第六話 人の温もり
夢を、見ていた。
空に浮かぶ雲のように、大空の中を漂う夢。
『ーー目覚めよ』
風に流されながら、ジークは体を丸めて眠っている。
すぴー、すぴー、と寝息を立てる彼の耳に、聞いたことのない声が響く。
『ーー目覚めよ。我が寵愛を受けた愛し子よ』
「いのししの丸焼き……えへへ……おいしー……」
だが、どれだけ意識を揺さぶっても、よだれを垂らすジークには聞こえない。
声の主は苛立ったように声をあげた。
『えぇえい! 目覚めよと言っておろうが! 儂の声が聞こえんのか!?』
「う~ん。かあさん……あと五分……むにゃむにゃ……」
そう言ってジークは寝返りを打つ。
ヒュォオオオオオオ、と風が荒れ狂うも、ジークの意識は揺るがない。
『いつまで寝とるかこの馬鹿者ッ! あーあ。儂、もう知らんからな! せっかく五百年ぶりに儂の加護と適合する奴が見つかったのにこんな間抜けとは! せっかく力を与えてやろうと思ったのに!儂、もう知らんからな! ほんとに知らんからな!』
「むにゃむにゃ……おやすみなさい……」
『聞いとらんし! もうええわい!』
声の主はだんだんと意識の彼方へ消えていく。
ジークは声に気づくことなく眠り続けた。
◆
目が覚めると、見慣れない天井だった。
木目張りの天井。ふかふかの何かに包まれ、美味しそうな匂いが鼻腔を刺激する。
「ここは……」
「ーー起きたか」
「……ッ!?」
しゅばッ、とジークは勢いよく飛び起きた。
見れば、扉の向こうから皺だらけの女性がこちらを睨んでいる。
彼女の手には、対悪魔武器である聖杖機が握られている。
(あ、に、逃げ道は……ッ!)
ジークは咄嗟に周りを見渡す。
窓の鍵は開いていない。武器になるようなものはどこにもない。
ベッドの上には写真立てがあり、女性と息子らしき子供が笑っていた。
「……っ」
ジークは咄嗟に部屋の隅に避難した。
じぃ、と女性を睨みつけ、何が起きても対応できるように身構える。
「……まるで拾われた猫だね。こりゃ」
女性は聖杖機を下げた。
ジークは少しだけ警戒を緩めるが、油断はできない。
こちらを攻撃しないと油断させてから殺す算段かもしれない。
だとしたらどうやって攻撃をかいくぐるかーー。
そんなことを考えていると、女性は仕方なさそうに息をついた。
腰に片手を当てて告げる。
「助けてもらった礼も言えないのかい、ええ?」
「たすけ……?」
ジークは目をぱちぱちとした。
自分の身体を見下ろす。
そこには包帯が巻き付けられていた。消毒液の匂いもする。
「……助けてくれたんですか?」
「それ以外にどう見える」
「僕を、捕まえたのかと」
「アタシはそんなに暇じゃない。異端討滅機構に突き出すような真似もしない。面倒くさいからね。あんただろ? アイロンとやらが連れてる噂の半魔ってのは」
「……っ」
アーロンのことだろう。
聞いたことのある名にジークは身をこわばらせた。
「あたしは半魔に興味はないからね。出ていきたいなら出ていきな」
「僕が怖く、ないんですか……?」
ジークは恐る恐る問いかける。
すると、女性は「怖い? ハッ!」と鼻で笑った。
「アタシを誰だと思ってんだい。老いたとはいえ、これでもかつて名を馳せた葬送官なんだよ。『時空の魔女』テレサ・シンケライザってのはアタシのことさね。例え寝込みを襲われたって、アタシはあんたに殺されるほどヤワじゃぁない」
「……そうなんですか」
確かに言われてみれば、泰然とした彼女には隙がない。
ジークに彼女を襲う気など毛頭ないが、襲ってもかなわないことは想像ができた。
少しだけ警戒を解いて、ジークは頭を下げる。
「あの……ありがとうございます」
「フン。ほら、これでも飲みな。朝食の余りだけどね」
女性ーーテレサが示したのは、テーブルの上に置かれたスープだ。
ホカホカの湯気を立てるそれを見て、ジークはごくりと唾を呑みこむ。
(だ、ダメだ僕。背中を見せたら刺されるかもしれない。油断しちゃだめだ)
ーー食べたい。
ーーでも動きたくない。
相反する気持ちがせめぎ合うジークを見て、テレサは眉を顰めた。
「なんだい。まだ怪我が治ってないのかい。ったく、しょうがないね……ほら」
テレサは面倒くさそうにスープを持ち上げ、ジークに手渡そうとする。
