第四話 秘湯の一幕
天界には三つの領域がある。
一つはジークが接待を受けた神々や天使が天界の運営を行う共存領域。
もう一つはアステシアを始めとした神々が持つ、それぞれの神域。
最後が天界の中でも神獣たちが住処とし、神々もめったに訪れる事はないという秘境領域。
その秘境領域の中で、天界の中でも一握りしか知られていない秘湯がある。
エーテル純度が極めて高い湯が溢れており、魂などの見えない部分を癒す効能があるのだとか。
『ゼレオティール様やわたしの加護、ついでにラディンギルやイリミアスの加護だけじゃなく、大罪異能にまで目覚めてしまったあなたの魂はハッキリ言って傷だらけよ。特別な場所を教えてあげるから行ってきなさい』
宴会のあと、こっそりと言われてやってきたジークである。
雲が一面に広がる大地の中でも霧が深く、周りに不思議な樹々が生えた場所。
森の広場のような場所に、ジークは来ていた。
こんこんと湧き出る清水が耳朶を優しく潤し、聞くものを癒してくれる。
たちのぼる湯気に包まれるだけで、思わず座り込んでしまいそうなほど力が抜けた。
周りに誰も居ない事を確かめ、服を脱いで、ちょこん、とお湯に足をつける。
じんわりと暖かい事を確かめて、ジークはお湯に身体を埋めた。
せっかくなのでアルトノヴァを解放してやると「きゅ、きゅー!」と神獣は元気よく飛び込んでくる。
ばしゃばしゃと水浴びする神獣の姿を見ながら、ジークは雲の湯船に背を預けた。
「ふわぁ……生き返る……」
ーー宴会でずーっと喋ってたから、落ち着くのにちょうどいいかも……。
ドゥリンナとテレサの思い出話をするのは楽しかったが、一晩中喋りっぱなしだった。
夜が明けた後も宴会は続いていて、こうしている今も神々や天使は楽しんでいる最中だ。
途中で抜け出してきたジークが言えたことではないが、天界の運営は大丈夫なのかと心配になる。
「それにしてもこの水、どうなってるんだろ……」
ジークはお湯を持ち上げて首を傾げた。
雲の大地をつつくと、ふよん。という感触が返ってくる。
左胸に刻まれたアステシアやラディンギル、イリミアスの紋章が視界に端に映って、恋人の言葉を思い出した。
ーーアステシア様は『地上の大地とは違うわ。エーテルの塊よ』と言ってたけど。
そもそもなぜ天界の大地が雲に覆われているのか。
雲の上にも樹々が生えたり、神獣が居たりするのは何故なのか。
この泉にしても、どこから沸いているのか気になって仕方がない。
「でも、あぁ……今は、どうでもいいかぁ……」
「きゅぉ~……」
秘湯の気持ちよさは疑問も何もかもお湯に溶かしてしまう。
雲の大地に背中を預けたジークとは、気の抜けた声で天を仰いだ。
アルトノヴァも満喫しているようで何よりだ……。
ーーちゃぽん、と。
「ん?」
お湯の音が、ジークの耳朶を叩いた。
自分以外の誰かが入って来た音。霧の中に現れた影にジークは首をかしげる。
アステシア曰く、この秘湯は本当に限られた者しか知らない筈だが……。
(誰だろ、もしかして知らない神かな……)
霧を裂いた人影の姿が露わになり……。
「ジーク、見つけました」
そこに居た恋人の姿に、ジークは目を見開いた。
「り、リリア!?」
月光を編んだような白髪が湯気で肌に張り付いている。
タオル一枚で胸を隠した状態でも、その破壊力はすさまじい。
肌は新雪のように傷一つなく、彼女は翼をたたんでお湯の中を歩いている。
「え、えっと!? 奇遇だね、なんでここに!?」
久しぶり見た恋人のあられもない姿に、理性がはちきれそうになった。
思わず内またになったジークに微笑み、彼女は隣に腰を下ろす。
「えへへ。実はアステシア様との会話が聞こえてしまって。起きたらジークが居なかったので、ここに居るんじゃないかと。場所はアウロラ様に教えてもらいました」
