閑話 女神の悩み
ーー天界。叡智の図書館。
大空を飛んでいる竜の姿をじっと見つめている女の姿があった。
視線の先、竜の上で笑い合うのはジークとルージュだ。
最愛の男が別の女と楽しそうにしているのを見て、彼女は気が気でなかった。
「うぅ……」
別に、彼の浮気を疑っているとか、そういうわけではない。
彼がルージュの想いを袖にしたのは女も見ていた。
ただ彼の自分に対する好意を量りかねていて……。
「うぅ。どうしよう、どうしよぉ……」
眦に涙を浮かべながら、ただ、彼を見守るしか出来ないのだ。
ハンカチを口に噛み、涙を浮かべ、なきべそをかく。
どうしよう、と繰り返す彼女の耳朶を、呆れたような声が叩いた。
「いい加減にしてください。アステシア様」
ブツン、と投影映像が切れ、彼の姿が見えなくなる。
「ぁ」名残惜しそうに声を漏らした女ーーアステシアの、むっとした目が横に向いた。
「ティア。なんで切ったの……」
「かれこれ五時間以上、どうしようと言いながら下界を見る主人が見ていられなかっただけです」
「だって……しょうがないじゃない」
アステシアは頬を膨らませた。
思い出すのはつい数日前の出来事。彼の前に神霊を降ろした時の態度だ。
表面上は普通に振舞っていたアステシアだが、内心は気が気でなかった。
こちらを見上げてくる彼の瞳は、いつもよりずっとそっけなくて……
「うぅ」
アステシアは見る間に眦に涙を浮かべ、
「どうしよぉ、ねぇティアぁ~~!」
ばふ、ティアの胸に飛び込んだ。
勢いよく主人に抱き着かれた熾天使は翼で衝撃を緩和する。
ごしごしと、彼女の主人は眷属の胸に顔をこすり付けた。
「嫌われたかな、嫌われたかなぁ……! ジーク、私を嫌っちゃったかなぁ……!」
「だから嫌っていませんって何度言えば……」
「だってッ!」
アステシアは顔を上げ。潤んだ瞳で弱音を吐く。
「だっていつもよりそっけなかったし! 目を合わせようとしたら避けられたし!
絶対怒ってるよぉ。ヤタロウのことも、ジークのこと何も言わなかったことも!」
「ですが、全て彼の為だったんでしょう?」
「そうだけど……そうだけど!」
アステシアは頬を膨らませ地団駄を踏んだ。
ーーそう、仕方ない事ではあるのだ。
ヤタロウと出会ったのはジークと出会う遥か前で、彼は破壊神の腕を回収するための駒だった。男として何の魅力も感じていないし、神官としても並以下だと思っている。
けれどその頭脳だけは人間の中でも優秀で、駒とするにはうってつけだった。
そしてジークの事を何も言わなかったのは……。
「だって、私が答えをあげたら、ジークの物語が歪んじゃうじゃない!
自分の選んだ結果に迷って、苦しんで、足掻いて、成長する姿が大好きなんだもん!
女神があげた答えを喜ぶジークなんて……そんなの、見たくないわ!」
叡智の女神の本能とでもいうのか。
アステシアが魂の底から求める『未知』はジークの選択の結果にこそある。
女神として手助けする事はあっても、彼の選択に介入する事は許されない。
何より、彼の成長の為にもよくない。
彼の『理想』は他の誰も歩んだことのない修羅の道だ。
他人が与えた答えを甘んじて享受するようなら、その道は途絶えるだろう。
実際、壁を乗り越えて成長したジークの姿はカッコよかった。
でも、それでも。
「やっぱり、嫌われたかなぁ……ねぇ、ティア」
「あーもう。うっとおしいですね、このダ女神は」
「ティア!?」
眷属の容赦ない罵声にアステシアは怯んだ。
ティアは続けて、
「叡智の女神が男に翻弄されてどうするのですか」
「いや、でも」
「あなたは泰然と構えていればいいのです。全ては上手く行っています」
「そうかなぁ……」
「そうですよ。今回の事もプラスに働いていますよ。むしろちょうどいいです。
最近は押しすぎましたから、今は少し引いた方が彼もアステシア様を気にするかと」
「そう、かなぁ……」
アステシアは力を抜いて、ティアに胸を預けた。
恋愛関係では頼りになるティアの言葉も彼女を安心させるには足りない。
それでも、こうして抱きしめていると、不思議と落ち着くものがあった。
「ねぇ。ティア」
「何ですか?」
暖かい言葉を期待したティアに、アステシアはボソりと呟いた。
「……胸、痛い」
「…………」
「いだっ、ちょ、いだだだだだっ、なんで頬っぺたつねるの!?」
「黙りなさいこのダメ主人。もぎ取りますよ」
「何を!?」
わいわいと騒ぎ合う女神と眷属。
まるで友人のような言い合いをする彼女らは、不意に動きを止めた。
「あら、訪問者ね」
「誰でしょうか、こんなに朝早く……おや、これは」
ティアが目配せすると、アステシアは無言でうなずき、乱れた服を整えた。
二人が『叡智の図書館』の入口へ行くと、空間に裂け目が出来た。
裂け目の中から、白い女神と天使が歩いてくる。
「おはよう、アステシア」