ジークは食欲と戦いながら、湯気の香りをかいだ。
(毒は……入ってなさそうだけど)
「食べないのかい。食べないなら、もったいないからアタシが食べるが」
テレサはそう言ってスープを掬い、一口含む。
「ぁ」と声を漏らしたジークに、再びスープを差し出した。
「ほれ」
「……」
ジークはスープを受け取る。
それが限界だった。
「~~~ッ」
貪るようにスープを呑む。
口の中いっぱいに牛乳の優しい味が広がり、野菜の甘みで頬が蕩けそうだ。
およそ二年ぶりとなる、まともな食事。
あっという間に椀を空にしたジークは、目頭が熱くなった俯いた。
「どうだい、美味いだろ」
「……はい」
ぽろぽろと、涙がこぼれ出てくる。
数えきれないほどの悪意に晒されて、何度も何度もひどい目に遭わされて。
それでも時々触れる人間の暖かさが、こんなにも心を揺さぶってくる。
「美味しい、です。とても……うぅ、ぐす……」
こんなに美味しいものを食べたのは、五年ぶりだ。
父と母が生きていたあの頃の思い出が、まざまざと脳裏に蘇ってくる。
「……」
とめどなく溢れてくる涙で頬を濡らし、ジークは嗚咽を漏らす。
窓の外から降り注ぐ月光が、暖かく彼を包み込んでいた。
◆
「……寝たか。やれやれ。面倒なもん拾っちまったねぇ」
夜酒をあおりながら、テレサは呟いた。
視線の先、ベッドの上で寝息を立てているのはジークだ。
服ともいえないボロボロの布切れ。傷だらけの身体が痛々しい。
(この年でこんなにボロボロになって……どんな経験をしてきたんだろうね。全く)
最初に見たときは、いっそ殺したほうが彼のためなのではないかと思った。
人間ですら生きづらいこの世の中だ。
悪魔と人の血を引く彼にとって、この世は迫害と弾圧に晒される地獄でしかないだろう。
けれど、テレサは思い出す。
そんな地獄にあってまで、森葬領域近くにいた彼は手を伸ばしたのだ。
(だれか、たす、け……)
悪魔らしくない人間味のある肌、悪魔にしては短い耳。紅緋色に輝く瞳。
半魔の噂を聞いていたテレサはすぐにピンと来た。
あぁ、これが噂の半魔だと。
「……どうしたもんかね」
正直なところ、助ける義理はない。
テレサはまだ彼の名前も知らないし、この少年がここにいて幸せとも限らない。
ただ彼の顔を見ているとーー脳裏によぎる顔があるのだ。
テレサはベッドの上にある写真立てを見た。
亡き息子が今の自分を見れば、何と言うだろうか。
もしもあの子が育っていれば、ちょうどこのくらいの歳だっただろうか……。
テレサは感傷を振り払うように首を振り、
「…………まぁ、どうでもいいか」
好きにさせよう、とテレサは思う。
世界は彼にとって厳しいが、彼にとって人間は自分を追い詰める敵だ。
出ていくなら止めない。
ただ、もしも居場所を求めると言うのなら。
「寝床ぐらいは、くれてやるさ」
この無駄に広くて孤独な世界に。
そんな変わり者が一人居ても、神は咎めないだろう。
「ごほッ、ごほッ」
テレサは痙攣する胸をたたき、口元を拭う。
「……ま、暇だしね……ひと肌脱いでやるか」
◆
翌朝、目が覚めたジークはそぉっと寝床を抜け出した。
いつあのテレサが起きだしてくるか分からない。今すぐ逃げなければ。
(悪い人じゃ、なさそうなんだけど……)
ジークは人間の善性を信じることができない。
差し出されたパンが毒入りだったこともあるし、安全な場所に案内された事が罠だったこともある。
哀れな半魔に一時の情を感じても、すぐに心変わりするに決まってる。
「……でも、恩返しくらいはしなきゃ、ね」
ジークは探し物をするように周りを見渡した。
彼女に連れてこられたのは、森葬領域近くの丘に建てられた二階建ての家だった。見晴らしが良く、都市の壁と森葬領域の両方を見渡せる立地であった。
森をが近く狩りの拠点とするには最適な場所だ。予想通り、すぐに見つけた。
野原を駆けまわる、小さな兎だ。
獲物を見つけたジークは素早く身をかがめ、一目散に飛び出し、野兎を捕獲。
「ごめんね」
ゴキ、と首をへし折り、ジークは「哀れな魂に光あれ」と祝詞を唱える。
「ふぅ……」
ジークは野兎を抱き、家の入り口に置いた。
テレサに何か言ったほうがいいだろうかと考えて、すぐに首を横に振る。
