第八話 天の意思
天界の夜は人界と何も変わらない。
陽が沈み、月が登り、星々が眼下に居る人々を照らし出す。
一つ違いがあるとすれば、天界の空には雲がない、という事だろうか。
例えその下で大切な人が居なくなってもーー
月は変わらず、世界を見守り続ける。
「……昨日はずっと、一緒だったのにな」
ーー天界、天涯鍛冶領域。
ーー鍛冶神イリミアスの居城『極めの塔』
その頂上で、ジークは拘束されていた。
ゼレオティールが張り巡らせた光の領域が彼を取り囲んでいる。
全身に巻かれていた鎖は解かれているが、強力な腕輪が彼の力を抑えている。
「……アスティ。どこにいるの?」
ーーね、ジーク。もっと呼んで。
ーー一生大切にするわ。ジーク以外には呼ばせないから。
寝台の上で交わした言葉が脳裏によみがえる。
胸の中が暖かくて、愛しい気持ちが溢れて止まらなかったあの時間。
昨日までは手を伸ばせば届くような所に居るのに、今は彼女をどこにも感じない。
加護の繋がりを辿って感知してみてもーーどこにも、居ない。
「ジーク」
呼ばれて、振り返る。
見れば、もうひとりの愛しい恋人が傍に来ていた。
光の領域に手を触れて、少しでも近づこうと。
「リリア」
ジークは手を伸ばす、
手を手が重なるけれど、その間には二人を分かつ壁がある。
リリアは心配そうな顔で、口惜しそうに俯いた。
「ごめんなさい。ジークの為に、少しでも早く見つけたかったんですけど……」
「ううん。大丈夫」
リリアのことだ。宴の時に紹介された友達と一緒に探してくれたのだろう。
大神でも見つけられないのだから、熾天使である彼女が見つけられなくても仕方ない。
「アステシア様は、きっと無事です。だから、」
「……分かってる。これ以上暴れたりしないよ。心配かけてごめん」
「ほんとですよ。ゼレオティール様の前で暴れるなんて……相変わらず、ジークはやんちゃすぎます」
仕方なさそうに、リリアは笑った。
その笑みで強張った肩から力が抜けて、ジークは力なく微笑む。
「ありがと。ちょっと元気出た」
「ジーク」
「アスティはきっと無事だよ。だって、叡智の女神様なんだから。
例えどんなにピンチでもーー権能を使えば、切り抜けられるはずだから」
自分に言い聞かせるように呟いたジーク。
ーーそう、そうだ。アスティは叡智の女神なんだ。
ーー僕に加護をくれた女神様。あの人なら、きっと大丈夫。
ーーラディンギル師匠も探してくれてるんだ。絶対に無事なはず。
心の不安を消そうと躍起になる恋人を、リリアは心配そうに見つめていた。
彼の不安はアステシアが見つかるまで絶対に消えない。
今は少しでも身体を休めるべきだが、そう言っても彼は聞く耳を持たないだろう。
(わたしが今やるべきは……一刻も早くアステシア様を見つけること)
同じ男の妻になる女として、リリアはアステシアを親友のように思っている。
彼女自身から気兼ねなく接してほしいと言われているし、
天界にいる間、彼女はアウロラの眷属である自分を幾度となく世話してくれた。
彼女の前では、リリアはジークと同じくらい素で居られる。
口では面倒だなんだと言いながらお節介を焼いてくれるアステシアが、リリアも大好きだ。
(待っててくださいね、ジーク)
(絶対に見つけて見せるから、そしたら、三人で一緒にピクニックに行きましょうね)
(あなたの手が届かないところはーーわたしが補いますから)
領域を挟んで、額と額をぶつけ合うジークとリリア。
言葉なく意思を交わす恋人たちは、やがてどちらからともなく離れた。
拘束されたまま、ジークは意志を託す。
「アスティをお願い。リリア」
「任せてください。じゃあ……いってきます」
笑顔で手を振って、リリアは階段を降りていった。
かつん、かつん……かつん……と音が消えていく。
寒々しい風が、ジークの肌を撫でていった。
ーーそれから何時間経っただろう。
焦りばかりが募って頭がおかしくなりそうな時間だった。
今すぐ動きたいという気持ちと今はどうしようもないと囁く理性。
心と身体が一致しない事がこんなにも苦しいなんて思いもよらなかった。
ぐわん、と空間が歪むまでは。
「え?」
ゼレオティールの張った領域に穴が空いた。
目を丸くするジークの前で、二人の女性が領域の向こうに佇んでいる。
「ーー急ぎな。アタシが止められるのは持って一分だ」
「わかりました~。ほら、ジークちゃん、急いで」
「え、トリスさん?」
せかせかと歩き出したトリスはジークを持ち上げようと身体を伸ばす。
「ふんぬ~~重い~~」と持ち上げようとしても上がらない様子だ。
呆れたもう一人から「もういい。自分で歩きな!」と叱りつけられ、ジークは自分の足で領域の外に出る。
