第六話 衝動
「ハァ、ハァ……」
「つ、疲れた……」
荒くなった息を整え、ジークは胸を抑えた。
まだ心臓がバクバクと鳴っている。今のは本当にギリギリだった。
「でも、なんとかついたんだよね」
ジークは顔を上げ、風景を眺める。
上空には、薄ぼんやりとした光が浮かんでいた。
周りは林のようだ。柔らかい腐葉土の上にジークたちは立っている。
「ここが、冥界……?」
後ろを振り返れば、木の洞に小さな『裂け目』がある。
こんなに小さいとなかなか見つからないだろうなとジークは思った。
「うーん。思ったより普通だね……?」
「普通じゃ、ないよ。この瘴気の濃さ……たぶん、普通の葬送官なら相当キツイよ?」
「そうなんだ?」
言われてみれば、林の周囲は毒々しい黒紫の瘴気が漂っているように見えた。
半魔であるジークは瘴気に人一倍耐性があるから、特に体調の変化はない。
これ『普通』の人にはきついんだ……とジークは心の中に刻んでおく。
「ハァ、ハァ……」
「っと、ルージュ?」
先ほどの戦闘がよほど堪えたのだろうか。
ルージュの呼吸はいつまでも荒いままだ。
「大丈夫?」
「大丈夫じゃ、ないかも」
俯くルージュの肩は震えていた。
両手で自分を抑え込むように、爪を突き立てている。
「ダメ……もう、我慢、出来ない……!」
「え!?」
がば、とルージュが顔を上げ、ジークに襲い掛かってきた。
「ルージュ!?」
馬乗りになり、彼女は熱い吐息を漏らす。
口元からは鋭い牙が覗き、唾液が滴り落ちている。
「ごめん、お兄ちゃん。あたし、欲しいの……」
「……っ」
「お兄ちゃんの初めて、あたしにちょうだい……?」
「ちょ」
ルージュの顔がゆっくりと近づいてくる。
ふわりと香る女の子の匂い、濡れた唇がジークのそれに、
(な、なにこの状況!? 僕たち兄妹っていうか初めてじゃないしそれ以前にリリアがやばい止めないと唇がうわもうくっついちゃやばいやばいすとっぷ!?)
がぷッ、と首筋に鋭い痛みが走った。
「!?」
けれど痛みは一瞬で、ちゅろちゅろ……と艶めかしい舌が首筋を撫でる。
そこから注入される快感電流が、ジークを仰け反らせた。
「ぅ、ぁ」
「ん、ちゅ、じゅろ……お兄ちゃんの、美味しい……♡」
「るー、じゅ」
「そんなに喜んじゃって。妹に押し倒されて血を吸われて嬉しいの? お兄ちゃん変態さんだね……♪」
「ちが、」
「もっと、してあげるね……」
艶めかしい声とは裏腹に、どうやらルージュは血を吸っているようだった。
最初こそ変な快感を感じたジークだが、そうと分かれば耐えられる。
数分待っていると、ルージュの息が落ち着いてきた。
「……もう、大丈夫?」
「あと、ちょっと……もうちょっとだけ」
だがルージュの吸血を、冥界の獣は待ってくれなかった。
ーーグルル。
「!?」
黒い狼だ。
頭には二本の角が生え、毛並みは棘のように鋭い。
(『黒禍狼』だっけ……確か、死んだ人間を呼びに来るっていう)
冥界に来る前にテレサに聞かされた魔獣だ。
終末戦争以前から冥界に住み着く、別名『死神の使い』と呼ばれる狼……
総勢数十匹の魔獣が、一斉に襲い掛かってきた。
「ちょ、ルージュ、早く退いて!?」
(無理やり立ち上がるとルージュを傷つけちゃうし、雷を撃とうにも……)
身体の陽力が乱されている。
恐らくルージュの吸血の効果だろう。血と一緒に陽力を吸われているのだ。
(あ、やば、やられ)
「ーーふぅ、ごちそうさまでした」
『…………ッ!?』
黒禍狼の身体が、宙に縫い留められた。
「へ」
ジークはぽかんと口を開ける。
見れば、黒禍狼の身体は地面から浮き上がった影に突き刺されていた。
「ルージュ……?」
彼女は立ち上がり、不敵に微笑む。
ジリ、と赤いオーラが迸った。
「もう大丈夫。待ってて。今この駄犬を懲らしめてあげるから」
『……っ!』
黒禍狼が怯えたように後ずさる。
だが、舌なめずりした捕食者は逃げることを許さない。
「あたしとお兄ちゃんの邪魔をした事、死んで後悔するといいよ」
ーー斬ッ!