そしてその場を後にしようとしたその時だった。
「ーー行く当てはあるのかい」
声がした。
振り向けば、扉に背を預けたテレサが立っている。
何もかも見透かしたような彼女に、ジークは首を横に振った。
「……ありません。けど、ここにいるわけにはいかないから」
「……アタシが怖いかい?」
「はい」
頷いて、ジークは付け加える。
「怖いです。あなただけじゃなくて……人間が」
「あんたも人間だ」
「……僕は半魔です」
ジークはおのれの鋭く長い耳に触れる。
「人間とは……違います。怪我の治りだって、ずっと早い」
「それでも人間だ」
「……っ」
ジークはひゅっと息を詰まらせた。
そう、そうだ。
自分は人間だ。そんなことは自分が一番わかっている。
でもそんなことを認めてくれる人はいなかったから。
世界が、人間がジークを認めてくれなかったから。
「だから、僕は……っ」
「別に、止めやしないけどね」
テレサは鼻を鳴らし、地面に置かれた野兎を手に取った。
「あたしはコイツの解体方法なんて知らないんだよ。こんな年寄りにやらせるつもりかい?」
「え」
「せめて血抜きを手伝いな。それから朝ご飯を食べて……それでも出ていきたきゃ、好きにすりゃいい」
そう言ってテレサは小屋の中に入っていく。
呆然と佇んでいたジークは「来ないのかい?」と言われてハッとする。
「本当に、いいんですか?」
「何度も言わせるんじゃないよ。あんたの好きにしな」
言われて、ジークは少し考える。
ーーここを出ても、行く場所なんてない。
先日のように神殿の跡地に行ったとしても悪魔がやってくる。
人の街に行っても追われることになるだけだ。
けれど。それでも。
ジークはゆっくりと足を引いた。
「……ごめんなさい」
「ぁ、おい!」
テレサが引き止める間もなく、一目散に森を駆けていく。
鋭い枝葉が肌を裂き、荒々しい風が半魔の髪を揺らす。
涙をこぼしながら、ジークは走った。
本音を言えば、信じたかった。
信じて見てもいいかもしれないと思ったのだ。
半魔である自分を広い、手当てをしてくれた彼女なら、自分を見捨てないかもしれないと。
ーーそう思って裏切られたことが、一体何度あっただろう。
今度こそはと思うたびに裏切られた。
異端討滅機構に通報され、石を投げつけられて村を追われた。
もう嫌なのだ、もう裏切られるのに疲れてしまったのだ。
たとえ今は大丈夫でも、人間は心変わりする生き物だ。
人の良い彼女が恐ろしい顔で迫ってくるーーその光景が何よりも怖かった。
だからこそ、
「ぁ」
「ギォオオオオオオオオオオオオオオオオオオ」
現実から逃げる哀れな半魔に、理不尽は容赦なく牙を剥く。
森葬領域に踏み込んだジークの頭上から、魔猿型の悪魔が降って来た。
「ぁ」
目の前が真っ赤に染まる、肩に激痛。何度も地面を跳ねた。
鋭い爪で肩を裂かれたと気づいた時には、魔猿が目の前にいた。
「ギィイイイ」
「ひッ」
ジークは抵抗と石を投げつけ、再び森の中を走る。
後ろから猛スピードで魔猿が追いかけて来るが、ジークとて逃げ足は速い。
何度もカーブ描きながら走るジークは、しかし。
「ぁ」
「……!? エルダー!?」
森の中を探索する、葬送官の一団と遭遇する。
「エルダーだ! 殺せ!」「矢だ、矢で狙え!」などと物騒な言葉を吐いて向かってきた。
違う、半魔だと、そう主張する元気もなく、踵を返して逃亡を再会する。
脇腹に矢が突き立った。激痛。しかし、足は止めない。止めたら殺される。
「ハァ、ハァ、ハァ……!」
葬送官の声が遠ざかり、どうにか逃げ延びたジーク。
しかし、迷い込んだのは魔猿型の悪魔が生息する巣だった。
「キー、キー」と耳障りな鳴き声をあげる悪魔に囲まれ、ジークは絶望する。
「いやだ、もう、いやだ。なんで……」
なんで自分ばっかり、こんな目に遭うんだろう。
なんでただ普通に生きたいだけなのに、こんな辛い目に遭うんだろう。
正直に、誠実にあろうとしているのに、なんでみんな石を投げて来るんだろう。
「僕は、生きてちゃ、ダメなのかなぁ……!」
父も母も居なくなり、
自分を受け入れてくれる人なんて、もうどこにも居ない。
生きているだけで誰かに攻撃される。この世界は理不尽な地獄だ。
「こんな事なら、もういっそのこと……」
