第二十四話 運命に抗え
「どう見る? アステシア」
「……まだ早いわ」
下界を覗き込みながら、アステシアは呟いた。
コキュートス。
冥界の冷気をまき散らす怪物は『煉獄の神ヴェヌリス』の眷属。
『変異種』となればその凶悪さは言うまでもなく、いくら修業を積んだとはいえ、まだ加護を得て二週間のジークが勝てる相手ではない。ジークを気に入っているアステシアとしては、この邂逅は不本意ーー
「ふふ……♪」
ーーでは、ない。
突如として降りかかる逆境。
神々すら敗北を断じるほどの実力差。
それでいい。
それがいい。
「ーー運命に打ち勝ってこそ、英雄ってものよね?」
叡智の女神は蕩けそうなほど上気した頬に手を当てる。
ーー勝敗は厳しい。
ーー実力的には格上に相当する相手。
だが、準備万端で敵を迎え撃てる機会など、そうあるわけではない。
むしろ後には引けない絶体絶命の状況でこそ、運命は人にさらなる牙を剥く。
そしてその時こそ、人の真価は試される。
未知、未知だ。
権能をフルに働かせても見通せない未来がそこにある。
「あなたはどうするの? ジーク」
勝つか、
負けるか、
ーーそれとも、戦わずに逃げるか?
それもいいだろう。
それも一つの選択だ。
叡智の女神は全てを尊重する。彼がどんな道を選んでも祝福しよう。
そして彼が運命に打ち勝ったその時こそーー
「うふ。うふふふ……♪」
「貴様、あの少年を気に入っているのではなかったのか。趣味が悪いな」
呆れ交じりに、ラディンギルが言った。
傍らに佇む友神に、アステシアは「何よ」と指を突きつける。
「あなただって、にやにや笑ってるくせに」
「おっと」
ラディンギルは思わずといったように口元に手を当てる。
武神である彼にとってジークは弟子。
だからこそ、強敵との邂逅を歓迎する。
半魔である彼がどのように育つのか、
そして育ち切った時、武神たる自分の好敵手足りえるのか?
果たして彼の武は、どこに行きつくのか?
ラディンギルがジークを育てていた理由は、その興味があってこそだ。
可愛がることと、突き放すことは時に矛盾しない。
彼らはジークを気に入っている。
だからこそ降りかかる災いを喜んで見守る。
ーー『ここで死んだらそれまでの男だったということ』。
二柱の神は言葉なく意志を交わし、アステシアは再び下界の窓を見る。
「さぁ、見せてちょうだい。ジーク。あなたの選択を」
◆
コキュートスと相対するジークは剣を握りながら、内心で震えていた。
一度目の邂逅が、なすすべなくやられた記憶が彼の心を苛んでいる。
(怖い、怖い、怖い、怖い、怖い……!)
震えを隠すことで精一杯だった。
アンナにあんなこと言ったけれど。
ジークは自分がコキュートスに勝てるなんて、一ミリも思っていなかった。
だだリリアやアンナにかっこつけたくて。
強がることで精いっぱいだった。
(無理だ、無理だよ。僕なんかが勝てっこない……!)
三メートルを超える、見上げるほどの巨躯。
氷で出来た巨人の手足は丸太のように太く、
巨大な戦槌を喰らえば身体がミンチになることは想像に難くない。
『震えているのか、フシュー……』
コキュートスが冷たくジークを見下ろす。
彼の発する一言は肋骨を滑って、心臓に冷たい刃を突き立てる。
『哀れ。愚か。穢れた運命に生まれし忌み子よ。せめて一思いに意識を飛ばしてやろう』
「……っ」
それが可能なことをジークは知っている。
コキュートスが強すぎることを身をもって体感している。
ーー勝てるか? 無理だ。
ーー逃げるか? 逃げられない。
だって自分は半魔だから。
どこまで逃げても追い立てられることを、知っているから。
怖い、
怖い、
怖い、
怖い、
死にたく、ない……!