「えぇ、おはよう。アウロラ」
友神であるアウロラの訪問に、アステシアは麗しい女の笑みで答える。
ティアもスカートをつまみ、軽く翼と膝を折り曲げてカーテシー。
対し、アウロラの隣に居た天使はティアと同じように一礼した。
「お久しぶり……というほどでもないですが、お邪魔します。ティア様」
「えぇ、ようこそ。リリア」
同じ熾天使の歓迎を受けたリリアはほっと頬を緩める。
だが、毒舌天使の隣にいるアステシアは気が気でない様子だ。
「そ、それで、このタイミングで訪れたって事は……リリア。そういう事ね?」
「……? はい、そういう事です」
「……そう。いいわ。おいでなさい」
威厳ある女神の顔を取り戻し、アステシアは踵を返す。
アウロラとリリアは顔を見合わせ、どういうことかとティアに目を向けた。
ダ女神を支える毒舌天使は肩を竦め、無言でついてくるように促す。
ーー叡智の図書館、バルコニー。
「それで、話はジークの事ね」
「え」
困惑したリリアをよそに、アステシアは手で制止する。
「待って。皆まで言わなくていいわ。あなたの言いたいことは分かってるもの。
妻として、ジークに何も言わなかった私に一言モノ申したい、そうでしょう?」
「いや、あの」
「いいわ。しょうがないもの。私だって女としての覚悟がある。
アウロラという応援も連れてきているようだし、あなたが本気なのは分かるわ」
「えーっと……」
「だから、どんと来なさい。この叡智の女神が、あなたの不満を全て受け止めましょう」
キリッ、とアステシアは決め顔でそう言った。
微妙に震える彼女の手から、耐えきれない感情が伝わってくる。
アウロラとリリアは顔を見合わせ、困惑したように切り出した。
「アステシア。それ違う」
「え」
「あの、わたしたち、アステシア様にお礼と挨拶をしに来たんですけど……」
「え?」
アステシアはぽかん、と目を見開いた。
ぎぎぎ、と錆びついた歯車のようにティアを見る。
冷たい顔をした毒舌天使は呆れの視線を返した。
「だから言ったでしょう。全くあなたは……」
「ど、どういうこと? だって私はジークを傷つけて……」
「でも、全部ジークの為だったんですよね?」
「あ、当たり前よ!」
「だったら、アステシア様は何も悪くないですよ」
リリアは慈母のような微笑みを浮かべ、
「むしろ、ありがとうございました、アステシア様」
「ほぇ」
「今回、アステシア様が居なければ妹が闇に落ちていたかもしれません。
ヤタロウというカードがなければ、ジークの目的も遠のいていたかもしれない。
いえ、最悪の場合、破壊神の力でジークが殺されていたかもしれないのです」
一目見ただけだが、あの破壊神の腕はそれほどに危険だった。
破壊の力を目の当たりにしていないリリアでさえそう思うのだ。
アステシアがヤタロウを使って何とかしようとしたのも分かる話である。
「だから、今日はそのお礼をしに来たんです」
「おれい」
「それと、挨拶」
アウロラは無表情のままリリアの頭に手を置いた。
「運命の子が迎えに来るまで、リリアが天界に居る事になった。
私たちの代理人でもある熾天使が生まれたら挨拶に行くのは神々の慣例。
リリアの場合は転生してすぐに下界に降りたから、挨拶をする暇がなかった」
「そ、そう……怒りに来たわけじゃないのね」
アステシアはほっとしたように息をついた。
たまらず、リリアは問いかける。
「どうしてそう思ったんですか?」
「だって……」
ティアにしたように不安を吐露すると、リリアはきょとんとした。
それからクスクスと笑いだして、アステシアはむっと頬を膨らませる。
「なんで笑うのよ」
「だって……アステシア様、何でも知ってるのに見当違いすぎて」
「見当違い?」
「逆ですよ。今回の事で、ジークはアステシア様の事かなり意識してます」
たぶん、アステシアは気が付いていないのだろう。
自分の評価が低いせいで、彼がヤタロウを見る視線にも気付いていない。
ティアが「もっと言ってやれ」と促してきたので、リリアは頷いた。
「ヤタロウを見るジークの目、見ましたか?」
「……? 見たわよ。嫌いな人を見る目でしょ?」
「そうですけど、そうじゃありません。ジークは妬いてたんですよ」
「や、妬いてた? あの子が?」
「そうですよ。あのジークが、です」
ジークが自分以外にアステシアの加護を持っている者を見たのはアレが初めてなのだろう。元よりアステシア自体が他人に干渉しない神だ。それは無理もないが。
「あの目は、女を独り占めにしたいと駄々をこねる男の目でした」
「……ジークが、そんなこと。じゃ、じゃあ、私を女として意識してるってこと!?」
「そう言ってるじゃないですか」
「~~~~っ」
アステシアの顔はみるみるうちに真っ赤になった。
恥ずかしさよりも嬉しさが勝り、口元がニマァとにやけて来る。
「そ、そう。まぁ分かってたけど? 私、叡智の女神だし?
