第十五話 約束と別れ
「ーーこれが私の知る、神々が隠してきた全てよ」
そう言って、アステシアは話を締めくくった。
「……」
終末戦争の真実を知り、ジークは言葉を失っていた。
口を開こうとすると、唇が震える。吹雪に晒された時みたいに身体の芯が冷えきっていた。運命と神々に翻弄された男の物語は、それほどに衝撃的で、すぐには受け入れられない。ただ彼らの生き様は、生きた想いだけは、痛いほど伝わってきて。
「……じゃあ、おじさんは」
一拍の間を置き、ジークは震える声音で言った。
「あの人は、愛する人と、一緒にいたくて」
「世界の全てを犠牲にしようとした。彼は何を変えてもルナマリアを取り戻したかった。
そして今も……彼女と共に在る為だけに、世界の全てを巻き込んでいる」
傲慢で独善的で自分の考えを押し付ける、最低のやり方だ。
愛する人が死を受け入れているというのに、自分だけは拒絶する。
子供のわがままのようなもので、罪のない何十億人もの人間を殺してきたのだ。
ーーそれを責める資格が、自分にあるのか?
リリアが第七死徒オルガ・クウェンに殺された時、自分は何をした。
死を受け入れず、禁忌と呼ばれる冥界へ行き、取り戻したではないか。
子供のように泣きわめき、救いに縋り、異端討滅機構の規則も無視した。
もしも彼女が蘇りを拒絶したら、どうしていただろう。
もしも自分がメネスの立場だったら、どうしていただろう。
決して同じことをしないと言えるだろうか?
冥界に行った行為がメネスと違うと、どうして言える?
世界と女を天秤にかけて、女を選んだあの人を責める資格なんて。
「あなたとメネスは違うわ」
こちらの心を読んだように、アステシアは言う。
「あなたは目的のために罪のない人を犠牲にしたりしない。
自らが受けてきた理不尽を他人に押し付ける事を良しとしない。そうでしょう?」
「……そうでしょうか」
冥界で母の死の真相を思い出した時、ジークは確かに人類を憎悪していた。
憎くて殺したくて、もしもあの時、目の前に葬送官が居たら自分を抑えきれていた自信がない。その必要がなかっただけで、リリアを蘇らせるために人類を皆殺しにする必要があったとしたら……。
きっと自分は、メネスと同じことをしていただろう。
怖気が走るような想像が沸き、ジークは自分が怖くなった。
そう、だって、自分には出来る。
人類を皆殺しにすることが、きっと今の自分にはできてしまう。
本質的に、自分とメネスに違いなんて。
『ジーク』
不意に、リリアの声が脳裏に響いた。
悲しみと怒りの吹雪の中で凍えるジークを暖かい翼が包み込む。
『ジーク。何を聞いても、何があっても……自分を見失わないでください。
あなたがこれまで歩んできた道のりが、きっとあなたを支えてくれるはずだから』
「リリア……」
彼女にもらった言葉が、凍え切った心を溶かしていく。
過ぎ去りし日の想いに押しつぶされそうなジークを、彼女の想いが支えてくれる。
「自分を、見失わない。そうか……そうだね」
確かに自分とメネスは本質的に変わらないのかもしれない。
彼と同じ境遇であれば自分も同じことをしていたと思う。
でも、それでも。
この理不尽な世界に『もし』なんてことはない。
起きたことは変わらず、今の自分だけが全てなのだ。
ーー思い出せ、自分が何を背負っているのかを。
ーー感情に呑まれるな。為すべきことを為せ。
「ふ、ぅ……」
ジークは深く息を吸い込み、そして吐き出した。
頭の中を整理した英雄は鋭い眼光をゼレオティールに向ける。
「この戦争の全ては、あなた達が原因だったんですね」
「……」
「確かにメネスは……おじさんは間違いを犯した。決してたがえてはいけない道を歩いた。でも、その背中を押したのはあなた達だ。あなた達が、自分の為に人類を犠牲にしたんですね」
信仰という力を得るために神々は旧世界を滅ぼした。
結果的に闇の神々と敵対する事になったが、そもそも冥王を生んだのは神々だ。
『冥界の神々が反逆して死の理を覆した』?とんでもない欺瞞だ。
反逆したのは事実だが、世界を変える要因を作ったのは全ての神々ではないか。
ずっと不思議だった。
全ての神々の頂点、絶対なるゼレオティールが、たかが一柱の神に死の理を歪める事を許すだろうかと。その気になれば、彼が全てを止める事が出来たのではないかと、ずっと思っていたのだ。
神々にとって、人類はおのれを生かすための餌でしかない。
それが、それこそが、武神ラディンギルが最期に残した言葉の意味。
「……神々は、人類の味方じゃない」
「あぁ、その通りじゃ」
絞り出すような言葉に、ゼレオティールは肯定する。
言い訳もしようとしない庇護神を見てジークは俯き、深く長い息を吐きだした。
「……そう、ですか」
「ーー予想よりも、怒らないのですね。もっと義憤に駆られるかと思いましたが」
レフィーネが思わずと言った様子で口を挟む。
ジークは苦笑して、
「……まぁ、正直、今さらかなって。アスティだって最初は自分の知らない『未知』欲しさに近付いてきたし……ラディンギル師匠も、イリミアス様も、全部僕の為じゃなく、自分の為に加護を与えてきました。神々は、困ったときに助けてくれる都合のいい存在じゃない。信仰が欲しいから人類に加護を与えている……むしろ納得しましたよ」
「自分たちの為に旧世界を犠牲にしたとしても?」
試すような問い。
熾天使の中の熾天使はジークの一挙一動を見逃すまいと目を光らせる。
「英雄であるあなたからすれば、私たちは悪ではないのですか?
