第十六話 地母神との謁見
ーー時は少し遡る。
爽やかな風が大地を駆け抜けていた。
青々と生い茂る樹々の香りがむわりと広がり、鼻腔を刺激する。
背中に感じる感触はふかふかで、お日様の光がじんわりと身体を温めていた。
(暖かい……このまま寝ちゃいそう……)
久しぶりの休息。
働きづめだったジークの身体は穏やかなまどろみに囚われる。
ーーうっすらと瞼を開けて、その女性が目に入るまでは。
「うふ。お目覚めかしら、坊や……♪」
「!?」
ジークは跳ね起きた。
否、正確には跳ね起きようとした。
けれどその動きは、彼女が手をかざしただけで止められてしまう。
「あぁ、ダメですよまだ寝て居なくては。
大罪異能とゼレオティール様の加護で負担がかかった魂を休めているんですから」
「いや、あの……」
ジークは困惑気味に視線を揺らす。
視界にでかでかと入っているのは大きな胸だ。そして自分の顔を覗き込む美女の顔。
つまるところ、ジークは今、膝枕をされている状態であった。
「なんで、あなたが……」
「あら、心外だわ。むしろ坊やの方がわたくしを訪ねてきたんでしょう?」
「そうですけど……」
アステシアに呼び出される感覚と同じだったから、恐らくここは神域だろう。
しかし、それにしても神殿に入った途端に神域に呼ぶなど何を考えているのか。
ジークはじと目になって、
「僕、別にあなたと親しいわけじゃないんですけど。ラークエスタ様」
栗色の髪を揺らす、おっとりとした女神だ。
透き通るようなきめのある肌に、見る者を虜にするような浅葱色の瞳。
うっとりと桜色に染まった頬に手を当て、地母神ラークエスタは微笑んだ。
「うふふ。わたくしの名、ご存じでしたのね。自己紹介をした覚えはないのだけど」
「七聖将になった時、神像とか見てますし。冥界でも助けてくれましたよね」
「あれを助けたと言えるかは五分五分ですが……恩義に思ってくれるなら光栄ですわ」
嗚呼。とラークエスタは悩ましげに熱い吐息を漏らし、
「ようやく会えました……坊や。わたくし、ずっとあなたに触れたかったんですのよ……?」
そう言って、ゆっくりと顔を近づけて来る。
桃色に色づいた唇は、ジークのそれと重なりそうになりーー
「~~~~~~~~~~~~~~~っ!」
「あら」
弾かれるように飛び退き、ジークは女神と距離を取った。
森の広場の中心、女座りでこちらを見る女神に抗議する。
「いきなり何をするんですか!?」
「何って、接吻ですわ。それ以外に何かありまして?」
「ほぼ初対面の人間相手に接吻なんかおかしいでしょ!?」
「あら。旧世界では……いえ、今の世界でも接吻は挨拶ですよ? 普通ですわ」
「普通……そうなんですか…………?」
一拍置いて、ジークは我に帰った。
「いやいや、絶対普通じゃないですよ!」
危うく鵜呑みにするところだったジークである。
普通と言われれば何でも従うと思われたら困るし、断固抗議した。
「大体、僕にはもうリリアがいるし……アステシア様とだって婚約していますっ!」
「知っていますわ。あの堅物、アウロラの熾天使紹介にかこつけて自慢しましたのよ?
