第十話 潮騒の下
地平線からのぼる太陽が、聖なる地を照らし出す。
街の中心に深く穿たれたクレーターに地下から湖の水が流れ込んでいた。
ザァ……と水の流れる音は、頂上が消し飛んだ異端討滅機構本部にも届いている。
「派手にやったもんだねぇ……現場に居なくてよかった。俺、絶対殺されてたよ」
「相変わらず軟弱だな、ナシャフ! アゼルクス様についても変わらぬか!」
「俺はどっち側でもないよ。あくまで中立さ。俺は愉しければそれでいい」
【なら、なんで奴らを逃がした?】
音もなく宙を滑り、蛇の尾を持つアゼルクスは厳しい目でナシャフを見る。
周囲の土礫が彼の魔力で浮かび上がり、空気が張り詰めた。
【あそこで奴らを滅ぼしていれば、我は息子の身体を奪い、完全にこの世界へ定着出来たものを】
「本当にそうかな? 冥王を、ジークを甘く見ちゃいけないぜ、アゼルクス様」
ニィ、と道化は嗤う。
「愛する者を救うために彼が発揮する力はーー時に常識を凌駕する。
それしきの事、ルプスの身体を得たあなたならお分かりになるのでは?」
【……】
「それに、あなたも完全にルプスの身体に馴染んでいない状態だ。声が重なってるしね。すぐに乗り換える身体といっても、その状態で冥王と英雄を相手にするのはおこがましいぜ、混沌の王」
挑発的な言葉にアゼルクスは沈黙する。
中立という言葉が嘘でナシャフが向こう側についているなら滅ぼすつもりだったが、彼の言う事も一理ある。先ほどは防御に力を集中していたせいで、本来の力を一割も出せなかった。現に、あの場で奴らは誰も死んでいない。今の自分は蛹から羽化したばかりの蝶だ。この世界での飛び方を知らなければ、大空を飛ぶ鳥に捕食されてしまう。
【……良いだろう。貴様を許そう。遊戯を司る者よ】
「そりゃあどうも」
【どの道、全てを無に還すのだ。奴らがそれに巻き込まれれば上々。もしも抗うならば、全力で叩き潰せばいい……我が使徒、ラファエル、ウリエル」
アゼルクスが呼び掛けると、二人の天使が跪いた。
「は」
「ここに」
リリアの身体を得たラファエル、そして元はラナだったウリエルだ。
アゼルクスが頷き、
【お前たちに先達を紹介しよう……来い。ガブリエル、ミカエル】
空中に呼び掛けると、空間転移で二人の天使が現れた。
ラファエル、ウリエルの横に並ぶのは、同じ四対の翼をもつ女たちだ。
「主よ。封印からの解放。お喜び申し上げます」
「主よ。何なりとご命令を」
【ガブリエル、ミカエル、ウリエル。貴様らには世界の守護を任せる。
不穏分子どもを抹殺し、もしも我が元へ来ようものなら全力で阻止せよ】
「「「は!」」」
三人の天使は姿を消した。
アゼルクスは、最後に残った天使をじっと見つめる。
【ラファエル。お前には特命を下す】
ピリ、とアゼルクスの空気が変わった。
それは外なる神が初めて見せる、悲願であり執着であり妄執だ。
血を煮詰めた残酷な瞳を滾らせながら、絶対なる神は告げる。
【我が息子を連れてこい】
「……」
【神の依り代にして究極の素材。どんな力も内包し受け入れる混沌の化身。無限進化の可能性を秘めた神造兵器……奴がいなければ、我はこの世界に根付くことが出来ぬ】
「かしこまりました」
深く頭を下げ、ラファエルはその場から飛び立っていく。
遊戯の神はオッドアイを見せる天使の後ろ姿を見ながら呟く。
「さて。まだ微妙に意識は残っているみたいだけど……どうする、ジーク?
世界の為に愛する女を殺せるか? 諸共滅ぼすか?ふふ。あぁ、愉しいなぁ!」
壁も天井も吹き飛んだ屋上じみた場所で外なる神は地上を見渡す。
聖なる地に住まう三十万人がシェルターから出てきていた。
ひしめき合う人々の瞳は狂騒に染まり、誰もが手を掲げて叫んでいる。
ーーおお、偉大なるかな、偉大なるかな、一なる神アゼルクス!
ーー我らが父よ、我らが一なる神よ! 混沌の王よ!
ーー汝の世界に栄光あれ! 我らの主に永劫あれ!
ーー汝の支配に永久の祝福があらんことを!
