第十六話 成長の片鱗
翌朝、ジークは痛みを感じることなく普通に目が覚めた。
朝焼けの光が差し込む室内は暖かく、ずっと寝ていたくなるような心地だ。
「なんだかすごい長い夢を見てた気がする……」
ラディンギルの神域に招かれてからジークが修業をしていたのは四日ほどである。現実時間では八時間も経っていないことに、感覚がおかしくなりそうだった。
ジークはシャツをめくって、自分の左胸を見る。
心臓の位置に刻まれているのは二つの紋章だ。
円の周りに刻むように、アステシアとラディンギルの紋章がある。
「痛くない……加護は貰ってるみたいだけど……うーん。まぁいっか! 痛くないならそれで」
ジークが納得したその時だった。
コンコン、と扉がノックされた。
「ジークさん、起きてますか? 朝ご飯ができましたよ」
「あ、はーい! 今いきます!」
リリアの声に応え、ジークは立ち上がる。
「っと、忘れてた。肌身離さず、っと」
慌てて双剣型の聖杖機を携え、ジークは食事の席に向かった。
リリアとテレサは既に起きていて、食事の用意をしてくれていた。
「ごめんなさい。遅れました」
「全くだよ。さっさと座りな」
「はいっ、リリアさんも、ごめんね。朝ご飯の準備任せちゃって……」
「いえ。わたしは大丈夫ですよ。それに、ジークさんに任せるとどんなゲテモノが出てくるかわかりませんし……」
ぶつぶつと小さくつぶやいたリリア。
二日前、ジークが料理を用意した時を思い出したのだろう。
彼女の顔色は見る間に悪くなった。
そんなことに気づかないジークは、気を使わせているようで申し訳なくなって、
「ごめんね。辛くなったらすぐに変わるから。僕、ネズミを捕まえるのは得意なんだ。任せておいて!」
「そそ、そうですか」
「うん。コオロギの煮付けもいいけど、ネズミの丸焼きも美味しかったでしょ?」
リリアはさっと視線を逸らした。
テレサは頭が痛そうに額を抑えている。
「……? どうしたの?」
「な、なんでもありません! ジークさんの常識は徐々にとお師匠様と話し合いましたので」
「あんたたち、無駄話してないでサッサと食べるよ。終わったらまた修業だからね」
「はいっ、じゃあ」
三人は祈祷を終え、食事に手を付ける。
今日の朝食はラム肉と牛乳のスープと、サラダにパンといった具合だ。
鼠の丸焼きやトカゲの一夜干しも美味しいが、こういう料理を食べると病みつきになってしまう。
夢の中では天界の果実ばかり食べていたので、なおさら美味しく感じた。
「ジーク。あんたもそろそろ外を出歩いて、常識を覚えたほうがいいかもしれないねぇ」
「常識ですか?」
「あぁ。基本的なことは知っているそうだけど、日常生活じゃ知らないことは多いだろう」
「確かに……マドウコーガクのことは全く分からないです」
(あれ? そういえば、何か忘れているような……)
なんだっけなと、ジークは首をかしげる。
テレサが孫を見る祖母のような目で微笑み、「そうさね」と腕を組む。
「まずは……創世神話は知ってるかい? どの神殿にも共通する話だ」
「それは流石に知ってますよ。母さんに教えてもらいましたから」
その昔、世界がまだ形を伴っていなかったころ。
そこには混沌の海だけがあった。
やがて混沌に意思が生まれる。原初の一なる神だ。
一なる神が寂しくて涙を流すと海になり、一なる神が歩き出すと、そこが地面になった。
狭いと神が呟くと、空が現れ、宇宙ができた。
一なる神は己の力を分割し、概念化した。それはやがて神々となった。
力を分けた後、一なる神はおのれの内なる混沌を世界にばらまいた。
混沌はさまざまな形を取るようになり、神々を真似た混沌は人間と呼ばれるようになった。
人も神もあらゆる生き物が、一なる神を尊んだ。
おお、偉大なるかな、偉大なるかな、一なる神ゼレオティールよ!
我らが父よ、我らが創造主よ!
汝のおわす世界に栄光あれ!