人類の味方をするあなたなら、怒ってしかるべきではないですか?」
「だって、どうでもいいじゃないですか。人類のことなんて」
ジークの乾いた笑みに、神々は言葉を失う。
空虚な瞳。触れれば吸い込まれてしまいそうな底知れない闇がそこにある。
それは彼が普段見せない、地獄を生き抜いてきた裏の顔。
「初めてアスティと出会った時にも言いましたけど……僕、今も人類の為に戦うのは嫌なんです。いや、もっと正直に言うなら、彼らの事なんてどうでもいい」
英雄らしからぬ言葉。聞くものが聞けば卒倒してしまいそうな発言だ。
事実、ジークと知り合って間もないレフィーネは柳眉を顰めている。
しかし、アステシアはジークの言葉に納得を得ていた。
(無理もないわ。ジークが生きてきた半生は地獄だった)
使徒化を習得するための契りで、アステシアはジークの記憶を覗き見ていた。
半魔として蔑まれ、行く先々で殺されかけ、騙され、泥水をすすった記憶。
奴隷のように扱われたことがあった。
親切の皮を被った女に毒を盛られたことがあった。
メネスの前世も大概だが、ジークのそれも常軌を逸している。
(ここまでまっすぐ育ったことだけでも奇跡みたいなものよ)
そんな事を思う婚約神の隣で、レフィーネは問う。
「なら、あなたは何のために戦っているのですか」
「理不尽が許せないからです」
飾ることなく、ありのままの自分でジーク・トニトルスは語る。
「こうしている今も、死が覆ることで親しい人たちが殺し合い、大切な人を奪われている。罪のない人たちが差別や偏見で不当に虐げられている。顔も知らない誰かの為じゃない。僕自身が、そんな現実が嫌だから英雄になった。この理不尽な世界を変えたいと思ったから。……だから、神々が原因を作ったことは憤りを覚えます。おじさんを弄んだことについても、許せない」
でも、と。
ジークは顔を上げた。
「僕が今背負っているのは旧世界じゃない。仲間の命だ」
「……!」
ジークの纏う空気が変わる。
その場の温度が一段上がり、燃えるような瞳で英雄は言った。
「あなた達のしたことは罪だ。自分たちを生かすために何十億人をも犠牲にした。
でも、そんな事よりも、僕は仲間の命が大事だ。今、身近にいる人たちを守らなきゃいけない」
起きてしまった事実は変わらない。
例え人類にとって彼らが許されざる大罪人であったとしても、どうでもいい。
メネスには同情の余地があるし、彼の気持ちは分かるが……。
それでも。
過去よりも今を。今よりも未来を。
自分たちが穏やかに、普通に暮らせる未来のためにジークはおのれの全てを賭ける。
ぽたり、とレフィーネの額から汗が流れた。
一なる熾天使は思わずと言った様子で額に手を当てる。
(汗……? この私が、あの少年に気圧されている?)