権能を使えば大体なんでも分かるし? そんなのとっくに気付いたけど?」
くるくると髪をいじりだし、服装をチェックするアステシア。
手鏡を持ち出して髪の毛まで整える始末だ。
「よし」と満足げに頷く主人に、ティアは疲れたように息をつく。
「だから何度も言ったのに……なぜリリアの言葉で立ち直るんですか」
「リリアは、運命の子の花嫁。同じ男を好いた女の言葉……効果は違う」
アウロラのフォローに、ティアは頷いて、
「分かっていますが……釈然としません。やはりもぎ取りますか」
「ね、ねぇ。それで、ジークは私の事なにか言ってた?」
「何も言ってませんけど、気にはしているようでしたよ。
昨夜、アステシア様の神殿に行こうかどうか迷っているくらいでした」
「……! そうなのね、ふふ。いつでも来ればいいのに。
今度呼び出してあげようかしら。うふふ。ふんふんふふ~ん♪」
上機嫌に鼻歌を歌いだしたアステシアにリリアは口元を緩める。
最初は女として敵対していた彼女だが、今となってはその魅力がよく分かる。
普段はキリッとしている女神なのにこうして見せるギャップが可愛らしい。
そんな彼女と普段から接していれば、好きになるのも分かる話だ。
「ティアっ、今日の昼食は豪勢にいくわよ! 親交を祝して宴会ね!」
「宴会って……他に誰か呼ぶ気なんですか?」
「どうせアウロラがリリアを紹介しなきゃなんないんだし、神域を一ヶ所ずつ回るのも面倒でしょ? 他の大神たちは当然として、ドゥリンナとエアゾーナも呼んであげようかしら。熾天使たちは全員準備よ。リリアとアウロラは主賓だから待機ね!」
「え、ちょ、アステシア様!?」
「ちょっと呼びに行ってくる!」
リリアが止める間もなく、アステシアは神域から出て行った。
引きこもりと名高い叡智の女神が外出する様は、すぐに天界中の噂になるだろう。
呆気に取られていると、ティアが何度目と知れないため息をついた。
「はぁ……あんなに機嫌が良いアステシア様は初めて見ましたよ。全く。
これが愛の力というやつですか……あの巨乳ごと爆発すればいいのに」
「ティア様っ? ちょっと怖いんですけど?」
「冗談です。後半は本気ですが」
「そのほうが問題ですけどっ!?」
ティアの険しい目はリリアの豊満な胸に向けられている。
その目がすっとアウロラの方へ行くと、彼女はふっと目元をやわらげた。
「アウロラ様……あなたは味方ですね」
「……ねぇ、アステシアの眷属。とても失礼?」
アウロラは不満げに言った。
リリアは戦慄と共に呟く。
「あ、あの。六柱の大神って……わたし、あの方たちの前で挨拶しなきゃなんですか!?」
「熾天使となった時点で何を今さら……当たり前でしょう」
「私も一緒。問題ない」
「問題ありすぎます!? わ、わ、どうしましょうなんて話したらいいですか!?」
ジーク絡みではない案件では神を相手に緊張してしまうリリアである。
戦々恐々とする彼女の元へ次々と神々が集い始め、あまりの恐れ多さにリリアはたじたじだ。
一方、アステシアは宴会の中、天界中が戦慄するほど上機嫌でーー。
あまりの上機嫌に、神々は何か裏があるのではと勘ぐってしまったとか。
天界中にジークとアステシアの婚約の話が伝わったのは、そのすぐ後の事だったーー。
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