領域が元に戻り、ジークは呆然ともう一人を見た。
薄青の髪が揺れて、月明かりが彼女の姿を照らし出す。
酒瓶を持ったその女神は。
「ドゥリンナ様……!」
「騒ぐんじゃない。気付かれちまうだろ」
「どうして……」
ドゥリンナは頭を掻いて、
「ま、眷属が世話になった礼だ。これくらいはね」
「ジークちゃん、自分で探しに行きたいんでしょ~? じっとしててねぇ~」
トリスが袖から何かを取り出した。
ジークに課せられた腕輪をかちゃかちゃと鳴らすと、がちゃん、と腕が地面に落ちた。
「……! トリスさん、これ」
「ふっふっふ。こう見えて七聖将なんだよ?『地平線の鍛冶師』の名前は伊達じゃないんだって~」
トリスは決め顔でそう言った。
ふざけた口調だが、その行為自体は有り難いなんてものじゃない。
封じられていたジークの陽力が、ぶわんッ! と噴き出し、辺りに風が吹き荒れた。
「ありがとうございます。本当に助かりました……」
解放された英雄は拳を握って開いて、自分の状態を確かめる。
昨夜から一睡もしていないせいで先ほどまで身体がだるかったのだが、
今、アステシアを助けに行けると思うと、疲労なんてどこかに吹き飛んでしまった。
「あとこれ、イリミアス様から預かってるよ~」
トリスが見慣れた魔剣を渡してくる。
「アル……!」
「きゅ、きゅー!」
思わず目を見開いたジークの声に応え、魔剣は神獣へと姿を変える。
よっぽど寂しかったのか、アルトノヴァは舌を出してジークの頬を舐め始めた。
「ちょ、あはは。くすぐったいって!」頬にざらついた感覚を覚え、身体をくねらせるジークである。
「万全に癒しておいたから、何が来ても大丈夫だと思うよぉ~ってイリミアス様が言ってた~。あとあと、アステシア様が最後に攫われた所とか、地図も渡しておくね~」
「ありがとうございます。本当に助かりました……ドゥリンナ様も」
「よしな。礼を言われる筋合いはないよ」
ドゥリンナはそう言って酒瓶をあおる。
そんな姿が亡き師匠と重なって、ジークは重ねて礼を言った。
「じゃあ」
気合は充分。力は万全。
下界で覇を争う英雄を止められる絶対神は、この場には居ない。
「行ってきます!」
塔の最上階から飛び降りて、大空へ身を乗り出したジーク。
またたく間に大きくなった神獣が主を拾い、英雄は天界の空に飛び込んだ。
誰も居なくなった塔の最上階。
鍛冶神の許可がなくば立ち入れない領域で、トリスは呟く。
「……これでいいんですよね、イリミアス様」
「えぇ、上出来よ。トリス」
呟きに応じたのは、階下から上がってきたイリミアスだ。
橙色の髪を揺らした敬愛する主に頭を撫でられ、トリスの顔が緩む。
彼女は同僚が消えた空を見て眉を下げた。
「……ごめんね、ジークちゃん」
「あとは、あの子次第だ」
ドゥリンナが吐き捨てるように言った。
「……どうにも運命って奴は、あの子に厳しすぎやしないかねぇ……」
空の神の言葉は、夜空に吸い込まれて消えた。
◆
天界の空を、覇魔の龍が駆け抜けていく。
ばさり、ばさりと嬉しそうに翼を動かす相棒にジークは頬を緩めた。
「ありがとう、アル。一緒にアスティを探そうね」
「キュォオオオ!」
「しーっ! 静かに。誰かに見つかっちゃうでしょ」
ドゥリンナやトリスが逃がしてくれたが、全ての神々が味方とは限らない。
特に、ゼレオティールに忠実なレフィーネに見つかれば厄介だ。
空間転移を可能とする熾天使に見つかれば、またたく間に天界中が敵になるだろう。
(リリアたちが探してくれてるのは……トリスさんが渡してくれた地図は……こっちだな)
共存領域内に恋人の魔力を感知し、捜索範囲を決めたジーク。
アステシアに関しても既に同じことを繰り返しているが、彼女の居場所は掴めない。
天界では各神域が重なり合っていて空間の位相がずれているから、魔力を辿れないのだ。
眼下、狂神が現れた天界では天使たちが目まぐるしく動いている。
ほぼ全ての天使たちが武器を取り、物々しく周辺を歩き回っていた。
よく見ればこちらを指差している者もいる。あれに通報されたら面倒だ。
ジークは、ふと思いついて、
「絶対防御領域・『鎧化』。光彩モード」
天威の加護第二の力、発動。
いつもならあらゆる力を拒絶する領域を、光のみ遮断に変更する。
光を拒絶した領域内は真っ暗になったが、あちらからも黒い塊にしか見えないはずだ。
(よし、成功した。夜だから、黒い塊は背景と一緒になって見えないはず)
光以外は拒絶していないため、風の流れや魔力を感知して飛行は可能だ。
アルトノヴァには少し頑張ってもらう事になるが、相棒は威勢よく吼えた。黒い塊となった覇魔の龍と英雄は、秘境領域の森の中に着地する。
