第四話 再会と別れ
その空間の内部は吹き抜けになっていた。
数えきれない量の本が納められた書架は円を描くように並んでおり、その中央には一組の座椅子と書見台が置かれていた。
空間をぜいたくに使った書見台は彼女の為に作られた特別製だ。
ここは彼女による、彼女のための、彼女が使うためにある図書館。
世界創世からの歴史が詰まっているとされ、神々でさえ来館を許されない禁忌領域。
『叡智の図書館』。そのロビーの中央に女神はいた。
蒼玉色の水晶の中で丸く眠る女神は、今にも起きて来そうな寝顔をしている。
そしてーーその水晶の前には。
「来ましたか、ジーク……全く、遅い、ですよ」
「ティアさん……!?」
血まみれで膝をつく、熾天使の姿があった。
血の池の中に佇む彼女は、ジークを見て安心したように微笑む。
「良かった。来てくれると、思いました」
「ティアさん……どうしてこんな……今すぐ治療しないと!」
まっすぐに駆け寄ったジークに対し、ティアは首を横に振る。
アステシアが入った水晶をちらりと見て、
「我が主をお願いします……ジーク。あの方は、偏屈ですが。
あなたと出会ってからのあの方を見るのは……楽し、かった」
「ぁ」
倒れ込んだティアの身体を抱き留める。
羽根よりも軽い彼女の身体は至るところに火傷があった。
医術に疎い自分でも分かる、今にも死にかけの身体。
「……っ」
ジークは後ろに続いてきたアイリスたちに目を向ける。
しかし、彼女らの誰もが首を横に振った。
もう、間に合わないのだと。
ティアの身体は徐々に光の粒に変わっていて、残された時間は少ない。
「ティア……あなたは」
「はい。アウロラ様。ここを、守って……ました」
「……なるほど。では、あの神々はここを守っていたわけではなく……攻めあぐねていたのですか」
「ドゥリンナ様の……力です。外なる神の隙をついて……大神たちを、世界にばらけました」
なるほど、とジークは重く頷いた。
世界を支える柱だという大神たちをアゼルクスが手元に置かなかったのはそう言うわけだったのか。叡智の図書館に居たティアは世界統一に巻き込まれ、いきなり飛んできたアステシアを守っていた。そして、たった一人でアゼルクスの配下たちと戦ったのだ。
ーー今にも死にゆく彼女に、自分は何が出来る?
「お疲れさまでした。ティアさん……後は任せてください」
ただ、笑いかけるしか出来ない。
せめて彼女が安心して死ねるように、胸を張るしかないのだ。
「僕は神殺しの雷霆……天界に名を馳せた毒舌天使の後輩です。
外なる神も、父さんも、何もかも……僕にかかれば、ちょちょいのちょいですよ」
にしし、とジークは笑う。
それを見てティアは何も言わず……ただ、花のように微笑んだ。
「……さようなら、ティア。私の友達……」
「ん、よく務めを果たした……えらい」
「あなたの魂に、安らぎがあらんことを」
神々とアイリスが別れの言葉を投げかけーー
彼女の身体は完全に光に変わり、空に溶けていった。
「……ありがとう、ティアさん」
呟き、祈りを捧げたジークは蒼色の水晶の元に近付いていく。
水晶に手を当てると、胸に刻まれた紋章が蒼い光を放ち、アステシアの水晶が粉々に砕け散った。降り注ぐ光の粒の中にふわりと降り立ったアステシアは、静かに目を開ける。ゆっくりとその場にいる者達を見渡して、寂しげに微笑んだ。
「……みんな、あの子を看取ってくれてありがとう」
「アスティ……」
「うん。ずっと聞こえていたから、大丈夫よ。
例え死してもあの子は私の眷属……いつの日か、輪廻の果てで巡り合うでしょう」
胸に手を当て、アステシアは静かに涙を流した。
ずっと眷属に支えられてきた叡智の女神は、主を守った熾天使に別れを告げる。
(さようなら。私の親友……)
そして目を見開いた彼女は、ジークを抱き寄せて。
「ぁ」
「ジーク、よく頑張ったわね」
「アスティ……」
「あなたの決意は伝わっている。全てを救うという道のりは険しいわ。
けれど忘れないで。あなたは一人じゃない。私も全身全霊で、あなたを支えるから」
「うん……」
アルを喪い、リリアを奪われ、妹や仲間と引き離され、アステシアまでも奪われていた。胸の中にぽっかり空いた空虚な穴を埋めるように、ジークは婚約者の身体を抱きしめた。
悲しみは消えない。悔しさも後悔も消えてはくれないけれど。
それでも、辛いことばかりで堪えていた身体が暖まるような気がした。
「ありがとう、アスティ……」
「えぇ。いつでも甘えてくれていいのよ」
「うん」
全てを包み込むような胸の中に顔を埋める。
