第四話 冥界へ
「あ、戻ってきた!」
ジークが目を覚ますと、ルージュの顔が目の前にあった。
ほっと息を吐いた彼女は直後に「ぷくぅ」と頬を膨らませる。
「お兄ちゃん、神域に招かれるなら言ってよ。びっくりしたじゃない」
「僕だってルージュが呼ばれるとは思わなかったんだよ。でもよかったじゃん、認めてもらえて」
「あれは保留だと思うけど……ぶっちゃけ痛いほど殺気があったし……」
「え? なんか言った?」
「お兄ちゃんの起き抜け顔って間抜けだから虐めたくなっちゃうなぁって」
「なんで!?」
そんなに間抜けかな?とジークは頬に手を当てるが、良く分からない。
起き上がると、どうやらベッドに寝かされていたようだった。
見れば、椅子に座ったテレサが酒瓶をラッパ飲みしていた。
「ひっく。おかえり、ジーク」
「はい、ただいま帰りました。僕、どれくらい……?」
「数分かねぇ。ま、そんなに長くないから大丈夫さ」
「そうですか」
「ーー素晴らしいですぞ、ジーク殿!」
「わ!?」
ぐい、とヤタロウが顔を突き出してきた。
「神域に招かれるだけでも素晴らしいのに、訊くところによれば他の神々もいたのだとか! 古今東西、これほど神々に近づいた人類がおりましょうか? 否、否! これがジーク殿の特異性、英雄たる所以なのです! よろしければ、このヤタロウに神域の様子をばーー」
「ごめんなさい無理です」
「がーん!?」
音を立てて崩れ落ちるヤタロウを一瞥し、ジークはルージュを見た。
「ルージュ。外に出てて大丈夫?」
「この人にはもうバレてるしね。まぁここなら外から見えないから」
「そっか。じゃあ、オウカさん。冥界行きの準備を……」
「わ、分かってござる」
ヤタロウは胸を抑えながら起き上がり、持っていた箱を差し出した。
蓋を開けると、そこにはブレスレットがあった。
「これは……」
「『還らずの腕輪』……遺体を残さないための腕輪でござる」
ヤタロウは言いにくそうに言った。
「冥界は地上に比べ、死んだ人間が悪魔になるスピードが圧倒的に速い。故に、冥界に潜る者はこれをつけねばなりませぬ。万が一、葬送官が冥界で命を落とした場合、このブレスレットは心臓の鼓動を瞬時に感知します。そして、身体に聖水が注入されて爆発するような仕組みになっておるのです。理由は……」
「敵に情報を渡さないため、ですね」
「そうでござる。葬送官であれば拷問に耐える訓練も受けていますから、早々口を割ることはないでしょう。悪魔にならない限りは」
つまり、これはそれを防ぐ装置というわけだ。
闇の神々の陣地に侵入するのだから、これくらいの措置は当然か。
普段これをつけない理由は、道義的な問題と、何より作るのに莫大な費用が掛かるらしい。
「最も、冥王率いる悪魔の軍勢は東方……暗黒大陸に陣取っておりますから、ジーク殿なら大丈夫だと思いますが」
「そうなんですか」
「ここエル=セレスタは冥界の中でも端の端に繋がっているので、あまり心配はないでござるよ」
ジークは思わずテレサを見た。
仏頂面で酒を呑んでいる彼女だが、気を遣って入り口を選んだ事は間違いない。
「師匠。ありがとうございます」
「アタシは一番近い所に飛んだだけだよ」
「……じゃあ、そういう事にしておきますね」
「フン」
テレサは酒瓶を置いて立ち上がる。
「用が済んだなら、さっさと行くよ。あまり時間はないんだからね」
「はい! ルージュ、また悪いけど」
「うん、分かってる」
ルージュが影に潜ったのを見て、ジークはほっと息をつく。
続いて、何か言いたげなヤタロウを見返した。
「ルージュの事は、秘密でお願いします」
「……承知いたした。今から行かれるので?」
「はい。一刻も早くリリアを迎えに行かなきゃなので」
「そうですか……ご武運を」
ヤタロウは表情を引き締めて一礼する。
本当に大丈夫だろうか、と下げた頭を見つめていると、
「素直に受け取っておきな。本来、冥界行きの儀式は異端討滅機構の承認が要る。この男はそれを無視してくれたんだ」
「え、そうなんですか?」
バレたら厳罰じゃすまない、と聞かされ、ジークはごくりと息を呑む。
言われてみれば当然だ。
異端討滅機構にとって冥界は禁忌。触れえざる場所なのだから。
(なんか、悪いことしちゃったな)
秘密にしていた冥界行きやルージュの事を知られていて、必要以上に警戒しすぎたかもしれない。
彼の好奇心は本物だろうし、隠れて監視のような真似をすることもやめてほしいが……
本来、半魔である自分は人々から忌み嫌われておかしくない存在だ。
ーーこの人は、最初から自分を『人』として扱ってくれた。
ーー半魔だからと見下さず、敬意をもって接してくれた。
それは誰にでもできる事はない、とジークは知っている。
何より、自分の為に異端討滅機構の規則を破るなどーー。
「ご、ごめんなさい。僕、自分の事ばっかりで……」
「いや、良いのでござるよ」
ヤタロウはふっと笑みを浮かべた。
「英雄に手を貸せるなら、これくらいなんでもござらん。アステシア様も褒めてくださろう」
