「は、はぁ!?」
動揺したオズワンに、ルージュの瞳が嗜虐的に蕩けた。
「自分だけ話に入れなくて寂しいからわざと否定したんだ。ね、図星でしょ?」
「ち、ちげぇよ何勝手なこと言ってんだクソが!?」
「そんなに否定したらますます怪しいよ? なに、もしかしてこんな美少女に図星を突かれて嬉しいの? もっと虐められたいの? いいよ。あたしがあなたのこと調教したげる。あたしの言う事に絶対服従するような、可愛いワンちゃんに躾けてあげるよ」
「テメェこの妹何とかしろや!?」
「ルージュ、どうどう」
久しぶりに歪んだ性癖を見せたルージュ。
息を弾ませて頬を上気させる彼女に苦笑をこぼし、ジークは「それで」と話題を変える。
「ここから北東って、どっち行けばいいか分かる? 今の位置が分からないと……」
「冥界も大体地上と同じ形をしてるってテレサさんが言ってたよ、お兄ちゃん」
「あ、そうなんだ? そんな事言ってたっけ」
「お兄ちゃんが寝てる間に言ってたから」
「あ、なるほど」
それなら、冥界と地上はコインの裏と表とのような感じなのだろうか。
地上と同じだけの広さがあると言うなら、かなり厳しいのだが。
「あたしたちが入ってきたエル=セレスタが中央大陸の南端で、あたしたちは海岸の洞窟から入ってきたから……」
ルージュがぼんやりと空に浮かぶ月を見た後、地面に大陸の地図を書いて指し示す。
「こっちだね」
「なるほど……さすがルージュ。頼りになるね」
「えへへ。しょうがないなお兄ちゃんは。あたしがいないと何にも出来ないんだから」
「そんな事ないと思うけど……?」
ともあれ、今後の方針は定まった。
それからジークたちは三十分ほど休憩を挟んで、林を抜けた。
ーー林を抜けた先は異世界だった。
そう思えるほど、唐突に景色が切り替わった。
「……これは」
地面に穴が開いていた。
それこそ街がすっぽり入るほどの穴だ。
その穴の上には大小さまざまな岩が浮かんでいて、宙を漂っている。
上空には得体の知れない魔獣や虫たちが穴の上を周遊していた。
「何だろ、コレ」
「龍穴に似てんな」
「え?」
意外にも、一番先に口を開いたオズワン。
彼は不機嫌そうに尻尾で地面を叩き、
「オラ、あの穴の向こうも林になってんだろ」
「あぁ……言われてみれば」
「地上にも、ここと同じような場所がいくつかある。旧世界じゃ見なかったらしいが、神々が来やがったせいでジゲンダンレツが起きて、星の力みてぇなもんが噴き出してきたらしい。その穴の周囲は異常に木が生い茂ったり、生き物が変異したりする。未踏破領域にも龍穴がある場合が多い…………そう、姉貴が言ってた」
ルージュが得心したように頷いた。
「なーんだ、受け売りか。危ない危ない、ちょっと見直すとこだったよ」
「んだと!?」
「じゃあ渡ろうか。どっちにする?」
「ハッ! こんなもん、気合だけで渡ってやんぜ」
オラッ! と鋭い声と同時に、オズワンが飛んだ。
十メートルほどの距離を飛んだ彼は、浮き岩に着地してこちらに振り向く。
「よぉ、さっさと来いよ! それとも飛べねぇのか? 手ぇ貸してやろうか?」
(ヒヒッ! 兄貴にいいとこ魅せるチャンス! 逃して堪るかってんだよォ!)
そうほくそ笑んだオズワンだったが、
「あ、大丈夫!」
叫び、ジークは磁力で宙に浮きあがった。
戦闘の最中にはまだ細かい操作が出来ないが、落ち着ける今なら。
「は? と、飛んだ!?」
「あたしも大丈夫だよーだ」
ルージュも重力を操って宙に浮く。
二人が悠々と浮き岩に降り立つと、オズワンは口をパクパクさせて、
「て、テメェ、これで勝ったと思うなよ! 思いのほかやるじゃねぇかあぁん!?」
「いや、さっきお兄ちゃんに負けてたよね? 負け犬の遠吠えは見苦しいよ?」
「~~~~~っ」
見かねたジークが割って入った。
「ルージュ、いちいち挑発しない。ここは冥界だし、油断は禁物」
「はーい」
三人は順調に穴の浮き岩を渡っていく。
途中魔獣や悪魔に追われると言ったトラブルがあったが、戦闘は避ける。
一時間ほど経つと、林地帯を抜けることが出来た。
そしてーー。
「んだ、こりゃぁ……!?」
三人が辿り着いたのは、見渡す限りに広がる巨大な壁だ。
際限なく広がる壁に呆然としていると、
『命の理に逆らいし生者たちよ。汝らはいかなる用なりや』
「え!?」
どこからともなく、声がした。
上下左右を見渡す。いない。
『ここだ。運命に呪われし愛し子よ』
「わ!?」
壁に、目があった。
一つ二つではない。
百や千を超える、不気味な目がジークたちを見ていた。
「な、なんだコラ!?」
動揺するオズワンと、反射的に身構えたルージュ。
目だけでどうやって声を響かせているのか見当もつかない。
ジークは聖杖機の手を伸ばしながら、恐る恐る口を開いた。
「あなたは誰ですか?」
『我は冥界の番人。生者を拒む孤高の絶壁』
「はぁ」
『ここより先に行きたくば、我が問いに答えよ。神々の許可があらば答えられるはず』
「……!」
その場に緊張が走った。
神々の許可。
それは間違いなく、天界ではなく冥界の神々の事だろう。
無論、そんなものをジークたちが得ているわけがない。
「こ、答えられなければ……?」
『生者は冥界で生きられぬ。死んでもらう』
ごぅ、と無数の目が放つ眼光。
不気味な光を浴びて身体が強張り、喉がカラカラに乾いていく。
「分かりました」
『よかろう。では問う』
無数の目が一斉に瞑目して、
次の瞬間、カッと目を見開く。
『問う。死の神オクトヴィアスが愛した男は誰か?』
水を打ったような静寂が広がった。
ジークも、ルージュも、オズワンも応えられない。
顔を見合わせて「知ってる?」とアイコンタクトを送るが、誰も知らないようだ。
(死の神オルクトヴィアスが愛した男……それって人間? もしかして冥王?)