衝撃が、ジークを襲った。
「……ッ」
情けなく震える半魔の身体が宙を舞う。
大槌をまともに喰らった衝撃で肋骨がへし折れる。
きりもみ打って地面を転がったジークは血を吐いた。
「がは、げほ……ッ」
(痛い、何してるんだ、僕は、まともに喰らって……ッ)
魔眼でちゃんと見えていたのに。
加護は発動していたのに。
金縛りにあったように、身体が動かなかった。
『フシュー……原型は、まだ残っているな……?』
どすん、とコキュートスが近づいてくる。
恐怖と死の具現が、今にもジークを殺そうと歩いてくる。
(無理だ。こんなやつ、僕は、僕は……)
『貴様を捕らえたら次はあの小娘どもだ……ここで死んでおけばよかったと後悔する苦しみを与えてやる。フシュー……』
………………………………………………は?
いま、なんて言った。
リリアを殺す? 僕の友達を、殺すだって?
がつんと、頭を殴られた気分だった。
ーーそう、そうだ。
僕が死ねばリリアも死ぬ。
僕を受け入れてくれた唯一の友達が死ぬ。
それをさせていいのか?
こんなデカブツに? こんな化け物に?
「ふざ、けるな」
『……?』
「ふざけるな……何を、何をやってるんだ、僕はッ!」
ジークは吠えた。
弱虫で情けなくてちっぽけな自分を殴り飛ばしたかった。
ーー怖い。
「怖いなんて、当たり前だ。リリアが死ぬほうがもっと怖い」
ーー死にたくない。
「一人きりの……あんな寂しい思いをするくらいなら、死んだほうがマシだ」
ーー無理だ、勝てっこない。
「決めつけるなよ、僕。何のために修業をしてきたんだ」
血反吐を吐きながら訓練場を走り回ったのはなんでだ。
何度も何度も殴られながら剣の地獄を避け続けたのはなんでだ。
ーー普通に暮らすため?
そうだ。でも違う。
ーー死にたくないから?
そうだ。でも違う。
「この時の、ためじゃないかッ!」
『……』
震えるほどの恐怖も、
呆れるほどの弱虫も、
今は要らない。
引っ込んでろ。
立て、
立て、
立って、戦えよ、僕。
ジーク・トニトルスは臆病で弱虫で情けない男だけど。
この世でただ一人の友を見捨てるような、卑怯者じゃないはずだ!
ジークはぎゅっと剣を握る。
魂からあふれ出る陽力がオーラとなって迸り、コキュートスの前に立ちふさがる。
『抗うと言うのか……愚かな。貴様の運命は、既に決まっているというのに』
「運命……だと?」
『そうだ。死の神オルクトヴィアスが定めた、運命の理からは誰も……』
「なら、ぶっ壊してやる」
『なに……?』
燃え滾る怒りを瞳に宿し、ジークは剣を向けた。
「ここで捕まるのが運命だと言うなら、その運命、僕がぶっ壊してやる!」
『穢れた血が、何を……っ』
「僕を誰だと思ってる」
怒りが恐怖を凌駕する。
双剣を構え、口の端を吊り上げたジークは言い放つ。
「僕は半魔だ。テレサ・シンケライザと武神ラディンギルの弟子にして、リリアの友。立ちふさがる運命をぶち壊して、ただひたすら未来に突き進む! それが僕だ。大好きな父さんと母さんのもとに生まれた、誇り高き半魔だ!」
『……っ』
「冥府の悪魔コキュートス。お前は僕が倒す!」
『やってみるがいい。フシュー……返り討ちにしてくれる』
睨み合いは一瞬、判断は刹那。
一人と一体は同時に動いた。
戦いが始まる。
◆
「ーー離して、離してよ! あなたたちに助けられるほど、あたしは落ちぶれてないわ!」
「うるさいです。黙ってください」
「大体、あいつが残って何になるの? ただ犬死するだけじゃない! あたしの怪我は軽いんだから、さっさと止まりなさい!」
言われた通り、リリアは氷のスロープを停止させ、地上に降りた。
