第二話 託された想い
「どういう、意味ですか……?」
「言葉通りの意味」
窓に霜が降りるような冷気が、アウロラの声音に宿っている。
淡々と、まるで感じる事がないように。
「リリアがあそこで四大天使になるのは……想定の範囲内」
エリージアは興味なさげに欠伸を漏らした。
懐から取り出したハーブの音色が、風を裂く三人の間に流れている。
「想定の範囲内……って」
「むしろ……あそこで外なる神に取り込まれるために彼女を熾天使にした」
頭が真っ白になった。
気が付けばジークはアウロラを押し倒し、その首筋に刃を押し付けていた。
「お前……お前ッ!!」
「何を……そんなに怒っているの?」
こてり、とアウロラは首をかしげる。
犯罪を知らない子供のように、無知ゆえに大人の気遣いを笑う子供のように。
「ジーク……不思議に思わなかった? リリアは、あなたと違う。ただの人間。あんな何の変哲もない……可愛いだけの平凡な子が、どうしていきなり熾天使になれたの?」
「それ、は」
ジークはずっと疑問を持たなかった。
だってリリアは、六柱の大神が儀式で生まれ変わらせてくれたのだ。
アステシアも何も言わなかったし、リリアだって何も言わなかった。
「……気付かなかった? 嘘。あなたは薄々、分かっていたはず」
リリアは努力家で優しくて世界一可愛いけれど、その魂は平凡なもの。
天使の中の頂点、神の眷属となる熾天使になるには格が足りなさすぎる。
否、そもそも。
「天使は人間の生まれ変わり。だけど、熾天使になるのは天使の中でも一握り。徐々に、何百年もかけて魂をエーテルになじませ、器を大きく広げていく必要がある。あの子のように急速に変化すれば、器が耐えきれずに破裂する。私の力を以てしても、三年が限界」
「……じゃあ、リリアは」
「元々、熾天使になった時点であの子の寿命は短かった」
「……っ」
膝から力が抜ける。声が擦れて何も言えなかった。
緩んだ手のひらから這い出たアウロラは襟を正しながら続けた。
「おかしいと、思ったでしょう。ぽっと出の天使が熾天使になって、他の天使たちに優しくされるなんて。普通は、反発されるはず。人間がそうであるように……天使にも、自負がある。誇りがある。何も言わなかったのは……彼女が時間制限付きの熾天使だったから」
それでも。
例えおのれの寿命が短い事を知っていても。
全てが終わった時、例え自分が傍に居なくても。
今、ジークの力になりたいと願う少女に敬意を払っていたからだ。
「リリア、は……アスティも、何も。そんな素振りも……見せなくて」
「絶対に言わないように……と。リリアがお願いしたから。神々全員に、頭を下げて」
「……っ」
「神も人類を下に見る事はある、けど。彼女の想いを無下にするほど、野暮じゃない」
ジークは唇を噛み締めた。
彼女の気遣いに気付かなかった自分のバカさ加減を呪いたい気分だった。
だってそうだろう。自分は、この世界で誰よりも知っていたじゃないか。
神々が何の見返りもなく人類を助けるなんて、あり得ないのだと。
この理不尽な世界では自分の身は自分で守らなきゃいけなくて。
半魔の自分は誰にも頼れず、信じては裏切られることを繰り返してきたではないか。
大好きな人が死んで悲しくて。
じゃあ生き返らせてあげると、そんな都合のいい話がどこにある。
もしも本当にそんな話がまかり通るなら、メネスは冥王になってなどいない。
俯いた英雄は、涙を堪えながら激情に耐える……。
◆
アウロラは血が出るほど唇を噛み締めるジークをじっと見つめていた。
エリージアはジークの様子を見定めるように弓に手をかけている。
姉の気遣いに不要だと首を振って、アウロラはリリアを熾天使にした時の事を思い出していた。
『これが終末戦争の真実……そして神々さえもほんの一握りしか知らない、戦争の裏』
『…………』
『これは取引。私はあなたを前世の記憶を保ったまま天使に生まれ変わらせてあげる。