「……っと、こんな感じですよね?」
「そうそう。ソレだ。あとは神々の力関係も覚えておいたほうがいいよ。地母神ラークエスタと炎と水の双子神は相性が悪いから、人間でも加護を持つ者同士は水と油だ。逆に空の神ドゥリンナと地母神は仲が良いんだけどね。そういうのは結構、人間関係に響く」
「そうなんですか」
「仲の悪い神の加護を持つ者同士でパーティーを組むとろくな事にならないって聞きますね。それでも必要だから組みはするんですけど、必要以上に踏み込むと火傷します」
テレサの説明に補足するリリア。
げんなりした顔でつぶやく彼女だ。
何かしらそういう場面を見てきたのかもしれない。
「ま、他に分からないことがあれば何でも聞きな。私かリリアなら答えてやれるだろうさ。なぁ?」
「はい。わたしも知らないことは多いですけど、できるだけ力になりますよ」
ごくん、とパンを呑みこんでうなずくリリア。
彼女の顔を見て、ジークはようやく何を聞きたかったのかを思い出した。
「じゃあ早速だけど、リリアさん。いい?」
「はい。何ですか?」
「ヨトギって何?」
リリアの笑みが凍り付いた。
顎から額にかけて徐々に赤くなっていく彼女は「え、と」額から汗を流し、
「一応聞いておきますが、ジークさん。わたしをからかってたりは……ないですよね素ですよねこれッ」
「なんだい夜伽かい。どこでそんな言葉覚えたか知らないけどねぇ。ヨトギっていうのは男と女が
「お師匠様もまじめに答えないでくださいよ、もうっ!」
「ねぇねぇ、ヨトギってなに? 何なの? 食べられるの? 美味しい?」
「~~~~~っ、もう、知りません! ジークさんの馬鹿! おたんこなす!」
「お、おたんこなす……? 僕、食べてもおいしくないよ……?」
そのあとジークは何度もリリアに聞いたが、結局彼女には教えてもらえなかった。何が何だか分からないが、とりあえず食べられるものではないらしい。
この後三時間くらい口を聞いてもらえず、ジークはヨトギという言葉を口にすることを止めた。
ーーそんなやり取りを経て訓練を進め、陽力の訓練である。
剣戟の音が響き渡っていた。
甲高い音がせめぎあうように連鎖していくのは達人同士の死闘。
鉄と鉄がぶつかり合い、意思と意思が高めあう戦いの剣舞。
ーーでは、ない。
「…………ッ」
テレサやリリアは目を奪われていた。
眼前、訓練場の奥で剣をはじいているのはジークだ。
「三つ、四つ、七つ、九つ……!」
音速を突破した際に生じたソニックブームが訓練場に吹き荒れ、リリアの髪を揺らす。自身の訓練すら忘れ、その光景に否が応でも目がひきつけられていく。
「嘘……昨日まで八つが限界だったはずじゃ……」
テレサもまた、その驚きを共有していた。
「驚いたね、こりゃ……」
酒を呑むことも忘れ、固唾を呑んでその様子を見守る。
「九、十一、十二……!」
テレサが魔導工学の粋を詰め込んだ訓練装置。
百八本の剣が別々の角度、別々のタイミングで襲ってくる剣の地獄。
その中に足を踏み入れた者は木刀に吹き飛ばされ、連鎖的に打ち付けられてボロ雑巾になるのが常だ。
そうなるように、テレサは作った。
昨日までのジークも、一時間避けるという課題を達成するのは困難だったはずだ。
だがーー。
「十五、十七、二十、もっと、もっともっと、もっと正確に……!」
ぶつぶつと呟きながら、ジークは縦横無尽に剣の嵐で舞を披露する。
硬いもの同士がぶつかり合い発生するのは、ジークの剣が魔導機械を受け流す流麗な鈴の音。
「動きが速いわけじゃない……昨日まであった迷いが、無駄が消えてる?」
「な、な、一晩で、何があったんですか……!?」
立った一晩で圧倒的な差がついていることに、リリアは愕然と口を開ける。
正直に言えば、無理だと思っていたのだ。
彼も自分も、この課題を達成することは無理だと。
ーー心の底で、安心していたのだ。
それなのに、彼は。
「二十三、二十五……!」
ジークは焦ることを止めていた。
基本に忠実に、ただひたすらに修練を重ねることを己に課した。
武神ラディンギルの教えが彼の脳裏をよぎる。
『いいか少年。手っ取り早く強くなる方法などないのだ。少しずつ、己を重ねろ』
『無駄をなくせ。焦りをなくせ。雑念をなくせ』
『剣以外に意味を見出すな。己と剣に境はない。己は剣であり、剣は己である』
『ーー見るな。聞くな。感じろ。そして勝ち取れ!』
「…………っ!」
カ、と目を見開き、剣舞に没頭する。
周りの反応も剣の音も、今は要らない。
アステシアの加護は刹那先の未来を見る魔眼。
だが、見たい未来を限定するのはジークだ。
視界のすべてを未来予測する必要はない。
ただ自分に向かってくる剣を一本一本察知し、その動きのみに力を配分する。
「剣も、同じように……っ」
ジークは己の動きを律し、無駄を排除する。
向かってくる剣を弾くのは手首や力ではない。重心であり、体重の移動だ。
歩幅を、姿勢を制御することによってジークは最小限の動きを実現。
加護によって見える未来だけではなく、己の感覚を研ぎ澄ませ、さらにその先の未来を頭で予測する。
ただ前へ。
ただ先へ。
己の限界を超えた領域へ、ただ疾く……!