涙を流す顔を見られてはならない。今、誰よりも辛いのはアステシアだ。
親友を喪ったばかりの彼女に支えられるばかりでは、未来の夫として立つ瀬がない。
「……ん。もう大丈夫です」
「そう? あと五時間くらいこのままでいいのに」
「長すぎますけどっ?」
「きっとあっという間だけどね」
ころころと、アステシアは笑う。
ティアを喪ったばかりでその笑みには力がないが……。
その事に触れるのは野暮というものだろう。
「……で、私たちは……いつまで、イチャイチャを見守れば、いい?」
「アステシア。寝所、行く?」
「お二人とも何を言ってるんですか、今はそんな場合じゃありませんっ!」
アイリスが顔を真っ赤にして叫んだ。
大人びているが、こういうところは見た目通り初心らしい。
ジークは思わず口元を緩めて、
「じゃあ、次に行きましょうか。他の大神たちを助けないといけませんね」
「そうね。道すがら聞かせてもらうわよ、アイリス。あなたにはいろいろと聞きたいことがあるんだから」
「あ、僕も」
「分かっています。全て説明しますよ」
アステシアを迎えた一行は再び空の旅を再開した。
◆
「私は時読みの一族に生まれました」
「時読みの一族……?」
そうして話し始めたアイリスだが、ジークは話が耳に入らなかった。
アウロラの氷はひんやりとしていて冷たいのだ。
すると、いきなり後ろから手が回ってきて、柔らかな感触が全身を包み込んだ。
「はわ!?」と慌てて振り向けば、アステシアが得意げな笑みでジークを膝の上に乗せていた。
「冷たいなら私の膝に乗っておきなさい、ジーク」
「いや、でも……」
「いいの。私が暖まりたいの」
アステシアは豊満な胸で頭を抑え、腹に手を回して逃げる事を許さない。
ハッキリ言って至福の一言で甘えたい気分だが、ここには他の人の目もあるわけで。
「……いやらしい」
冷たい目を向けてくるエリージアである。
「あはは」とジークが目を逸らすと、アウロラが何やら対抗した様子で。
「お姉さま。私の膝の上に」
「アウロラ」
「私たちは……姉妹。これくらい、当然」
ふふん、と薄い胸を張るアウロラであった。
妹の健気な応援にエリージアは涙ぐみ、素直に膝の上に座っていく。
何だコレ。
「ごほん。あのー……お話、進めてもいいでしょうか?」
アイリスが引きつった笑みで問いかけてくる。
「もちろん」と頷いたアステシアは、先ほどの単語に言及し、
「時読みの一族、ね。まさか、クロスディアが」
「はい。私は神と人の間に生まれた一族の末裔です」
時の神が終末戦争で死亡したというのはアイリス自身が言っていたことだ。
つまりは、それより以前に人界に降り立ち、神と人が結ばれたという事か。
そう納得するジークに、アイリスは静かに首を振った。
「それよりもっと前です、ジーク。カガクが発展する前の時代……まだ神々に自我が生まれたばかりで、言葉も拙かったころ……いわゆる神代の時代ですね。あの頃は人と神の間に子が生まれる事は珍しくなかった。ですがあなたも知っての通り、異端者は排除されるのが宿命。そのほとんどが魔女狩りによって殺されていく中、私たちは脈々と受け継がれる加護を封じながら、静かに暮らしていました……終末戦争の折、時の神が現れるまでは」
時の神クロスディアは外なる神との戦いで敗北を予見していた。
否、正確に言うならば万が一の敗北に備えていた、というべきか。
彼はレフィーネの記憶改竄が及ばない自らの一族に声をかけ、アゼルクスの復活に備えさせた。具体的には、異端討滅機構に所属していない国の救出や、レフィーネのような端末を見分けて監視する役目などだ。ルナマリアはこれを知っていて、レフィーネを初めて見たとき、アイリスを七聖将として迎えたのだ。
「ジーク。あなたの事も随分前から知っていたんですよ?」
「あ、そういえばあなたは……母さんの事も」
「はい。生まれたばかりのあなたは可愛かったです。私と出会ったことはもう覚えていないでしょうけど……セレスの膝に抱き着いて、それはそれは可愛かった」
「ぬ、ぅ……」
自分が知らない幼き自分を語られ、ジークは顔が熱くなる。
ころころと笑うアイリスは少女のような見た目だが、思ったよりも年齢がいっているのかもしれない。
「あの、アイリスさんって……」
「ジーク。それは禁句よ。戦争が起こるわ」
「あ、はい」
婚約者の心を読んだアステシアは目が笑っていない顔で制止する。
そう言えば彼女も世界創世の頃から生きている原初の神の一柱だ。
つまり彼女の年齢は……そこまで考えてジークは慌てて首を振った。危うく死にかけた気がする。