トリスの渡してくれたメモによれば、ここはゼレオティールの御所から少し離れた場所に位置する。この辺りは既に捜索され尽くしているだろうから、ジークも早々に見つかる事はないはず。自分だから気付ける何かが見つかれば、彼女の行方も……。
「よし、頑張って探そう。行くよ、アル」
「きゅ、きゅー!」
昼にリリアと秘境を歩いた時には感じなかったが、ここはエーテル濃度が段違いに高い。アルトノヴァにとっては地上よりも快適なのか、彼は楽しそうに空中で羽を広げていた。
「君が探してくれて助かってるけど、真面目に探してよ?」
「きゅ!」
「ほんとに分かってる?」
緊張感の抜ける声を上げたアルトノヴァ。
とはいっても、この子のおかげでガス抜きが出来ているのは事実だ。
もしも自分一人なら嫌な想像ばかりが浮かんで、きっと捜索どころじゃなかった。
今度何かお肉をあげよう、と思いつつ、ジークは周りを見渡す。
「……やっぱり夜になると生態系が変わるんだね」
攻撃的な神獣たちがうようよしている。
今にもこちらに襲い掛かってきそうだが、アルが威嚇すると遠ざかって行った。
覇魔の剣の化身である相棒は神獣たちの中でも別格の扱いなのかもしれない。
それからジークはあてどなく歩き続けた。
アステシアが誘拐されたという場所に行ってみたが、魔力の残滓はおろか、手がかり一つ残っていなかった。残念に思いながらも捜索続行。こうなったら見つかるまで帰らないぞと固い決意を固めつつ、ジークは秘境領域を踏破する冒涜者となって、ひたすら歩き続ける。
森が終わり、荒野が現れ、川を超え、雲の生け垣を超え、
虹色の沼を渡り、雲の奈落を超え、上向きに流れる滝を登り、竜の巣を探索する。
さすがに疲れてきたので、峡谷のある領域でひと休みすることにした。
川のほとりで顔を洗い、水分を補給すると、
「ん……?」
三本の光が、ジークの視界に映った。
振り返れば、エメラルド色の角を持つ虎が、七つの尾を揺らして立っていた。
それは秘湯でジークたちに姿を見せた獣ーー確か、ズラトロクといったか。
「キュォオ……」
「--」
アルトノヴァが威嚇をしても、ズラトロクは逃げない。
何かを見定めるように、じぃっとジークを見ている。
やがて『統べる獣』は踵を返し、くいくい、と尾を前に揺らした。
再び振り向き、こちらをじっと見つめる。
「……もしかして、『付いて来い』ってこと?」
「キュォ!」
「いや、危険なのは分かってるけど……でも、このまま探しても見つからないし」
かなりの領域を渡り歩いた気がするが、痕跡一つ見つからなかったのだ。
今は何か一つでも変化が欲しい。そう思ったジークは獣についていくことにした。
「行こう、アル」
「きゅぅ」
ジークの肩に止まり、常にズラトロクの背を見つめるアルトノヴァ。
かの獣が攻撃的になればすぐにでも守ってくれそうな体勢だ。
相棒の献身をありがたく思いつつ、ジークは獣の後ろを歩いて行く。
渓谷に生えた森に入り、しばらく歩くと、花畑が見えた。
色とりどりの、満開の花がさきほこる花畑。
その中心にーー
「--アスティっ!!」
花畑の中で座り込む、一人の女神を見つけた。
ドクンッと心臓が跳ね上がり、ジークは一目散に駆けだそうとする。
その瞬間だった。
「キュォオオ!」
「!?」
ーー……ひゅんっ!
瞬間、ズラトロクの振りかぶった尾を防ごうと、アルトノヴァが飛び込んできた。
大きく翼を広げた相棒がズラトロクの尾を防ぐと、ズラトロクは「フン」と言いたげに鼻を鳴らす。
そして、かの獣は顎先を花畑の中心ーー女神の隣にいる、一人の男神へ向ける。
「え」
「ーー」
役目は果たしたと言わんばかりに、ズラトロクは去って行った。
一方、ジークは男神の正体を見て愕然と目を見開く。
アステシアを助けに来たーーわけではない。
その神は、何かを待ち受けるように佇んでいる。
「なん、で」
頭が痺れる、唇が震えて力が出ない。
脳裏をよぎる、天界での記憶。
犯人に関する真実の展望が目の前に開けていった。
ーーアステシアを攫う事が出来る天界の実力者。
ーーゼレオティールの御所に近付いても何も違和感がない神物。
最初から答えは一つしかなかったのだ。
つまり、狂神はアステシアの友神でありーージークの知る者であると。
「どうして、ですか……」
絞り出すように、ジークは言った。
見慣れた、筋骨隆々の大柄な体躯。武器を構えた姿は一分の隙もない。
その体躯からは狂神の証である、七色の燐光が散っている。
ジークの恩神であり、剣の師。
天界にも名高い実力者であり、六柱の大神に数えられる神物。
「どうしてですか……ラディンギル師匠ッ!!」
英雄の叫びに、武神ラディンギルは口の端を歪めて笑うのだ。
「あぁ、ようやく来たな。英雄よ」
ーーさぁ、死合おうか。