生き残った黒禍狼の身体は真っ二つになって崩れ落ちる。
ルージュの放った赤い刃が、彼らを切り裂いたのだ。
「『緋撃爪』ってとこかな。うん。我ながらいい調子っ」
「今の……ルージュがやったの?」
「うん。吸血鬼としての力だよ」
ルージュの言葉に、ジークは「あぁ」と頷いた。
「そっか。元々の異能以外にも力が使えるようになったんだね」
人造悪魔創造計画によって半魔となったルージュは、重力の力を操る異能を持っていた。それに加え、一度死んだことで吸血鬼の悪魔となり固有の能力を手に入れたのだろう。上位の悪魔にはそういった固有の能力があるとは聞いたことがある。
「すごいね……」
黒禍狼も中級の魔獣で、そう弱くはない。
しかし、吸血鬼の悪魔は上級悪魔だ。
しかも自我を保ったエルダーとなると、中級など相手にならない。
恐らく今のルージュは、上級か、もしくは特級以上の力を持っている。
もしくは、吸血鬼の変異種と呼んだ方が正しいだろうか。
(テレサ師匠やオリヴィアさんが警戒するわけだ。ルージュが敵に回ったら相手出来る人限られてるし)
ふと、ルージュが上目遣いでこちらを見ているのに気づいた。
胸の前で拳を握り、きゅっと結んだ唇が、意を決したように開かれる。
「……お兄ちゃん。こんな妹、いや? 怖いよね?」
「嫌なわけないじゃん」
ジークは即答した。
目を見開いたルージュの頭を、ゆっくりと撫でていく。
「ぁ」
「怖くもないよ。ルージュは大切な妹だから。むしろ頼もしいくらい」
「……っ」
ルージュは肩を震わせた。
もしかしたら不安だったのかもしれない。
葬送官としてのジークが、自分を受け入れないと思ったのだろう。
「言ったでしょ。世界中の誰が敵に回っても、僕だけは君の味方で居るって」
「……ん」
ルージュがジークの胸に頭を預けた。
甘えたがりな妹に頬を緩め、二人はしばらく互いの温度を感じていた。
「……ふぅ。もう大丈夫。ありがと、お兄ちゃん」
「もういいの?」
問うと、ルージュの唇が嗜虐的に歪んだ。
「なぁに、お兄ちゃん。あたしとくっついていないと寂しいの? 妹のカラダで発情しちゃった? いけないんだぁ、浮気かなー?」
「ち、違うよ! 何言ってるのさ!?」
「えー、ほんとー?」
ルージュはジークの顔を覗き込んで、
「……お兄ちゃんなら、イイよ?」
「からかうの禁止! ほら、早くリリアを迎えに行かなきゃ!」
「あん、お兄ちゃんのいけず」
慌ててルージュと離れると、彼女はあどけなく微笑んだ。
その可愛らしい笑みが嬉しくて、ジークはつい許してしまう。
「とりあえず、ここから離れて話そう。いくつか聞きたいことがあるし」
「ん、分かった」
魔獣や悪魔は血に引き寄せられてやってくる。
早くここから離れなければ……と二人は惨劇じみた現場を後にした。
「ちょっと整理したいんだけどさ、ルージュ。君は吸血鬼の悪魔になって異能以外の固有能力を手に入れた。それは分かったんだけど、さっき僕の血を吸ったのは……」
「あぁ、あれね」
ルージュは唇に手を当てて、
「あたしも確信はないんだけど……あたしが普通の悪魔みたいに冥王の魔力を受け付けないのって、お兄ちゃんが関係してるみたいなんだよね」
「……僕の?」
「そう。ほらあたし、悪魔になりたての時にお兄ちゃんの肩を食べちゃったじゃない。それはもうがっぷりと」
「あれは痛かったね……」
「たぶんお兄ちゃんの肉を取り込んだことで、お兄ちゃんの特性? 加護の陽力? の一部を取り込んだみたいなの。たぶん、きっと」
ジークは苦笑した。
「たぶん多いね」
「あたしにも良く分かってないって言ったじゃん。で、さっきは魔力を消耗しすぎてお兄ちゃんから貰った力が薄れたから、冥王の意思に取り込まれそうになったの。だからお兄ちゃんの血を吸わせてもらって、自我を保ったってわけ」
「…………じゃあ、定期的に血を吸わなきゃダメなんだね?」
「……うん。たぶん。申し訳ないけど」
叱られる子供のように身を縮こませたルージュ。
ジークは彼女の肩を軽く叩いた。
「まぁ、それくらいで済むなら安いもんだよね。むしろ忘れないようにしなきゃ」
本来、ルージュがこうして自我を保っているのはありえない事なのだ。
エルダーではない悪魔は自我を取り戻したりしないし、冥王の意思に呑みこまれるのが普通である。この奇跡を、当たり前だと思ってはいけないとジークは自戒した。
「ルージュの事が知れてよかった。これからもよろしくね」
「……」
「ルージュ? どうしたの、顔が赤いけど」
「し、知らないよッ、お兄ちゃんの馬鹿! そういうとこだよ!」
「えぇ……」
理不尽に怒ったルージュにジークは困惑する。
これが噂の反抗期という奴か。女の子はやっぱり難しい。
ーーと、そう思った時だった。
ガサり、と土を踏む音。
ひゅ、という風切り音。
猛烈なスピードが何かが、迫っていた。
「…………………………ッ!」
ジークは本能的に背後へ剣を振りぬいていた。
ガキンッ!
「へェ……やるじゃねェか。オイ」
その男は赤かった。
鋭い角を生やし、丸みを帯びた尻尾が腰から生えている。
「ま、いい。死ねや、ボケ」
爬虫類じみた瞳が、ジークを射抜いた。
「獣人……!?」