「私の役目は外なる神の存在を知る者達に協力を要請し、アレが密かに信仰され始めた村の調停をすることでした」
天界に潜んでいたレフィーネは外なる神がすんなり世界になじめるように、人界に干渉していたのだ。この世界の神々が信仰を力としていたように、アゼルクスは信仰を存在力に変えていた。彼の名が広がれば広がるほど、外なる存在がこの世界に根付いてしまう。その事に気付いたアイリスはアゼルクスの降臨を阻止すべく奔走していたのだ。
「アゼルクスに対抗するためには仲間を集める必要がありました。その時に出会ったのがセレスやルプス、そして冥王の死徒になっていたファウザー……ここに居るエリージア様やアウロラ様もその一人です」
「なるほどね……」
アステシアは納得したように頷いている。
膨大な知識がある彼女からすれば、アイリスの話は点と点を繋いでいく作業なのかもしれない。その『点』も知らないジークとしては彼女の話は寝耳に水で、そんな大変なことがあったのかという認識しかなかったが……一つだけ、聞き逃せない事がある。
「でも、父さんは……」
「はい」
アイリスは重々しく頷いた。
「外なる神アゼルクスから世界を救う計画……私たちは『終末計画』と呼んでいましたが、セレスが死んでからのルプスは狂い始めました。あなたを連れて暗黒大陸へ行き、一千万を超える悪魔を一人で倒そうとしたことがそのいい例です」
「……それは」
ジークの脳裏に父が生きていた頃の記憶が蘇った。
突然父に連れられて暗黒大陸へ向かい、悪魔の大軍を相手に散った父の姿が。
自殺、と取られてもおかしくない所業だ。一体、彼は何をしたかったのか。
「彼の目的はセレスを殺したこの世界を滅ぼすことです」
「……」
「そのために真なる悪魔となり、アゼルクスの受肉体となるために活動してきました。ジーク。あなたと戦ったのも、おのれの力をより混沌に近づける為でしょう。仮にもルプスはあなたの父。一時的にならアゼルクスの依り代となる資格は十分にあります」
「……そう、ですか」
一緒に彼を止めましょう。そう言って、アイリスは話を終えた。
協力者として暗躍してきた彼女の素性が知れて嬉しい反面、胸の中にはしこりが残る。
ジークは言葉に出さない違和感を覚えていた。
(終末計画……父さんの目的は世界を滅ぼす……? 本当にそうなのかな)
父が母を愛していたことは疑っていないが、どうにも気になる。
だって、そう。ルプスは世界最強だ。生前でさえ冥王と渡り合っていた怪物である。
外なる神の力なんて借りなくても、彼なら全てを滅ぼせるのではないか?
それに、終末計画とやらもそうだ。
世界を救うための計画になぜ終末なんて物騒な言葉が使われている?
本当にアイリスの言葉通りなら、『世界救済計画』とでもすればいいものを。
そこまで考えたジークは、疲れたようにため息を吐いた。
(……いや、もうどうでもいいか)
前を向き、英雄は現在を見据える。
(父さんが何を企んでいようがぶっ潰すし、アゼルクスも絶対に許さない。
今、僕が考えるべきことはあのくそったれ共をどうやってぶちのめすか……それだけだ)
口汚い言葉で自分を叱咤しつつ、ジークは前を向く。
悩んでいる暇はない。一刻も早くルージュや仲間たちと合流しなければならないのだ。
(というかさっきまで考えないようにしてたけど、みんな無事かな……)
ルージュが心配なのはもちろん、ヤタロウやギルダーン、ロレンツォやエマ、ファナやファーガソン兄弟。
やかましくも自分を慕ってくれるトニトルス小隊の家族が頭に浮かび、ジークはアステシアの手を握りしめた。
寂しさを堪える婚約者にアステシアは優しく応えて、頭を撫でてくれる。
「大丈夫よ。きっとみんな生きてるわ」
「……うん」
そっと囁く彼女に頷きつつも、やはり悠長にはしていられない。
世界の危機も大事だが、ジークにとっては仲間も同じくらい大切だ。
早く大神たちを解放して、彼らの事を探さねば……。
アイリスはどこかホッとしたように、
「色々と隠していてすいませんでした、ジーク」
「いや……仕方ないですよ。アイリスさんの話通りなら、名前を出すだけでかなり危険なんですよね?特にたくさんの人に知られれば知られるほど危険って……僕でも、誰かに話す事は躊躇うと思います」
まぁやり方は色々思うところはありましたけども。と言ってジークは笑う。
知らない間にアイリスと殺し合いになっていたところなのだ。こう言いたくもなる。
そんな話をしていると、一行は次なる目的地へ到着したようだった。