背負っていたアンナを下ろし、彼女に向かい合う。
「そうよ。分かってるじゃない。下二級ごときが上級に逆らうなんてーー」
パァン!と音が響いた。
平手打ちを喰らったアンナは目を丸くしてリリアを見る。
「なに、してんの」
「それはこっちのセリフです。何言ってるんですか?」
リリアの瞳は怒りに震えていた。
今すぐこいつを張り倒してやりたい。
そんな感情がありありと現れていて、アンナはひゅっと息を呑む。
「上級葬送官は、助けてもらったお礼も言えないんですね」
「……っ」
「偉そうにしゃべっているだけで、助けてもらったのは誰ですか?」
「それは、あいつが勝手にーー!」
「ジークが勝手に助けていなかったら、悪魔になっていたのは誰ですか?」
淡々と正論を告げるリリアの言葉は、アンナの心臓に突き刺さった。
言い返せない彼女はぐっと奥歯を噛みしめる。
「それは、そうかもしれないけど……でも、」
「それに、ジークが負けると決まったわけではありませんよ」
「は? 何言ってんの。コキュートスは葬送官になりたての男が倒せる相手じゃないわ」
「じゃあ、あれはなんでしょうね?」
リリアはくすりと微笑み、ジークのいる方向を指さす。
アンナもつられて視線を向ければ、そこにはーー。
「え?」
ーー激戦があった。
雄たけびと雄たけびがぶつかり合い、甲高い金属の音が鳴り響く。
ジークの双剣が戦槌を受け流し、コキュートスの脇腹を斬りつける。
「ーーぁぁああああああああああああああああああああああ!!」
「ォォオオッ!」
舞い散る火花、競り合う両者、迸る力と力のせめぎ合い。
コキュートス相手に激戦を繰り広げる姿が、そこにはあった。
「嘘……どうして」
アンナは愕然とする。
ーー二週間。たったの二週間だ。
葬送官になりたての彼が、特級相当の変異種を相手に互角の戦いを繰り広げている。アンナだけではない。大侵攻に抗う葬送官たちまでも、その姿に目を奪われていた。
「ーーおい、あれ、半魔じゃ」
「嘘だろ。コキュートスとやり合ってんぞ」
「あいつ、葬送官になりたて……なんだよな!?」
あり得ない、とアンナは思う。
異常すぎる成長速度、そんなものでは説明しきれない絶対的な実力差が両者にはある。それなのに、彼はーー。
「ッチ。もう始めてやがんのかい。まったく、あいつも忙しないねぇ」
「お師匠様!」
空間がゆがみ、現れたのはテレサだ。
原野の中央でコキュートスと戦いを繰り広げる弟子を見て、彼女は鼻を鳴らす。
「ふん。まだまだ陽力の扱いが甘いね。帰ったらみっちりしごいてやる」
でもまぁ、と彼女は笑った。
「これでお前が認めるには充分なんじゃないのかい。オリヴィア?」
「……」
王都の城門から出てきたオリヴィアは、複雑そうな顔でうなずく。
「……そうだな。本当にアレを倒したなら、認めねばなるまい」
「……師匠」
「アンナ。いい加減に過去と決別すべき時だ」
「あたしは……」
アンナは唇を噛み、俯く。
ーー本当は、分っているのだ。
母の死にジークは関係ない。
全ては最低最悪の父親が原因であり、彼は自分を助けてくれただけなのだと。
あの時彼を責め立てた自分こそがーー罰せられるべき悪だ。
それが分かっていてなお、アンナはジークを責めざる負えなかった。
自分の罪を認めてしまえば、どうやって生きていけばいいのかわからなかったから。悪魔への復讐を糧に生きてきた自分の人生を、全否定されてしまうのが怖かったから。
「……お師匠様、すぐに彼女の治療をお願いします。わたしはジークに加勢を」
「あぁ。こっちは任せておきな。存分にやっておいで」
「……待って」
アンナは顔を上げる。
その瞳には、決然とした意思が宿っていた。