「そ、そうなんだ……」
そう言って、肌に張り付いた髪に触れるリリアである。
ちらりと横目に見ると、彼女は髪をまとめながら口に髪留めを咥えていて、なだらかな双丘が見えた。
白く細い肢体の、綺麗な腋がジークの欲望を刺激する。
「どうかしたんですか、ジーク?」
「へわ!? な、なんでもにゃい!」
「ふふ。変なジーク」
何度も見ているはずなのに、今のリリアの姿は魅力的過ぎた。
そう言えば、もう一ヶ月近くも触れていない。
此処は屋外なのに、いま触れられたら自分を抑えられる気がしなかった。
と、そんなジークの心を知ってか知らずか……。
「……やっと二人きりになれましたね」
「!?」
リリアはお湯の中で、おずおずと腕を絡ませてきた。
当然、そんな事をすればリリアのあれこれが直に当たってしまうわけで。
「り、リリア!? その、ここ、外なんだけど……!」
「誰も来ない秘湯なんだから良いじゃないですか。何か困るんですか?」
「や、それは、えっと、困らないけど困るっていうか……! 色々と、ね?」
顔が熱くなり、呼吸が荒くなる。
お湯の温度だけではないだろう。ドクンッ、ドクンッと心臓が早鐘を打ち始めた。
ジークとて健全な男子である。恋人にこんなことをされて興奮しないわけがない。
「ふふ。わざと、ですよ?」
「……っ」
リリアは小悪魔的な笑みを浮かべて、さらにジークと密着する。
むにゅん、という感触がジークの腕をどろどろに溶かしてしまう。
「今日はアステシア様といっぱい喋ってたんですから、わたしも構ってほしいです」
「う、うん。もちろん。そうしたいけど」
「この一ヶ月くらい……寂しくてたまりませんでした」
「……うん」
不意に声音が沈んで、リリアは呟く。
「必要なことだとは分かっていますし、わたしだって覚悟していたつもりです。
でも、実際に離れてみると……わたし、思っていたよりジークに支えられていたみたいです。
あなたが居たから頑張れたことがたくさんあった。天使の事とか、戦いの事も……」
「……うん」
寂しい思いをしていたのは彼女も同じなのだと分かって、ジークは嬉しくなった。
自分の場合、寂しい思いに浸る暇がないほど忙しかったから平気だったが……。
平和で安穏とした天界に居れば、寂しさをこじらせても仕方がないのかもしれない。
「久しぶりに会えて、やっぱり思いました。ジークのこと好きだなぁって」
「うん……それは、僕も思った」
少しでも離れたからこそ、分かる事もある。
再会した瞬間、ジークの心は弾んだのだ。
世界で初めて、両親以外にありのままの自分を受け入れてくれた恋人。
一周回って羞恥が振り切れたジークは、リリアの方に顔を向けた。
「大好きだよ、リリア」
「……っ、はい。わ、わたしも……愛してします」
頬が上気した彼女は恥ずかしそうに俯き、上目遣いにこちらを見た。
心なしか潤んだ瞳が持ち上げられ、二人の影が近づき、そして重なる。
世界の全てがリリア色に染まり、何もかもが蕩け始めた。
ついばむように口づけを繰り返した二人は、お互いの身体に手を伸ばしてーー
「ーーこ、こらぁっ! こんなところで何をしてるの!?」
「「!?」」
瞬間、聞き慣れた声が二人を引き裂いた。
ジークが慌てて身体を離そうとするが、リリアは腕を掴んで離さない。
声の方に目を向けたリリアは「むぅ」と唇を尖らせて、
「予想以上に早く起きてしまったんですね、アステシア様。
ティアさんから、一度寝たらそうそう起きないと聞いたんですけど……」
リリアの言葉通り、湯気を裂いて現れたのはアステシアだった。
一糸まとわぬ姿を惜しげもなく晒し、腰に右手を当てて「全く」と首を傾ける。
「油断も隙も無いんだから、リリア。ジークもジークよ。ここ、秘湯とはいえ知らない人が居ないわけじゃないのよ? こんなところで……その、やらしいことを始めて、人が来たらどうするの!?」
