第九話 冤罪×逃亡
「ハァ、ハァ……!」
荒い息をついて、ジークは薄暗い路地裏の壁に手をついた。
がくがくと膝が震えて力が入らない。気を抜くと今にも倒れてしまいそうだ。
(一分も解放してないのに、ゼレオティール様の加護、消耗がめちゃくちゃ激しい……)
制御しようとすればするほど、力が強く飛び出してくる。
まるで暴れ馬だ。こっちの言うことなんてちっとも聞いてくれない。
ジークは呼吸を整え、周りを見渡す。
「とりあえず逃げてきたはいいけど」
状況は厳しい。
既に議事堂での異変が街に伝わり、放送の声がジークの心を突き刺してくる。
『緊急事態発生。緊急事態発生。大議事堂内にてアルマン・ミドフォード氏が殺害されました。逃走中の犯人は半魔、ジーク・トニトルス。耳が長く、赤い瞳が特徴です。年齢は十五前後、背丈は百六十センチほどで葬送官の服を着ています。もし目撃された方は、至急最寄りの葬送官へ連絡をお願いします。繰り返します……』
「……っ」
既に街中に手が回っている。
大通りに出れば葬送官が目を光らせ、通り過ぎる人々は恐怖で慄いていた。
──やっぱり、半魔なんてダメだ。俺は元から気持ち悪いと思ってたよ。
──ヴェヌリスの神霊を倒したって話も嘘よねぇ。そんなのありえないもの。
──見つけ出したら俺たちでやっちまおうぜ。あれは世界の害悪だよ、蛆虫以下のクソだ。
(……元の生活に戻ったみたいだ)
テレサやリリアと出会う前、ジークはずっとこんな悪意に晒され続けていた。
悪魔嫌いの人間にとって、この状況はさぞ気持ちいいだろう。
声高に嫌いなものを糾弾できるのだから。
(リリア……会いたいな。会いたいけど……今は帰れないよね)
このまま帰れば、ジークを追って大勢の葬送官が押し寄せてくる。
そうなればリリアを危険に晒すことになってしまうだろう。
(でも、どうにかリリアに知らせないと……)
そうジークが思った時だった。
「──みぃつけた♪」
「え?」
声が、聞こえた。
路地裏の奥側から、少女が歩いてきた。
「やっぱり兄妹だからかな? 何となく、お兄ちゃんのいる場所が分かっちゃったよ」
黒髪に、エメラルドの瞳。
先日ジークの前に現れた妹──ルージュが、そこにいた。
「街中の人がお兄ちゃんを探してるよ? 人気者だね」
「全然、嬉しくないのだけど……」
「あは♪ だから言ったのに、赤い花に気を付けて、って」
「……!」
ルージュの見せた凄絶な笑みに、ジークはハッと息を呑んだ。
街中から追われているこのタイミング、
赤い花のように咲いたミドフォードの死体。
電撃的につながった真実が、『妹』の姿を仄暗い色に染めていく。
「君が……ミドフォードさんを……僕を嵌めたの?」
「そだよー」
ルージュはあっさり認めた。
「まぁ実行犯はあたしじゃないし、黒幕とも違うのだけど。あたしは、万が一逃亡された場合の保険ってわけ♪」
「一体、何のためにそんなことをッ」
「分からない?」
ルージュは笑みを深めた。
「あなたが欲しいからだよ、お兄ちゃん」
「え」
「バケモノでありながら人間を保っているあなたが欲しいから、こんな茶番が組まれたんだ」
「どういう、ことさ」
「どうもこうもないよ。言ったことが全てだよ。分かってるでしょう?」
分からない。
彼女の言葉が何一つ分からない。
混乱するジークに、彼女は告げた。
「あなたはバケモノだよ。お兄ちゃん」
まるで耳元で囁かれているようだった。
彼女の声がゆっくり脳内に染み渡り、ジークの思考を犯していく。
「バケモノは人間と一緒に暮らせない。だから、必要としている人がちゃぁんと有効活用するの。それが、それこそがお兄ちゃんの生まれた意味だから。最初からお兄ちゃんの運命は決まっていたんだぁ。生まれた時から、こうなるように仕組まれていたんだよ。だから大人しく捕まったほうがいいよ?」