死んだほうがマシではないのかと、呟いた瞬間だ。
いくつかのことが同時に起こった。
「ギィイアアアアアアアアアアアアアア!!」
ジークの周りを取り囲んでいた魔猿が一斉に飛び掛かり、
そして、その全てが肉の塊と変わった。
「え」
ぶしゃぁあ、と鮮血のシャワーを降らせながら崩れ落ちていく悪魔たち。
たん、と足音が響き、ジークの目の前に誰かが立った。
「《哀れな魂に、光あれ》ターリル」
祈祷詠唱。
ジークを襲った悪魔は見る間に葬魂され、光の粒が天に昇っていく。
そしてジークを見下ろしたのは、先ほど助けてくれた女性ーーテレサだった。
「ぁ、ぁの、」
助けてくれてありがとうございます。
そう言おうとしたジークに一歩近づき、そして。
パチィン! と。甲高い音が響いた。
手を振りかぶったテレサがジークを見下ろし、「ふーっ、ふーっ」と荒い息を吐いている。
「ぁ、ぁの」
「あんた、さっきなんて言った……?」
「ぇ」
聞いていたのか。
ジークは視線を彷徨わせ、口を開いて、閉じて。
結局は何も言わず口を閉じるジークに、テレサは柳眉を吊り上げた。
「全部、聞いてたよ……生きてちゃダメだって、本気で思ってんのかい……?」
「……だって、僕は半魔だから、誰も、受け入れてくれないから……」
バチンッ!と頬をひっぱたかれた。
雷鳴のような声が、森葬領域の森に響き渡る。
「子供が。生意気言ってんじゃないよッ!!」
ガシ、と乱暴にジークの襟首をつかむテレサ。
混乱を極める半魔に、テレサは鼻先を近づけた。
「生きちゃダメ? 生きる資格がない? んなわけあるかい!
子供はね、わがままを言ったっていいんだ。誰が何と言おうと、助けてもらう権利があるんだ!
「で、でも、僕は、半魔で、」
「だから、それが生意気だって言ってんだ!」
バチン!とテレサは再びジークの頬を打ち付けた。
「お前は、お前だろうッ! 違うのかい!?」
ひゅっと、ジークは息を呑んだ。
心臓の鼓動が弾け、ドクン、ドクンと早鐘を打ち始める。
ーー今まで誰も言ってくれなかった言葉。
ーー欲しくて欲しくてたまらなかった言葉。
恩義を忘れて逃げた半魔を追って森に入り、後を尾けてまで助けてくれる女性。
その真摯な眼差しが、ジークにまっすぐ突き刺さる。
「子供なら子供らしく、助けてくれと叫べ!
アタシは、アタシだけは全力で応えてやる! あんたが半魔だろうと何だろうと知ったことか!」
「……っ」
ジークはくしゃりと顔を歪め、恐る恐る問う。
「僕は、生きてて、いいの……?」
「当たり前だっ!!」
テレサは不機嫌そうに鼻を鳴らしたあと、襟首から手を離した。
ぽすん、と力が抜けて尻もちをつくジークに「ほら」と手を差し伸べる。
「帰るよ。アタシぁ腹が減ったんだ」
「……」
腫れ物に触るようにゆっくりと、ジークはその手を取った。
ぎゅっと握られた手のひらは熱くて、冬の寒さを和らげる焚火のように暖かい。
(まるで、母さんみたいだ……)
「そういや、あんたの名前をまだ聞いてなかったね」
歩きながら、テレサはジークを見下ろした。
そういえばそうだったと思いながら、ジークは頷いて、
「ジークです。ジーク・トニトルス。よろしくお願いします、えっと……テレサ、さん」
「ん。よろしくね」
森の茂みをかき分けて、ジークとテレサは家に戻った。
家の前に置いてあった兎肉を持ち上げ、彼女はため息を吐く。
「こんなもの置いて行って……ほら、さっさと解体して調理しな。言った通りアタシぁ出来ないんだ」
「はい。分かりました……ぇ、ぁ、でも」
テレサの後に続いて家の中に入ろうとするジークは、ふと思い出す。
「あの、解体が出来ないなら、昨日スープに入っていた兎肉はなんだったんですか?」
テレサは振り返って言った。
「馬鹿だね。買ってきたに決まってるだろう」
「……? そう、ですか」
「そんな事より、家に帰ったんだ。何か言う事があるんじゃないのかい?」
ジークは目を丸くする。
久しく言っていなかった言葉を思い出し、胸の中に暖かいものが広がっていった。
決壊しそうな瞼にぎゅっと力を入れ、震える声音で彼は言う。
「……ただいま、テレサさん」
「あぁ、おかえり。ジーク」
テレサはそう言って、柔らかく微笑んだのだった。