「う、すいません」
思いっきり顔を逸らすジークである。アステシアの身体が目に眩しすぎた。
そんなジークとは裏腹にリリアは頬を膨らませて、
「つん。見られたら見られたで、その時はその時です。男だったら永遠に凍らせます。女なら見せつけてやりますから」
「ちょ、リリア!?」
「あなた、変な方向に振り切ってるわよね……」
アステシアは頭が痛そうに額に手を当てた。
全く同意のジークであるが、そんな彼女はちらちらとこちらを見て、
「……そ、その。私も婚約者なんだし、ちょっとくらいいわよね?」
「アステシア様!?」
するりと身体を滑らせ、リリアとは逆隣に座るアステシアである。
夜を秘めた黒髪をお湯に浮かばせ、両手でジークの腕を取ってくる。
両隣から柔らかい感触に包まれたジークは爆発しそうになった。
「あ、アステシア様、その、暑くないですか?」
「なによ。リリアとは良くて私はダメなの?」
「そ、そうじゃなくてですね……!」
さすがに二人に挟まれると理性が持ちそうにないのである。
こちらは年頃の男なのだ。二人とも、そのあたりをもっと配慮してほしい。
大体、先ほどリリアに向けた言葉は何だったのか。
「それはそれ、これはこれよ。私は二人に自覚を促しただけ。
別に、しちゃいけないなんて言ってないわ。それに、私だって……その、寂しいし」
頬を赤くしてポツリと呟くアステシアである。
そんな顔をされたら可愛すぎて、ジークは全てを許してしまう。
(と、とはいえ、これは色々……その、二人ともめちゃくちゃ当てて来るし……)
大きな果実に挟まれてジークの理性は限界寸前だ。
もうどうなっても良いから、二人とも襲ってしまおうかなんて考えが出てきてしまう。
落ち着け、落ち着け……と必死に自制を促すが、本能はどんどん強くなってきて、
理性と本能の狭間で揺れる哀れな男を挟んで、婚約者たちは言う。
「もう、アステシア様、人の事言えないじゃないですか」
「なによ、リリア。あなたが始めたんだからいいでしょ?」
「別にいいですけど。ジークがもう一押しっぽいので手伝ってくれますか?」
「え、えぇ。いいわよ。でもその、いいの? まだ全部が終わったわけじゃないわよ」
「約束の事なら、もういいんです。あの時はああ言いましたけど……。
今は、アステシア様なら良いかなって思うので。一緒にめちゃくちゃにしましょう」
「……っ、わ、分かったわ」
二人の手がジークの身体に伸びていく。
煩悩に負けそうになっていたジークは慌てて理性を取り戻した。
「ちょ、二人とも!?」
「無視です、アステシア様。今ならいけます」
「リリア!?」
「ジーク……」
ドクンッ、とひときわ胸が高鳴った。
頬を赤く染めたアステシアの顔が、ゆっくりと近づいてくる。
(あ、アル、助けて! このままじゃ色々とやばい……!)
(キュォ~)
(いや、君のんびりしすぎでしょ!?)
ぷかぷかとお湯に浮かぶアルトノヴァの助けは望めない。
というか、である。
一周回って、ここまで誘われたら乗らない方が失礼ではないかという気がしてきた。
アステシアの方から迫ってきているんだし、リリアも許してくれている。
何を迷う必要があるんだろう?
ーーあぁ、もうどうにでもなれ。
ジークが本能に従おうとしたその瞬間だった。
「ぉ~、すごい! いいお湯ですね~イリミアス様ぁ~~!」
「あ、コラ。誰かいるかもだからタオルくらい……って」
湯気を切り裂いて、二人の女性が現れた。
姉妹のように似通った小柄な体躯、薄い胸を張った同僚がジークに気付く。
「おりょ? ジークちゃん、居たんだ~。よっすー」
「え、えっと、その」
トリス・リュートは言うまでもなく生まれたままの姿であった。
「こらトリス! あんたジー坊が居るのに裸を晒したままとかありえないわよ!?