ーー偉大なるかな、偉大なるかな!
老若男女問わず、子供から大人に至るまで同じ言葉を叫んでいる。
そこに種族の別はない。誰もが等しく同じことを考え同じことを喋る、楽園だ。
「王の威光が人類の意思を支配している……うん、いい感じじゃないか」
「そうかぁ? あたいは気持ち悪いけどな」
「ダッハハハハ。外なる神が定着するのにも必要な信仰だ。仕方あるまいさ!」
「……フン。くだらねぇ。オレは奴と戦えればそれでいい」
ヴェヌリスの吐き捨てるような言葉に、アゼルクスは振り向き、
【我が息子の天威の加護は封じた。何が出来ると?】
「ハッ! 甘いな。甘すぎるぜ。加護を封じただぁ? アレがそれで止まるタマかよ。
このオレが認めた男だぜ? 加護なんてなくともーーあいつは、必ず来る」
一年前、まだ加護に目覚めてばかりの少年が自分の神霊を撃退したのだ。
彼が秘めた可能性という力を、ヴェヌリスは誰よりも分かっている。
「キヒッ。誰にも渡さねぇ……あいつはオレの獲物だ」
そう言って、ヴェヌリスは炎に包まれて消えた。
イチカは眉を上げ、
「放っておいていいのかい?」
【捨て置け。好きにさせればいい】
アゼルクスは自分の側についた神と人を見やり息をつく。
こちら側の誰もが、外なる神に屈して付いてきたわけではない。
むしろその逆。誰もがおのれの欲望のため、願いのために元の陣営を裏切っている。
無理やり従わせようとすれば、逆にこちらに牙を剥きかねない危うさだ。
(だが……今はそれでいい)
どの道、自分の喉元に牙を届かせる男はただ一人。
混沌の申し子、ジーク・トニトルスのみ警戒していれば問題はない。
その傲然たる油断を、空の神は逃さない。
「ようやく、隙を見せたね」
【む……!】
ぐにゃりと空間が歪む。
アゼルクスは顔色を変えた。だが遅い。
懐から飛び出す六つの結晶。
世界を支える光が彼方に飛んで消える。
目にも止まらぬ早業。そんな事が可能なのは、空と同化出来る彼女だけだ。
アゼルクスは振り向き、そこに女神を見た。
皺の刻まれた口元が挑戦的な言葉をアゼルクスに投げつける。
「うちの大神たちは返してもらうよ」
【貴様……!】
完全なる不意打ち。
言い訳のしようもない油断を突かれ、アゼルクスは激昂と共に『力』を放った。
空間転移で逃げようとしていた空の神ドゥリンナは、それだけで身体が砕け散った。
血と肉の塊がどしゃりと崩れ落ちる。
「あぁ……」
切れ長の双眸が無念そうに歪み、
「あとは、任せたよ……じー、く」
空の神は光の粒子となって消えていった。
完全にしてやられた外なる神は憤怒に顔を歪ませる。
【あやつ……! 六柱の大神たちを……!】
「アゼルクス様、どうする?」
【決まっているーー追え。 大神たちの封印を解放させるな!】
「了解。じゃ、配下の神々に伝えとくよ」
ナシャフは楽しげに肩をすくめ、その場から去っていった。
他の神々や配下もまた、それぞれがいるべき場所へ去っていく。
アゼルクスはしばらく虚空を見つめ……ふぅ。と息をついた。
【……問題はない。例え大神たちが解放されたとしても……。
我に牙を届かせる者は一人だ。今のうちに、我も力を整えねばならぬ】
おのれの身に潜む、凶悪な雷獣を抑えながら、アゼルクスは世界に溶けて消えた……。
◆
潮騒の音色が、少年の耳朶を優しくくすぐる。
風に乗って運ばれる砂粒が、彼の肌を荒々しく撫でつけていった。
冷たい水に浸り、波に押された少年はハッと意識を覚醒させた。
「ルージュ!」
弾かれるように身体を起こしたジークは周りを見渡す。
あたり一面に広がる、白い砂浜。どこまでも続く海岸線に彼は立っていた。
波打ち際には瓦礫が散乱し、獣の雄叫びが遠くに聞こえる。
けれど。
「……いない」
直前まで手を伸ばしていた妹がどこにも居ない。
どんな時も手を握り、自分を支えてくれる恋人も、
暖かな包容力で見守ってくれる婚約者も、
カルナックに置いてきた、ヤタロウを始めとしたトニトルス小隊の仲間も。
あらゆる敵と共に戦ってきた、唯一無二の相棒さえーー
「…………っ、アル……ッ」