一歩、ジークは足を踏み出した。
レフィーネは動けない。アステシアは動かない。
ゼレオティールは玉座に座りながら、ジークと真っ向から向かい合う。
「真実を知った今、改めて問います。『一なる神』ゼレオティール。
我が盟友。我が庇護者。世界を創りし大いなる神よ。心してお答えを」
紅色の眼光が、ギラリと輝く。
「僕と共に、冥王と戦う意思はありますか」
「……」
「この理不尽な世界を終わらせ、穏やかな日常を過ごせる世界を。
誰もが自分の幸せを求める事が出来る世界を目指すと、今ここで誓えますか!」
カツン、と杖が鳴った。
ゼレオティールは立ち上がり、ジークの前に立つ。
「あぁ、誓おう。我が使徒。我が盟友。人の身から外れた人の英雄よ。
儂らはお主と共に、冥王を討つ。この長きにわたる戦争を共に終わらせよう」
「……うん。それが聞けて良かった」
ジークは雰囲気を弛緩させて、ほっと息をつく。
神々が人類の味方ではない。ジークがその真意を問いたかったのはこのためだ。
冥王との決着のため不死の都に挑むとなれば、冥王も本気でこちらを迎え撃つだろう。
そうなれば、闇の神々が本体を出してくる可能性がある。
その時の為に、ゼレオティールたちに協力をしてもらうのは必要不可欠だった。
レフィーネが呆気にとられたように、
「……あれだけ怒りを見せておいて、私たちに背中を預けるというのですか」
「それとこれとは別の話です。過去のことを僕が怒る筋合いはありません。
だって、過去がなかったら僕は今、リリアやアスティに会えなかった。
ルージュやカレンやオズや、トニトルス小隊の人たちに出会えなかった。それに……」
本来なら、神々はジークに五百年前の真実を語る必要はなかった。
曖昧に誤魔化し、嘘を塗り固め、真実味を以て語ればそれでよかった。
わざわざ本当のことを話してジークとの仲を悪くする必要はなかったのだ。
それでもあえて、彼らが話したのは。
「それがあなた達の誠意だから。そうですよね、セレオティール様」
「あぁ。お主には全てを知っておいてもらいたかった。
儂らの罪も、ルナマリアの献身も、冥王の歪んだ愛も、全てを知ったうえで戦ってほしかった」
「……この事、他に誰が知ってるんですか?」
「天界に居る熾天使は全員知っているわ。人類の中で知っているのはルナマリアと七聖将……それと元老院ね」
「なるほど」
この戦争の根幹にかかわる真実だ。知っている人間も限られている。
そもそも人類は神々の思惑以前に神々の力がなければ戦えないのだから、知る必要がないというべきか。わざわざ真実を触れ回って混乱を招くのは悪手だろう。
「……一つだけ、言っておきたいんですけど」
「なんじゃ」
「冥王を倒した後……もしもあなた達がまた罪のない人を犠牲に事を為そうとするなら」
凍えるような寒気がゼレオティールの背筋を奔る。
瞬間、レフィーネがゼレオティールの前に割って入った。
それほどに苛烈な殺気がジークから放たれたのだ。
「もしそうなれば……僕は、あなたと敵対する事を迷いません。お覚悟を」
「……あぁ、肝に銘じておこう」
ふっとジークは肩の力を抜いた。
話は終わったとばかりにアステシアの手を取り「行こ」と促す。
ちらりと後ろを気にしながらも嬉しそうに女の顔を見せるアステシア。
ばたん、と扉が閉まり、残された熾天使は呟いた。
「……やはり、彼は危険です。ゼレオティール様、本当に何の縛りもつけなくてよろしいので?」
「無論、我らがあの子の怒りに触れなければ問題ない」
「ですが……」
「くどい。レフィーネ。これは創造神として命である」
「……分かりました」
「それにのう、儂は信じておるのじゃよ」
ゼレオティールは微笑み、
「あの子なら、人類も神々も……そして悪魔も。全てを救う道を、きっと見つけてくれるとな」
◆
玉座の間を出たジークはソルレシアやデオウルスに挨拶し、魔剣アルトノヴァを受け取る。彼らはどこか様子をうかがうような表情だ。
今なら分かる。きっとアルトノヴァを預けさせたのは、ジークが暴れると思ったから。
「そんなに緊張しなくても、何もしませんよ」
「……そ。そうかい?」
「貴様が暴れれば我らも無事では済まん。笑いごとではないのだぞ」
「その話はもう済ませましたから」
魔剣を腰に佩くと、彼らはようやく肩の力を抜いたようだった。
表情をゆるめたソルレシアにジークは水を向ける。
「ソルレシア様、今日も仕事ですか?」