「そ、そうですね……あの、ヤタロウさん」
正直、まだ距離感はつかみかねている。
だが、せめて人として恩義は返したい。
「帰ったらお話ししましょう。知りたいこと……僕が話せる範囲で、話すから」
ヤタロウはパァ、と顔を輝かせた。
「喜んで! ぜひぜひお話ししましょう! 一晩でも二晩でも、いやさ一週間でも!」
「それは無理です!」
やっぱりこの人は苦手かも、と思い直すジークであった。
◆
エル=セレスタの夜は明るい。
冥界の入り口が近くにある事もあって、サンテレーゼとは比べ物にならない厳戒態勢だ。
数百人の葬送官が港町を巡回し、悪魔の襲撃に備えている。
もちろん、冥界の入り口も例外ではない。
入り組んだ入り江を抜けた、誰にも分からないような海岸洞窟。
そこに、冥界の入り口はあった。
「あれが……」
「そう。冥界の入り口さ」
まるで、獣が手招きして呼んでいるようだった。
おいで、おいで、と押し寄せる波が後ろから寄せてきて、海風が背中を押してくる。
薄気味悪さを感じて、ジークは身震いする。
「あんな不気味な穴、どうして埋められてないですか?」
「何度も試みられたけど、無理だったよ。あれは終末戦争の時、冥界の神々が地上に出てきた時に生じた次元の穴だ。物理的にじゃなく、空間的に繋がってる。例え穴を埋めたとしても、あの場所が冥界と繋がっている事は変えようがない。むしろ塞ぐことであちらに勘付かれる可能性がある」
「……なるほど」
テレサは苦しげに顔を歪めている。
いくら神の加護があるとはいえ、この辺りは瘴気は高齢の彼女には苦しいのかもしれない。
「あの、テレサさん。ここで大丈夫ですよ」
「あぁ、悪いね。気を付けて行ってきな」
「はい! リリアと一緒に帰ってきますね」
本当に、テレサには世話になりっぱなしだ。
返しても返しきれない恩を貰っているから、申し訳なくなる。
(帰ったら、何か返そうかな。ぷれぜんと、ってやつ? リリアと一緒に選ぼうっと)
良し。とジークは頬を叩き、テレサを見上げる。
「じゃあ、行ってきます!」
そしてジークは歩き出す。
その先に、何が待ち受けているかも分からずにーー。
◆
洞窟の奥に消えたジークの姿を見送り、テレサは深く長い息を吐いた。
「行っちまったか……ゴホッ! ゴホッ!」
テレサは口元を抑える。
赤く染まった手を海水で洗い、物憂げにつぶやいた。
「アタシに出来るのはここまでだ。けど、本当にこれで良かったのかい?」
誰にともなく、テレサは呟く。
愛弟子には告げていない真実を、噛みしめながら。
「ジーク。冥界に行けば、あんたは……」
サァ、と。風が彼女の言葉を攫って行く。
一滴の涙が、テレサの頬を音もなく伝っていった。
「すまない……ジーク……」
◆
ーー同時刻。
エル=セレスタ湾岸部。
街ゆく人々の波を縫って、一人の神官が歩いていた。
青年は野暮ったい丸メガネをしていた。胸に抱いているのは一冊の本だ。
「いやぁ生の英雄はやはり格が違いましたな。拙者、感動し申した」
気ままに呟く青年に、目を向ける者はいない。
そのまま彼は路地裏の暗がりへ足を踏み入れた。
栄えている町ほど闇は深い。
終末戦争以後、死が悪魔の発生につながるようになってからは、貧民街やスラム街といった、人が勝手に野たれ死ぬような場所は駆逐された。街には無数の監視カメラが設置され、葬送官たちが巡回するようになった。一定の監視体制と葬送官の配属は、街を作る上で暗黙のルールとなっている。
とはいえ、人目のつかない薄暗い場所というのは、どうしてもあってーー。
「へ、へへ。おい、兄ちゃん。良いもん持ってんじゃねぇか」
「俺たちに分けてくれよ、なぁ。身ぐるみ全部置いて出て行けや」
ガラの悪い男たちが現れても、青年は顔色を変えなかった。
「いやぁ、貴殿らは運が良い。実は拙者、大変上機嫌でござってな?」
「ぁ?」
青年は丸メガネを外す。
爛々と輝く黄金の瞳が、男たちを射抜いた。
「ふざけ
一秒にも満たなかった。
舌を切られ、腕と足の腱を切断された男たちが地面をもがいていた。
「うむ! これで万事よかろう!」
「ぁ、ぁ」
「殺してしまっては悪魔になってしまうでござるからな、こうしておけば葬送官に拾ってもらえるであろうよ」
丸メガネを外した青年の瞳は、別人のように鋭かった。
髪をかきあげた彼の口元は、ニィ、と吊り上がっている。
そのまま彼は、奥へ、奥へと歩いていく。
やがて、黒ローブに身を包んだ男たちが現れた。
「ーー司教様」
「うん。今帰った」
「……いかがでしたか?」
「上々。いやぁ、あれは大した男だ。まさしく英雄。こちらに引き入れるには苦労するだろうさ」
「では、強制的に」
「それは無理だ。力づくで捕えられるなら、ミドフォードは失敗していない」
「……ならばどうすると?」
「こちらに来なければならない状況を作る。なに、そう心配するな。種は既に蒔いてある」
別人のような言葉遣いで、ヤタロウ・オウカは嗤う。
「彼は必ずこちらへ来るだろう。我ら悪魔教団の元へ、な」
底知れない闇へ、彼の姿が溶けていくーー。