ジークは奥歯を噛みしめる。
目の前の彼女もまた、他の人間と同じだった。
ジークをバケモノだと決めつけ、理不尽を突きつけてくる。
こちらの話を聞く気もなんてハナからないのだ。
「君が何者か知らないけど……」
ジークはこんなところで捕まるわけにはいかない。
大事な人が、家で待っている。
「ごめんね」
ジークは一瞬でルージュの懐に潜り込んでいた。
聖杖機を振りぬき、意識を刈り取る横薙ぎの一閃を放つ。
「──フっ!」
相手が少女だろうと容赦はしない。
避ける軌道は既に見えている。あとはそこに剣を置くだけだ。
(この子は『敵』だ。僕を通じてリリアを傷つける。だから容赦はしない)
短い期間ながら、ジークが鍛え上げた剣速は上級葬送官に迫る。
さらに加護の力を加えれば、特級の変異種にも通じた神速の一撃だ。
「え、わ、ちょっと!?」
こんな小さな少女に、それを避けられる技量はない。
「──なぁんて。言うと思った?」
「え」
顎に強烈な衝撃。
直後、ジークはきりもみ打って宙を飛んでいた。
(なにが、え、僕、殴られた……?)
未来は見えていたはずだ。つまり、見えていない死角から殴られたのか。
ジークが気づかないほどの速さで、一瞬で、何の迷いもなく。
(とに、かく、受け身を……)
「ねぇお兄ちゃん。あたしを可愛いだけが取り柄の子供だと思ってなぁい?」
「……っ!?」
ルージュは空を飛んでいた。
吹き飛ばされるジークの隣に並ぶ形で、だ。
「あたし、これでも結構強いんだよ? 少なくともお兄ちゃんには負けないかな」
「ぁ、づぁッ!」
ジークは宙で回転しながら剣を振ろうとする。
だが、その腕は、ルージュに止められていた。
濡れた赤い瞳が爛々と輝き、妖しく細められる。
「可愛いなぁ。そんなにあたしにいじめられたいの? そんなに抵抗されたら、嫌でも屈服させたくなっちゃう……♪」
ガンッ! と壁に押し付けられ、ジークは呻いた。
肺の中の空気が押し出され、全身の骨が悲鳴を上げる。
ルージュはジークの顎を掴み、膝で股を固定し、顔を近づけた。
「ぐ、ぁ」
「ほらほら、抵抗して見せて。私をもっと悦ばせて? 早すぎる男は嫌われちゃうよ?」
赤く火照った、熱っぽい息が吹きかかる。
唇を嗜虐的にゆがませた彼女の言葉に、ジークは自由になる左足に抵抗を命令。
「こ、の……!」
少女の身体を蹴り上げる。
しかし直撃の寸前、恐ろしい密度の何かが、ジークの全身を襲ってきた。
「ぁ、が……ッ!?」
まるで馬が肩に足を乗せているようだ。
不可視の圧力がジークの全身を締め上げ、骨を砕かんばかりに負荷をかけている。
「どう? あたし、強いでしょ?」
ルージュは上気した頬をゆがませ、得意げに胸を張り、
「葬送官になりたてのお兄ちゃんには負けないよ。これがあたしの存在意義だもの」
「ぐ、ぅ……ッ」
「痛い? 痛いよね? もっと顔見せて?」
ゾクゾク、と興奮した笑みを浮かべた。
「ふふ。あぁ、最高♪ 強がる男があたしの前で悔しそうな目をするの、たまらなく気持ちイイよ」
「こ、の……!」
「そんなにあたしを悦ばせるなんて、さすがお兄ちゃん。好きになっちゃう♪」
ジークは抵抗しようと手を伸ばすが、たったそれだけの動作がすさまじく重い。
指先すら思うように動かない。
全神経を集中させても、ルージュを睨みつけるので精いっぱいだ。
(これは、加護……? 一体、何の……)
「加護じゃないよ」
ジークの心を読んだように、ルージュは言う。
唇に指を当てて、こてりと首を傾げた。
「分からない? あ、もしかして仲間に会うのは初めてかな?」
「な、にを……」
「じゃあこれなら分かる?」
ルージュは肩まで伸びた髪をかきあげた。
そこには──
「え」