「ん……? あぁ、まぁね」
「その仕事って……あなたがやっている天界の運営って、信仰の管理ですか?」
後頭部を掻いていたソルレシアは目を見開き、顔を上げる。
ジークの瞳に批難の色がないのを見てから、彼は困ったように笑った。
「あぁ、そうだよ。自我の消えかけた兄弟たちが出ないように、人類の信仰を管理してる」
「信仰の薄い神々には神霊を出させたり?」
「そうだね。その通りだよ。軽蔑するかい?」
「……いえ」
人界で街が滅びかけても神霊が現れないのはこういう理由だったのだ。
確かに思うところはあるが、彼の行動理由はきっとそれは家族を守りたいから。
先ほども言ったように、今のジークに彼の行動に怒る資格はない。
「神々に頼らなくても、大事な人は自分の手で守ります。今までも、これからも」
「……そっか」
「はい。では、さようなら」
「う、うむ。ではな」
変わらない態度を見せるジークに彼らは戸惑っていたが、気付かない振りをした。
別に彼らの事が嫌いなわけではないが、立ち話をする間柄でもない。
「ジーク、よかったの?」
そう思って御所の出口に向かっていると、婚約者が問いかけてきた。
遠慮がちに握られた手を見つめながら、彼女は申し訳なさそうに、
「私、全部知っててずっと黙ってたのに。このままでいいのかな……って」
「……まぁ、僕も聞かなかったし」
ずっと母から与えられた情報を鵜呑みにしていて、神々の事を疑いもしなかった。
だから神々が原因という発想が出てこなかっただけで、きっとアステシアは聞いたら教えてくれたと思う。
けれど、今、彼女が辛そうにしているように、彼女もまた神々であるという事実は変わらない。
「旧世界の人類には悪いけど、僕、アスティの方が大事だから」
今、アステシアと共に居られるのはゼレオティールのお陰だ。
その事があるから、ジークは余計に創造神を責められないでいる。
彼が守ったアステシアを、今の自分はどうしようもなく愛してしまっているから。
「だから、いいんだ。アスティは、僕と一緒に居るの、嫌?」
「い、嫌なわけないじゃない! 私だって人類のことなんてどうでもいいわよ!」
「声高に言うことでもないけどね。神様なんだし」
くすくすと笑うジークに、アステシアは不満げに頬を膨らませた。
「私、もうちょっと威厳あるお姉さんだった気がするのだけど。
いつからこうなっちゃったのかしら。ジークも言うようになったわよね」
「いららら! いらいって! あすひぃ!?」
ぐぐ、と頬をつねられて悲鳴を上げるジークである。
それでアステシアは留飲を下げ、ころころと笑う。
「でも、嬉しいわ」
「僕のほっぺたをいじめたことがっ?」
「じゃなくて。敬語、外れてきたから」
思わぬ言葉にジークはハッと自分の口元に手を当てる。
見れば、悪戯が成功したお姉さんはニコニコと笑って、
「なんか距離が近づいた気がするの、私だけかな?」
「……アスティも、なんだか人間っぽくなってきたのは気のせい?」
「ジークの影響ね。私、あなたのこと大好きだから」
ジークの顔が沸騰した。
「~~~~~っ、不意打ち禁止です!」
「あ、また敬語!」
「自業自得ですよ!」
言って、ジークは逃げるように御所の出口に走り出す。
アステシアもつられて走り出して、誰も居ない広場で二人は笑い合った。
二人で参道を歩いて行き、やがて分かれ道に出る。
「……私は此処までね」
名残惜しそうに、アステシアは手を離した。
温もりの消えた手を寂しく思いながらも、ジークは婚約者の目を見つめる。
「アスティ」
「これ以上一緒にいると、付いていきたくなるから。だから、ここでお別れ」
吸い込まれそうな夜色の瞳にみるみるうちに涙が溜まる。
ジークは手を挙げて、下ろした。
抱きしめたくなる衝動を抑えて「うん」と頷きを返す。
「またね。今度直接会えるのは、きっと全部終わった後だ」
「えぇ。待ってる」
たん、とアステシアは足を踏み出した。
二人の影が一つになり、燃えるような熱が唇を覆う。
婚約者の温度を噛みしめるように、ジークは背中に手を伸ばした。
けれど、彼女はジークの手から逃げるように身体を離して。
両手を後ろに回したアステシアは、少女のように笑うのだ。
「待ってる」
「……」
「ずっと待ってるわ、ジーク」
「うん……絶対に、また一緒に」
アステシアは笑って、
「さぁ、早く行きなさい。リリアが寂しがってる」
「うん……じゃあね」