ちゃんと乙女らしく恥じらいなさい! ほら、タオルで前を隠す!」
「はいっ、分かりましたイリミアス様っ! きゃ~ジークちゃんのえっち~」
「そう言う事じゃないんだけど!?」
イリミアスがお湯を立てて騒ぎ始める。
トリスと言えば全く恥じらう様子がなく、色気のない仕草でお湯につかり始める。
「あったかい~」と秘湯を満喫し始めた彼女をジークはどう扱っていいのか分からなかった。
「あ、あの……僕、男なんですけど……」
「ん~? 別にいいでしょ~。ウチ、幼児体型ってよく言われるし~。
みんなみたいに胸もないし、色々生えてないし、こんな身体に欲情するジークちゃんじゃないでしょ~」
「それは非常に答えづらいというか、下手に答えると何故かあとが怖い気がするというか……」
◆
「ーー……ぶぇっくしゅんっ!」
「ルージュ様、どうしたんですか?」
「いや、なんかものすごく失礼なこと言われた気がして……。
やっぱり今からでもお兄ちゃんを追いかけたほうがいいかな?」
「いやいや、ジーク大将様はすぐに帰ってきますよ。そんな事より見てください!
腐腐腐……!ルージュ様、これの良さ分かりますか? 絶対こっちの人が受けですよ!」
「ふ~ん。こういうのもあるんだ……確かにちょっといいかも……」
「でしょぉ!?」
「ファナ、あんたちょっと興奮しすぎじゃない?」
◆
まぁそれはともかくである。
「ジー坊、あんたも女の子の裸をまじまじと見てんじゃないわよ。
せめて目を逸らすくらいしなさい。お姉さまやリリアならまだしも……いやらしいわよ」
「なんでだろう。イリミアス様が救いの神様に見えてきました……」
「あんた失礼ね!?」
この場で一番の常識人がイリミアスなのは予想外である。
リリアは湯気でやられているのか「邪魔が入りました……凍らせますか」なんて振り切ってるし、
アステシアはアステシアで同じ女でも裸を見られるのは恥ずかしいようだ。可愛い。
(ううん、この場で僕がとるべき選択肢は……)
決まっている。逃走一択だ。
リリアやアステシアならまだしも、イリミアスやトリスとまで一緒に入るのは無理である。
別に嫌いとかではなく、恋人以外の女性と一緒にお風呂に入るのはどう考えても不味い。
「あ、じゃあ僕はお先に上がらせて……ん?」
ジークが腰を上げかけたその時、霧の中で光る何かが見えた。
(……あれは)
目を凝らしたジークはギョッとした。
ーーそれは虎に似た神獣だった。
エメラルド色の体毛に尾の付け根から別れた七つの尾が揺れている。
頭から生えた三本の角は宝石のように輝いていた。
「へぇ……『統べる獣』ズラトロクね。人前に現れるなんて珍しい」
アステシアがジークの横から顔を覗かせて教えてくれる。
そうなんですか?と訊くと、彼女は顎に指を当てて、
「神々でも会った事があるのも珍しいんじゃないかしら。
天界のどこにでも現れるけど、こうと決めた人の前にしか現れないのよ。
前に見たときは……そうね、ファウザーが天界に来た時以来かしら。さすがジークね」
「わたしたちのジークですから、当然です」
「なんであんたが誇らしげなのよリリア……」
アステシアの言葉にリリアが頷き、イリミアスが呆れの息をつく。
僕に会いに来たのかな? と首を傾げたジークの頭に、アルトノヴァが飛んできた。
「きゅぁあ!」
「アル、さっきまであれだけ休んでたのに……もういいの?」
「きゅっきゅー!」
「もう……助けてほしい時に限って助けてくれないんだから」
ぱたぱたと翼で頭を叩いてくるアルトノヴァである。
何なんだよ、とジークはため息をつき、ズラトロクの方へ視線を戻す。
(……あれ?)
しかし、視線を戻した時には件の神獣は姿を消していた。
これでは自分に会いに来たのか他の人に会いに来たのか分からない。
とはいえ逃げるには今がチャンスだ。
皆の注意が神獣へ逸れた隙に、ジークは秘湯から逃走した。
「あ、こらジーク!」
「待ちなさいよ、もう!」
「勘弁してください!?」