「二十八、さんじゅうわ!?」
順調に数を避けていたジークだが、死角からの攻撃に打ち付けられた。
一つのミスが死につながる剣の地獄において、その一撃は致命的。
またたくまに滅多打ちにされたジークは、はじき出されるように外へ飛ばさされた。
「う、うぅげ……くそぉ。まだまだ全然だ……」
頭を押さえたジークに、テレサが近づいていく。
「ジーク。あんた……この一晩で、一体何をつかんだんだい?」
「ふぇ!? え、え~~っと」
テレサの本気で驚嘆した声に、ジークは視線をあっちこっちに彷徨わせた。
神域で聞いたアステシアの言葉を思い出す。
『ジーク。あなた、ラディンギルの加護をもらったことを人に話しちゃだめよ』
『え? なんでですか?』
『普通、一人の人間につき加護は一つしか宿らないのよ。あなたは半魔だからかろうじて身体が保てているけれど……普通の人間なら破裂してるわよ』
『うえ!?』
『神の力はそれだけ強力なの。もし加護を複数持っていると知られれば、人間に何をされるか分かったものじゃないわ』
『そ、そうですよね。二つもあれば、みんなびっくりしますよね……』
アステシアが微妙な顔になったのが引っかかるが、気にしても仕方あるまい。
とにかくジークは加護を二つ持っていることを話してはいけないのである。
どうしようか迷ったジークは、本当のところをぼかした。
「えっと。実は、またアステシア様の神域に招かれて……」
『は?』
「それで、お客として武神さまが来ていたから、ちょっと稽古つけてもらったというか」
『…………は?』
実際はちょっとどころではなく四日ほどなのだが、そこは黙っておく。
ジークの言葉を聞いたテレサは、頭が痛そうに額をおさえた。
「神々に魅入られる素質……たまにいるんだよね、こういうのが。でも、あの動きはそれだけじゃ説明がつかないような……」
何やら怪しんでいるテレサからあわてて視線を逸らし、ジークは口笛を吹く。
すると、気になったテレサが陽力計測装置を持ってきた。
「ジーク。ちょっとこれで計ってみな」
「え、はい」
ジークは獅子像の口の中に手を入れる。
一拍の間を置いて、前と同じようにピピッ、と音が鳴った。
背中に現れた数字を、リリアとテレサは同時に見る。
「陽力値二七五〇……! 立った三日で、二十倍以上……!?」
リリアの声に耳を傾けながら、テレサはジークの内からあふれ出る魂のオーラを感じ取る。
(とんでもない潜在能力……眠っていた獅子が起きようとしているのかい……!?)
そんな二人の視線に、ジークは居心地悪く身じろぎした。
ジークとしては、一晩ではなく四日ほど神域で過ごした記憶があるから、ズルをしたみたいでバツが悪い。実際、時間遅延の結界はラディンギルが勝手に張ったものなので、自分が気にする必要はないのだが。
後ろ頭を掻いたジークはふと、じっと自分を見つめるリリアに気づいた。
驚愕した瞳に、ほの暗い光がよぎる。
「……やっぱり、違う。似ていると思ったけど……あなたは、そちら側なんですね。ジークさん」
「え?」
小声でつぶやかれた声に、ジークは首をかしげる。
「リリアさん、何か言った?」
問いかけると、彼女はハッとしたように顔を上げ、
「い、いえ。何でもありません、すごいですねジークさん! 課題達成も近いんじゃないですか?」
「そ、そうかな。でも、時間にしたらまだ一分も経ってないから……一時間避けるのは、まだまだ先だよ」
「そんなことないですよ! わたし、応援してますから!」
リリアはそう言って微笑み、励ましてくれる。
同年代の女の子からそんな風に言われるのがうれしくて、ジークは頬を緩めた。
「うん。ありがとう、リリアさん」
「はいっ! よーし。わたしも頑張らないとっ」
ぐっと拳を握り、ジークに背を向けるリリア。
元気の良い声に励まされたジークは、彼女の頬が強張っていることに気づけなかったーー。