悪魔たちを率いる冥王は死の神の加護を受けたと言われている。
それによって死の理を手中に収め、悪魔たちを統率しているのだと。
(うーん、でも、違うような……)
そもそも死の神オルクトヴィアスが女神であることも初耳なジークだ。
神々の色恋沙汰など、天界のアステシアでなければ知りえないだろう。
下手に答えれば死んでしまうし、ここは慎重にーー。
「ハッ! んなもん決まってんぜ」
「え? 分かるの?」
「おぉともよ! てめぇ知らねぇのか? 子供でも知ってるっつーの」
ルージュが顔色を変えた。
「ちょ、まーー」
オズワンは高らかに叫んだ。
「答えは冥王メネスだ! 死の神に魅入られた死者の王! 常識だっつーんだよ!」
(えぇ……! それでいいの? 冥王で正解なの?)
ジークは子供時代、普通の子供とは違う生き方をしていた。
もしかしたら、オズワンたちのような獣人の中では常識なのかもしれない。
そしてそれは、ルージュも同じだ。
頭が痛そうにこめかみを抑えた彼女は、一縷の望みを抱いて番人を見た。
(ハッ! ここいらで兄貴にいいとこ魅せねぇとなぁッ!)
そんなことを思うオズワンである。
もちろん彼の内心など露知らず、ジークは門番の方を見る。
どうか正解であってくれーー。
『ーー否である』
「!?」
一切の容赦なく、番人は斬って伏せた。
『神と人の恋は禁じられた果実。死の神が愛したのは破壊神ネファケレスのみ』
「は、破壊神だぁ……!? んなの、終末戦争の時に死んだっつー神じゃねぇか!」
『然り。死の神オルクトヴィアスは、ただその男を想い続けている』
番人の声はそこで途絶えた。
ーー嫌な、沈黙だった。
まるで嵐が来る前のような静けさ。
不気味な間に耐えかねて、ルージュが「あーもう!」と叫んだ。
「このゴリラ馬鹿! どこまで駄目男なの!? もうちょっと考えて喋りなよ!」
「仕方ねぇだろうが! それ以外に答えが浮かんだのかあぁん!?」
「浮かばないから考えろって言ってんの! あからさまな答えに飛びつくとか馬鹿じゃないの!?」
やはり全員、冥王が真っ先に頭に浮かんだらしい。
ジークもそれ以外の考えは浮かばなかったから、オズワンに何も言えなかった。
当の彼は噛みつくような態度ではあるがーー
(クソ……言い返せねぇ。おれぁなんてミスを……クソ、クソッ!)
内心では汗をだらだらと流し、唇を噛みしめていた。
「まぁ、すぐに答えちゃったのはアレだと思うけど……それ以外浮かばなかったしね」
そんなフォローをしてから、ジークは視線を戻す。
ーー問題はここからだ。
ごぉん、ごぉん、と地響きが鳴っている。
上下左右どこを見ても何も見えないのに、音だけは響いてくる。
それはほぼ間違いなく、壁の向こうから響いていてーー。
『汝らは間違えた』
番人の目が血走っていた。
『盟約に従い、これより先に許可なき生者を入れることあたわず。汝らには死を与える』
「は、ハァ!? やってみろや、目ん玉お化けが! 目だけでどうやって
『汝らを死者にするのは、我ではない』
すぅう、と。
まるで空気に溶けるように、壁が消えていった。
だが、ジークたちが喜んでいる暇はない。
「嘘、でしょ」
沼地に見渡す限り魔獣が犇めいている。
十、百、千、万、と数えきれないほどの魔獣が赤い目を血走らせていた。
そしてその中央に。
「《三つ首の冥獣》…………!」
巨大な獅子の顔が、三つ並んでいる。
胴体はワニのような鱗に覆われ、下半身は狼のようだ。
冥界には詳しくない者でも、あの獣だけは知っている。
ーー悪い子の所には三つ首の冥獣が来るぞ。
そう言われて育った子供は、ジークだけではあるまい。
実際に目の当たりにした威圧感に呑まれ、一行は言葉を失っていた。
『甘受せよ。喝采せよ。冥界は汝らの死を受け入れようーー』