その代わり、あなたには協力してもらう。私の目的の為に……全てを懸けて。
自らの命を媒介にアゼルクスの力の一端を停止させる、冬の神の権能触媒として。
万が一、その時が来なかったとしても……リリア。あなたの命は、三年が限界。
それ以上はあなたの魂が神の力に耐えきれず……全身が破裂して、死に至る』
冬の女神の神域で、アウロラは告げた。
天界に満ちるエーテルを権能で停止させ、レフィーネに声を聞かせないようにして。
『それでも良いというなら、リリア・ローリンズ。
私はあなたを前世の記憶を残したまま、眷属として迎えようと思う……どうする?』
『……わかりました』
全てを聞いたリリアは一瞬たりとも迷わなかった。
おのれの命を生贄に捧げると言っているに等しい神に、忠誠を誓ったのだ。
『今これより、わたしはあなたの手となり足となり、目となる。存分にお使いください』
『立ちなさい。私の眷属、私の天使。今より私はあなたの主となり、あなたを導きましょう』
そうして、契約は成った。
この後、アウロラはおのれの命を捧げた眷属に問いかけたのだ。
『リリア……後悔、しないの? 恐怖は……感じない?』
『出来れば綺麗に死にたいな、とは思いますけど……後悔は、ありません』
リリアは愛おしそうに胸に手を当てていた。
暖炉に映る、冥界で戦うジークに暖かな眼差しを注ぎながら。
『世界と自分に絶望していたわたしを、彼は救ってくれました。
酷いことを言ったのに、優しい言葉をかけて許してくれました。
今度はわたしの番です。わたしは命を賭けて、彼の力になりたい』
そのために熾天使となるのが必要なら、喜んでこの命を捧げよう。
外なる神アゼルクスを倒すために必要なら、存分に使ってくれて構わないと。
自己犠牲とも取れるリリアの言葉に、アウロラは眉を下げた。
『死ぬのが怖い……とは思わない?』
『めちゃくちゃ怖いです。でもアウロラ様。わたし、怖さが無くなるくらい、信じてるんです』
リリアは暖かな笑みを浮かべて言ったのだ。
『ジークなら……わたしの愛するあの人なら、きっとどんな運命だって乗り越えてくれる。誰もが膝をつく絶望に立ち向かって、みんなを『幸せな結末』に導いてくれるって、信じてるんです』
だから必ず、わたしを殺してくれます。
リリアはそう言ったのだ。
◆
(リリア……あなたの男は、今、絶望を前に膝をついてる)
彼女の役割を果たすためには、混沌領域で彼女を殺す必要がある。
熾天使として契約した際に埋め込んだ権能触媒が、死をきっかけに発動するのだ。
そうすることで初めて、アゼルクスの絶対なる力は弱まり、倒すチャンスが得られるだろう。
(そう、その命を使っても倒すチャンスが得られるだけ。倒せるとは限らない)
それでも、誰かがやらなければならないことだ。
「……あなたたちの目的は、何ですか」
絞り出すように、ジークは言った。
喪失と無力感と後悔を噛み締め、英雄は未来のために立ち上がる。
「リリアを犠牲にしてまで外なる神を倒したい……それは、分かりました。
いや、全く納得できませんけど。でも……その先に得たいのは、何ですか」
「じいじ……ゼレオティール様の解放」
応えたのはエリージアだった。
ジークに敵意がないのを見て取ったのか、その手は弓から離れている。
「じいじの神核はアゼルクスの内側にある。さっきも一通り、じいじは完全に死んでない。もしも死んでいたら世界は滅ぶ……だからこそ、奴はじいじの神核を取り込んで、世界を白紙化している。破滅の後に創造があるように、白紙化された世界に自らの神核を根付かせれば、好きなように世界を弄れるから」
「……さっきから思ってましたけど『じいじ』って」
「悪い?」
ジークは首を横に振る。
「いえ……おじいちゃん子なんですね」
「そう。私たちは……じいじが……だから、私は……じいじの内に巣食っていたアレを殺すために……冥王についた。アウロラは……天界の側からじいじの動向を探るために天界に残った……じいじも、内側からアゼルクスと戦っているから」