あのノロケ具合を見た神々の反応と言ったら……あなたに見せてやりたかったですわ」
「そ、そんな事があったんですか」
「でも、別にわたくしは三番目でも四番目でも、何なら五番目でもいいですのよ」
うっとり、とラークエスタは微笑んだ。
「英雄色を好むと言いますし、わたくし自身、何人もの男と結ばれたことがありますわ。
別に一生アステシアと添い遂げなければいけないわけではありません。接吻くらい構わないではありませんか」
「無理です。僕はそんな風に考えられません。ていうか、僕は『坊や』じゃありません!」
「……そうですか」
残念そうに、美と豊穣の女神はため息をつく。
物憂げなため息は男であれば誰でも見惚れてしまいそうな表情なのだろう。
しかし、ジークは心に決めた人以外とそういうことはしないと決めている。
頑なな男に対し、ラークエスタは頬に手を当てて、
「本当に残念……あなたと出会ったのがわたくしなら、妻に娶ってくれたのでしょうか」
「……それは、分かりません。でも、僕が出会ったのはアステシア様とリリアです」
『もし』なんて言葉に意味はない。起こった事実が全てだ。
そう断言すると「分かりました」とラークエスタは頷いた。
やけに物分かりのいい女は雰囲気を改め、女神の顔で問う。
「ならば聞きましょう、運命の子。何故わたくしを訪ねたのですか?」
ジークは居住まいを正し、英雄として告げる。
「獣王国を解放してください」
ピキリ、と。
ラークエスタの笑みが固まった。
穏やかだった森の梢が激しく揺れだし、木の葉が地面を舞っていく。
言葉を選ぶように、彼女は口を開いた。
「……どういう、意味ですか?」
「言葉通りの意味です」
「わたくしは力を割いて獣王国を救っているでしょう。各地に神殿を配置し、擬似神霊を置き、一定範囲内では悪魔を葬魂するようにしている。これだけでも、中央大陸では見られない、南方大陸だけの異様な特色と言えます。これが救いでなくて何だというのです?」
「けどそれは、本来出るはずの力を制御していますよね。
というかーーあなたが獣王国を救ったのは他の誰でもない、あなたの為のはずだ」
「……」
カレンの話を聞いてから、ジークはずっと疑問に思っていた。
なぜ地母神ラークエスタは初代獣王の願いに応えたのだろうか、と。
取引の対価として各地に神殿を作らせ、聖獣である豚を食べさせないようにしたのは何故だろうかと。
その答えは、
「神の力は信仰の多寡で決まる。葬送官が活躍すれば神の力が増すように、
厳しい大地に逃げた人々の信仰が集まれば、あなたの力になるはずだ。そうでしょう?」
「……」
「あなたは戦争で力を使いすぎたか……もしくは、旧世界で信仰が薄れていた。
だから自分の力を維持するために、獣人たちに救いの手を差し伸べた。違いますか?」
豚を食べさせないようにしたのは、日常の中で神の存在を意識させ、
彼らの信仰を確かなものにしたかったからだ。
とはいえ。
(まぁ、それはそれでいいんだけどさ)
例えどんな理由があろうと彼女が獣王国を救ったのは事実だ。
そこに疑いの余地はないし、別にジークは責めているわけではない。
今の巫女というシステムが権力者の道具に使われてしまっているのが問題なのだ。
それがジークの告げた、獣王国を解放しろという意味。
「巫女を増やしてください。選ばれた者がなるわけじゃなく、
試練を潜り抜けた誰もが巫女になれるようなーーそういう風に変えてください」
オズワンを解放するためには、まずカレンが何者でもなくなる必要がある。
彼女が巫女としての価値を持つのはその血筋と、巫女の数が減っているが故だ。
どんな身分であろうと巫女になれる者が増えれば、少なくとも巫女に稀少価値は無くなる。
今の獣王国は、ラークエスタの一存で決まる巫女という存在に縛られている。
「……ふぅ」
ラークエスタは気が抜けたように空を仰いだ。
顔を戻して、苦笑する。
「正直、焦りましたよ、運命の子。言い方が紛らわしいのです。
てっきりアステシアのためにわたくしの力を削ぎに来るかと思いました」
「そんな事するわけないじゃないですか……メリットもないですし」
「人間とは度し難い理由で突拍子もないことをやる生き物ですからね」
「それは分かりますけども」
しかし、とラークエスタは困ったように、
「巫女を増やす、ですか。別にわたくしは構わないんですけどね。