その耳は長く鋭かった。
そしてエメラルドだった瞳は、血のように赤く輝いている。
(エルダー……じゃない。彼らの皮膚は青か紫だ。じゃあ、この子は)
ジークの脳裏に戦慄が走る。
「まさか、君は……!」
「そう、あたしは半魔だよ。お兄ちゃんと同じ、ううん。それ以上かな?」
人間が加護以外で超常的な力を扱うには、何らかの魔導兵器を使うしかない。
だが、死から蘇った人類は、加護以外にもう一つの力に目覚めることがある。
それが──
「異能……半魔なのに、異能を使うっていうの!?」
「そだよー? 出来損ないのお兄ちゃんと違って、あたしはちゃぁんとバケモノしてるんだから」
「……っ」
なぜ彼女は加護ではなく異能の力を使えるのか。
なぜ半魔なのか、なぜ頑なに自分をバケモノと呼ぶのか。
ジークには分からない。全く分からなかった。
だが、今重要なのは一つだ。
このままだと自分は捕まえる。そして死ぬまで囚われの身になるだろう。
もう、リリアにも会えなくなる──。
「いや、だ」
「……?」
「いやだ。僕は、まだ生きていたい……!」
「あはっ。お兄ちゃん、どこまであたしを悦ばせてくれるの? そんなにイイ目で見られたら、蕩けちゃいそうだよ……♪」
でも、とルージュは名残惜しそうに首を横に振る。
「そろそろ連れて行かなきゃ、あたしが怒られちゃう。続きはまた帰ってシようよ」
そう言って、彼女はジークに手を伸ばした。
ジリ、と雷が爆ぜた。
「!?」
「さっきから、好き勝手言ってくれるよね」
ゆらり、とジークは血反吐を吐きながら立ち上がる。
全身の骨が軋む。不可視の何かに抵抗しながら、全身に雷を纏う。
空中で反発しあう微細な電子粒子が、力を合わせて何かに対抗する。
ルージュは目を見開いていた。
「嘘、嘘、嘘だよ。電車もぺちゃんこにするくらいの重力だよ!? なんで動けるの!?」
「重力……そっか重力か。まぁどうでもいいや。悪いけど、もうどうなっても知らないから」
「何よ、ソレ、そんなの聞いてない! お兄ちゃんの加護はアステシア様の加護だけでしょ!?」
喚き散らした彼女は何かに気づいたように「まさか」と唇を震わせる。
「これが、お兄ちゃんの異能……? ううん。この神聖さ……加護。加護が二つあるっていうの?」
ジークは沈黙で応える。
──ゼレオティールの加護は、いわば切り札だ。
先ほどまで使わなかったのは、加護を使うことで消耗するのを避けるため。
ただでさえ制御出来ない加護を使うことで、逃げた後力尽きるのを避けたかった。
(けど、もうそんなことを言っている場合じゃない)
「なんで」
ルージュは震える声でつぶやいた。
先ほどの嗜虐的な笑みは鳴りを潜め、怯えた少女のように肩を抱く。
「なんで、お兄ちゃんばっかり……あなたばっかり、なんでッ!」
「……ルージュ?」
喉をかきむしるような慟哭に、ジークは目を丸くした。
しかしその違和感も一瞬。ふっと電源を落としたようにルージュは呟く。
「まぁいいや。それでもあたしが勝つし。何でも持っているお兄ちゃんは、あたしだけのものになるんだから」
「僕は君のものじゃない。そこを……退けッ!」
電撃によって引き上げた身体能力が、風すら置き去りにする。
パァン! と遅れてやってきた音が衝撃波を生み、周囲に亀裂を走らせた。
一瞬で懐に迫ったジークに、ルージュは反応できない。
(速い。予想以上に……ッ! ヴェヌリスの神霊を倒したっていうのもあながちマグレじゃないってことだね)
ルージュの神経伝達速度は〇.〇〇〇〇一秒前後。
常人をはるかに上回る反応速度だが……。
それでもジークのこれは回避できない。
まさに、雷速の一撃だ。
何よりも。
(この圧倒的なまでの陽力……もしかして大神の加護を二つ以上宿してるの……? なにそれ、反則じゃない!?)