彼女が言うには、これまでジークと話していたのはゼレオティールで間違いないという。ジークに加護を与えたのは、アゼルクスにとっても混沌の力が馴染みやすくするために好都合だった。だから見逃された。しかし、天界の神々はレフィーネに記憶を改竄されている。だからアゼルクスのことは誰にも言えず、ただ世界の為に一柱で戦っていたのだ。
そうこう話しているうちに空の旅は終わりを告げ、一行は中央大陸の最東端、とある街の廃墟に到着する。打ち捨てられた街の廃墟には人の姿が見えず、ただ自我を喪った悪魔が徘徊していた。その悪魔たちも神獣や魔獣と縄張り争いをしている。ジークは廃ビルの屋上からそれを眺めていた。
「それで、ジーク。どうする?」
アウロラの問いに、ジークはゆっくり頷いた。
「……あなた達と一緒に戦います」
「……いいの? リリアを、殺すことになるけど」
「殺させません」
きっぱりと、ジークは告げる。
必ずわたしを殺してくださいーーそう言った彼女の覚悟を無視して。
「例えどんなにか細い希望でも、リリアを助ける方法はあるはずです。
絶対に諦めない……リリアも助けて、アスティも助けて、みんなを助けてやるっ!」
そう、あの海岸で自分は決めたのだ。
例え全てを喪ったとしても決してあきらめず、一人残らず助けて見せると。
それこそが、理不尽に立ち向かうと決めた自分の原点なのだから。
「……ん。あなたはそう言うと思った」
アウロラは満足そうに口元を緩めた。
彼女とて、眷属を犠牲にすることに何の感慨もないわけではない。
ただこれまでどんな絶望的な状況も覆してきたジークならば、運命を打ち砕けるのだと信じたいのだ。
(リリア……あなたを信じる。それが、あなたを利用した、私の出来ること)
ジークとアウロラは視線を合わせ、微笑み合う。
エリージアは何か言いたげだったが、何も言わないようだった。
だが。
「無理です」
決意を固める英雄を、無粋な声が切り裂いた。
振り返れば、ビルの階段から一人の少女が上がってきていた。
光を受けてきらめく、海の欠片のような蒼い髪を濡らし、その瞳に憂いを滲ませている。七聖将第一席、アイリス・クロックノート。
「アイリスさん……待っている人ってあなただったんですね」
「はい。あなたが無事でよかった」
アイリスは笑みをこぼし、表情を引き締めた。
「先ほどの話ですが、リリアを救う事は無理です。諦めなさい、ジーク」
「そんなのッ……!」
「分かるんですよ……そうでなければ、ファウザーはあそこまで苦しんでいません」
息巻くジークを制し、アイリスは苦渋を滲ませた声で言った。
「外なる神アゼルクスの天使ーーあれは分霊のようなものです。神核を分け与えられている。もしもあの神本体がやられたとしても、四大天使のうち一人でも生き残っていれば神本体は再生する。実際、終末戦争の時に一度本体は倒せたのですよ。ですが、四大天使の一人から再生したアゼルクスに不意を突かれ、主戦力だった破壊神は死んでしまった……雷霆神も深手を負い、戦力は大幅に減少。そこからは、あなたも知る通りです」
終末戦争は泥沼となり、ルナマリアは始まりの七人を生贄に捧げることで世界を守った。消耗した外なる神本体を混沌領域に封じ、元老院がその鍵を守り続けることで、破滅を遅らせた。
だが、元老院のやっていることは臭い物に蓋をしただけで、絶大な力を持つ外なる神を封じ続けることは不可能だ。いずれ封印は内側から解かれ、世界が破滅に向かう事は分かっていた。
実際、封印から端末が這い出て、天界の神々に記憶改竄を施したのだ。
記憶を封じられている神々に代わり、アイリスは外なる神の対抗策を練り続けてきた。
時読みの女傑は、都合のいい願いを切り捨てる。
「今一度問いましょう。ジーク。我が盟友。敬愛すべき英雄よ」
顔を上げ、彼女は問いを突き付けた。
「世界を救うために、愛する人を殺すことは出来ますか?」