「えぇ、また」
分かれ道に足を踏み出し、神の花婿が去って行く。
何度もこちらに振り返り、手を振る婚約者をアステシアはずっと見つめていた。
「……アステシア様、こちらをどうぞ」
「……ティア」
横から差し出されたハンカチに、アステシアは視線を横に向ける。
常に主を見守る熾天使は、いつものように佇んでいた。
「よく、我慢しましたね。もう良いんですよ」
「……っ」
言われて、アステシアの眦が決壊する。
とめどなく溢れる涙が視界を濡らし、叡智の女神は眷属の胸に飛び込んだ。
「ティア……私っ、怖くて」
「はい」
「ラディンギルと戦わせて、戦争の事も、ずっと黙ってて……っ。
嫌われて当然の事ばっかりしてるのに、嫌われるのが怖くて……っ」
「えぇ、そうでしょうとも」
それなのに、ジークは受け入れてくれた。
神核もまた、アステシアの一面なのだと。
良いところも悪いところも受け入れて、それでも愛してくれた。
「……あの子と出会えてよかった」
「……はい。私も、アステシア様と出会ったのが彼で良かったと思います」
主と眷属は微笑み合い、帰路につく。
「ジークの部屋も作っておかなきゃね。ティア、頼んだわよ」
「お任せください。アステシア様が夜這い出来るように二人の部屋を繋いでおきます」
「うん。リリアが怖いからやめましょ?」
正妻に怒られた記憶を思い出し、肩を震わせる叡智の女神。
そんな主を見て、ティアは仕方なさそうに肩を竦めるのだった。
◆
ーー天界、入り口。
「……くっちゅん!」
「どうしたの、リリア。もしかして風邪?」
「いえ。なんか不本意なことを言われているような……気のせいでしょうか」
リリアは肘をさすりながらそんな事を言う。
気のせいじゃない?と笑いながら、ジークはこれまで来た道を振り返った。
「ん……なんか色々あったけど、やっと帰れるね。ルージュ、怒ってるだろうなぁ」
「二人で一緒に謝りましょう。許してくれますよ……かなり甘えられると思いますが」
「あはは。まぁ、そうだね。僕もちょっと寂しかったし、一緒にシャワーを浴びるくらいなら……」
「はい?」
「え?」
ジークとリリアは顔を見合わせた。
きょとん、とした目でリリアは言う。
「ジーク。ルージュと一緒にシャワーを浴びたんですか?」
「え、うん。なんかおかしかった? ルージュは兄妹なら普通だって言ってたけど……。
ヤタロウも、他のみんなも普通だって言ってたけど。あれ? もしかして、ルージュの嘘……?」
「……」
焦ったように汗をだらだらと流すジークである。
リリアが何も言わないのもかえって恐ろしい。お願いだから何か言ってくれ。
「あの、リリア?」
「……いえ、なんでもありません」
リリアはどこか苦笑気味に首を振り、
「兄妹でシャワーは普通ですよ。むしろ恋人同士と妹が一緒に入るのも普通です」
「え、そうなの?」
「ですです。全くの普通ですよ。わたしも一緒に浴びて良いですか?」
「え、うん、それはもちろん。普通だもんね」
「はい、普通ですよ」
リリアは頷きながらも、内心で手を合わせる。
(ごめんなさいジーク。正直全く普通じゃないです。普通に考えれば仲良すぎです。
でもわたし、お姉ちゃんとして応援するって決めたので。ルージュの援護は惜しみません)
むしろ妹がそこまで攻めていることに驚いたリリアである。
ジークが周りに聞くことを読んで口裏を合わさせたのも巧み過ぎる手腕だ。
とはいえ、一緒にシャワーを浴びることが、逆に彼女を『女』より『妹』として意識させる危険性もあるが……。それはルージュも承知の上だろう。頑張ってください、ルージュ。と、リリアは恋人に隠れて妹にエールを送る。
「ところで……トリスさんは、置いて来てよかったんですか?」
「ん? まぁいいんじゃないかな。イリミアス様が送り返すって約束してくれたし」
ジークが迎えに行ったときには部屋に閉じこもって出てこなかったトリスだ。
ラディンギルとの戦いを見て思うところがあったのか、一心不乱に鍛冶に取り組んでいる。さすがに待っていられないので、イリミアスにお願いをして送還してもらう事になった。
「二人で帰ろう。みんなの所に」
「はい。あなた」
「また来ようね」
「はいっ」
そっと腕を組み、英雄と熾天使は天界を後にする。
いつか再び、対等な友としてこの地を訪れる事を願って。
だが。
ジークが天界を訪れる事は、二度となかった。
ーーなかった。