そもそも、巫女が減ったのはわたくしのせいではなく、獣王国側の問題です。
貧困にあえぎ、人心が乱れ、『純潔』で『純粋』な乙女が減っているから、巫女が減っているのです」
むしろ減れば減るだけラークエスタの負担が増え、困っているという。
初代獣王の件を聞いてみると、残念には思うが別に何も思わないという事だった。
二代目も三代目も彼女が手を下したわけじゃない。
たまたま不幸が重なったところに人間が神の怒りだと意味づけただけであった。
「でしたら、僕から提案がありますーー」
ジークはヤタロウやカレンと話し合った改善案をラークエスタに話した。
彼女は興味深そうに全て聞いてくれて、やがて頷いた。
「確かにわたくしもこのままでは不味いと思っていたところです。
あなたの提案を受け入れたい。しかし……それには条件があります」
全てを取り込む美の女神は魔性の笑みを見せた。
「あなたがわたくしを受け入れることです。ジーク・トニトルス」
「……」
「わたくしの加護を与えましょう。そうすれば、わたくしは庇護者を守るため全力を尽くします。獣王国なんていくらでも救いますし、どんな要望も受け入れてあげましょう」
ーーさぁ、わたくしの手を取りなさい。
いつかアステシアに言われたものと同じ言葉。
けれど、そこに潜む欲情の光は彼女が持つ魔性そのものだ。
狙った獲物を逃さない、美の女神の矜持がそこにある。
確かにジークが彼女を受け入れれば、話は早いだろう。
獣王国の問題など一瞬で解決するはずである。
それでも。
「お断りします」
「あら、獣王国を……いえ、ひいては友人を助けたいのではなかったのですか?」
ジークに興味を持っているラークエスタだ。
こちらの動向を見るために、地上を覗いていたとしても何ら不思議はない。
ジークたちが何のために行動をしているのか、彼女は全て知っているのだ。
ジークは言葉を選びながら、
「確かに、僕はオズを助けたい。でも、僕が全てを救って何の意味があるんですか?それじゃ今までと何も変わらない……獣王国は、獣王国の手によって救われるべきなんです」
「救いの手を差し伸べる者は必要です。力ある者が力なき者を助ける。
それがこの世の真理。そして、それこそが英雄に求められる役割では?」
「違います。力があるなら力がない人を強くなれるように導く、そうして強くなった人がまた弱い人を助けていく。そうした循環がなきゃ、それはただの依存だ。僕がテレサ師匠に強くしてもらったように、僕はトニトルス小隊の人たちを導いていかなきゃいけない……そう思っています」
監獄島での戦闘で、ジークはギルダーンに教えられた。
強い奴が弱い奴をただ守っていては、今までと何も変わらないのだと。
その行き着く果てにあるのは、きっと冥王のような、傲慢で独善的な支配だけだ。
「……なるほど。アステシアがあなたに惚れた理由が分かりましたよ」
ラークエスタは微笑んだ。
先ほどの魔性の笑みとは違う、全てを包み込む地母神の愛がそこにある。
「ですが、それとこれとは話が別です。古今東西、代償もなく神の力を得ることは出来ない。あなたが獣王国の救済を望むならば、それ相応のものを示してもらう必要がある。わたくしは対価を示した。あなたは拒んだ。では、どうするというのです?」
「悪魔を葬魂する神霊を、しかるべきタイミングで出して頂ければ」
にやり、とジークは笑う。
「今、あなたに集まっている信仰を、これまでと比較にならないものに育てて見せます」
ラークエスタは目を丸くした。
静寂は一瞬、「ぷッ」と彼女は噴き出し、
「あっはははははははは! 何を言い出すかと思えば!
わたくしへの信仰を育てる? それが英雄の言うことですか! くくっ……」
「答えは?」
ラークエスタは顔を上げ、
「いいでしょう。あなたが何を為すのか気になってきました。
但し、神霊を出すかどうかはわたくしが見定めます。
くれぐれも、わたくしを失望させないでくださいませ。ジーク」
「えぇ。必ずや期待に応えて見せます。いと尊き地母神よ。どうかご照覧あれ」
口調を改め、ジークは絶対の信頼を込めた眼差しで遠くを眺めた。
「僕の友が、あなたに人の力を示してくれましょう」
不意打ち更新失礼します。
予想以上に長くなったので分けました!
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