途端、とてつもない喪失感が去来し、ジークは膝をついた。
腰に手を当てる。魔剣の鞘はがらんどうだ。
ただ手の中に、魔剣の欠片が残っているだけ。
蒼白い欠片の輝きが、むしろ相棒のいない現実を突きつけて来るようだった。
魔剣アルトノヴァは、死んだ。
「クソぉ……!」
理不尽なこと、訳の分からない事ばかりが起こって、頭がおかしくなりそうだ。
リリア、外なる神、自分の出生、ルプス、そして仲間のこと。
喪失の苦しみがジークを襲う。理不尽な神の裁きが、心を叩き折ろうとする。
喪ったのは人だけではない。加護もそうだ。
(アスティの……力を感じない……ゼレオティール様の力もッ)
雷撃を繰り出そうと手のひらを上に向ける。しかし、いつもならおのれの内に感じる力は幻のように消えていた。どれだけ意識を集中させても、電撃の欠片すら出てこない。絶対防御領域に関しても同じだ。空間を拒絶できない。先視の加護についてもそう。目を凝らしても、未来が見えなくなっている。今まで当たり前にあったものを突然失った喪失感。胸にぽっかりと穴が空いたような気分だった。
ーーまるで、アスティと出会う前に戻ったみたいだ。
これまでジークを支えてきた先視の加護、天威の加護。
そして相棒の魔剣アルトノヴァを喪い、今やジークはただの半魔に成り下がっていた。残っているのは莫大な陽力とラディンギルの加護、そしてイリミアスの加護だけ。
今の自分に一体何が出来るだろう。
彼らに支えてくれなければ、自分なんて……
と。
一年前の自分なら、きっとそう思っていた。
「……行かなきゃ」
震える膝を叱咤し、ジークは全身の力を振り絞って立ち上がる。
ーーまだ全て取り返しがつかなくなったわけではない。
アステシアは封印されていて囚われの身。リリアは身体を乗っ取られた。
ルージュはどこかに飛ばされ、トニトルス小隊もまた、恐らく無事。
そう、死んではいない。まだ生きている。
立ち上がらない理由は、どこにもないのだ。
「絶対に……取り戻す」
万全の状態でも敵わなかった外なる神アゼルクス。
その強大さを知ってなお、立ち止まるわけにはいかない。
それに、
『必ずわたしをーー殺してくださいね』
リリアの言葉の意味を、ジークは考える。
なぜ彼女が直前になって口づけてきたのか、あの言葉の意味は何なのか。
その真意も確かめなければならないし、彼女の身体を取り戻すことは必須だ。
「例え加護がなくても……魔剣がなくても」
全てを喪った自分が出来る事など限られているかもしれない。
けれど、それが立ち止まる理由になんてならない。
目に見える者は消えたけど、それでも、培った経験だけは残っている。
「どこの誰の息子だろうと……僕は、僕だ」
恐怖も絶望も悲しみも、もうとっくに味わった。もう充分だ。
立て。立ち上がれ。
前を見ろ。泣いてる暇があるなら足掻き続けろ。
理不尽な運命に立ち向かうことこそ、おのれが定めた生き様だろう。
「……アル。見てて。君の分まで、頑張るから」
きらりと輝く蒼い欠片を胸にしまい、ジークは前を向く。
そこには波と波がぶつかり合う大海原があった。
魔獣と神獣が爪牙をひらめかせ、自然がかぼそい人の命を呑み込んでいく。
この広い世界に、自分だけが取り残されたようだ。
三界が一つになった世界。今やこの地球全土が未踏破領域同然である。
空には神獣が飛び交い、雲が形を変えて大地を呑みこむ未知の大自然。
これは序の口だ。きっとまだまだ自分の知らないものがある。
未知の環境、未知の敵、そして裏切り者達が自分を待っているだろう。
アゼルクス、ルプス、ヴェヌリス、ダルカナス、イチカ。強敵ばかりだが。
(上等だ……リリアもアスティもルージュも仲間たちも、誰一人奪わせない)
全てを取り戻すために。絶望の底から這いあがるのだ。
二度と迷うことはない。ただおのれの望む普通の暮らしを掴むために。
心を決めた彼の足取りに迷いはなく、砂浜にまっすぐな足跡が残っていく。
「必ず君をーー君たちを、救って見せる!!」
そして少年は、終末へと歩き出す。
第三部第二章『英雄の叛逆』了
最終章『世界の終焉』始