加護が神の物である以上、使い方によるとはいえ──神格による強さの違いは否めない。
恐らくジークが宿すのは、六柱の大神、または同格のものだろう。
この、背筋に寒気が走るような圧力が、下級神のものであるはずがない。
(これが、天然の半魔ってわけ?)
ルージュは口の端に諦めにも似た笑みを浮かべた。
「さすがあたしのお兄ちゃん」
でもね、と彼女は冷たく言い放つ。
「戦いは、始まる前から終わっているんだよ」
「ッ!?」
死の具現が、ジークを襲う。
ぼとり、と何かが落ちた。
だがジークは構わない。
このまま剣を振りぬけば、それで終わりだ。
終わるはずだった。
「あ、れ?」
腕が、動かなかった。
それどころか、感覚もない。
恐る恐る腕を見る。ない。
ゆっくりと地面を振り返る。
血まみれの腕が、落ちていた。
いつも握っていた指が、手が。
綺麗な断面を見せて地面に池を作っている。
遅れて、赤い噴水がジークの肩から噴き出した。
「ぁ」
血、
血、
血、
血、
血、
血、
「ぁぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
ルージュは嗜虐的な笑みを浮かべた。
「『重力斬』。風と違って質量に縛られずあらゆるものを斬り裂く必殺の一撃。最初から勝負は決まってたんだよ」
そう、ルージュは万が一に備えて反撃を用意していたのだ。
もしもジークが自分に迫る力量を見せた時、すぐさま無力化できるように。
「逃げるなら腕の一本や二本は置いていけ、ってね♪ どうお兄ちゃん。二本目もイッとく?」
「ぁ、ぐ……ッ」
ジークは呻いた。
(もう、意識、が……)
反撃したいのに、立たないといけないのに。
血と一緒に身体から力が抜けて、視界が暗くなってきた。
「……うん。やっぱりまた何かあったらヤダし、足も斬るね。ちょっと我慢してよ、お兄ちゃん」
ルージュが手を振り上げた。
暗黒にも似た禍々しいオーラが、その手に宿る。
その瞬間だった。
「──そこまでだ」
旋風が、世界を駆け抜けた。
『……っ!?』
それはルージュの身体を突き飛ばし、軽やか動きで着地する。
華やかな金髪が風に揺れ、切れ長の目がジークを捉えた。
「間に合ってよかった。ジーク」
「おり、ヴィア、さん」
「後は任せろ。お前を捕まえさせはしない」
暖かい何かがジークを抱き上げる。
それが何か分からないまま、ジークは気絶した。
「……よく耐えたな」
だが、このままでは死ぬだろう。一刻も早く治療しなければ。
「彼を頼む」
「はい」
メイド服を着た女性がジークを抱きかかえ、斬り飛ばされた腕を拾う。
その様を見ていたルージュが、憎々しげに呟いた。
「特級葬送官……オリヴィア・ブリュンゲル」
「名も知らぬ少女よ。ここからは私が相手になろう」
「……さすがに、今、特級の相手は厳しいかなー。まぁ充分時間は稼いだし、ここらへんでいっか♪」
ルージュはそう言って、闇の中に紛れていく。
「待て、逃げるのか!」
「逃げるんじゃないよ。帰るの。でも安心して? すぐに会えるよ」
「……!」
ルージュが居た場所を剣が通り過ぎる。
路地裏の深い闇に溶けるように、少女の声が残酷に響いた。
「あなたたちは、必ずあたしに会いに来る。そういう運命なの。
だから待ってるね。お兄ちゃん──」