第二話 修羅場
天界に満天の星々が輝いている。
雲の上から見える景色に遮るものはなく、見上げれば数々の星座を楽しめるだろう。
天界に住まう天使たちもまた、酒を飲みながら楽しんでいる。
だが、その一角。
神々ですら近づくことを敬遠する女神アステシアの領域。
『叡智の図書館』は今、とてもではないが星空を楽しむ余裕はなかった。
『………………』
テーブルを挟んで向かい合わせに座る四人の姿。
片方はこの領域の主であるアステシアと、その眷属ティアだ。
もう片方は半魔と天使の組み合わせ。ジークとリリアである。
墓参りを終えたその日の夜、早速二人は神殿に行ってアステシアに面会を希望した。
その結果、希望がかなえられてここに居る……というわけだ。
本来、冬の女神アウロラの天使であるリリアだが……。
今はその立場より女としての立場で、ぴったりとジークに引っ付いている。
恋人の体温が隣から伝わり、胸のふくらみが当たっているのに、いやらしい気持ちは微塵も起きない。
「えーっと……」
言葉にしがたい空気がその場に満ちているからだ。
向かい合う女性たちに視線を行き来させ、ジークは助けを求めるようにティアに水を向ける。
「ティアさん。知っているかもですけど、こちら、恋人のリリアです。あと、アウロラ様の天使で……」
紹介を遮り、ティアは頷いた。
「存じております。若き熾天使のお噂はかねがね。天使として徐々に位階を上げるのではなく、いきなり神アウロラ様の眷属に転生したその異例さは天界でちょっとした騒ぎになりました。しかしこうして対面してみると……思ったよりも普通ですね。魔力量もわたしの方が上ですし」
「ちょ、ティアさんっ?」
キレのある言葉に戸惑うジークだが、リリアは負けじと返した。
「わたしも若輩者ですが、ティア様の事は聞いています。女神アステシア様に何百年も仕える毒舌天使。その舌鋒に沈んだ男性天使は数知れず、アステシア様に近付こうとする者には容赦しない冷酷無情な守護者であるとか。ですがこうして対面してみると……思ったより舌鋒にキレがありませんね。女性としての魅力にも欠けるようですし」
一瞬の沈黙。そして、
「「はい?」」
二人の天使はにっこりと笑い合う。
表面上は笑って見えるのに、目の奥は対抗心の炎が燃えていた。
そこで思わずある部分を見比べてしまうのは男の悲しい性だ。
リリアの豊かさを果実と表現するなら、ティアのそれは絶壁であった。
(確かにリリアの方が大き……いやいやいや、こんな時に何言ってんの僕!?)
ジークは慌てて首を振り、
(ていうかなんでこの二人仲が悪いの? 初対面だよねっ?)
実際の所、二人はお互いに何か思うところがあるわけではない。
ただおのれの敬愛する恋人や神を守るため、二人は見えない戦いを繰り広げている。
いま行われているのは、いわば主導権の奪い合いだ。
(ジークの一番はわたしです)
(アステシア様にその座を譲りなさい)
言葉にならない情報を視線で行き来させる二人。
ジークを守りたいリリアと、どうにかアステシアを幸せにしたいティア。
主導権を渡してしまえばこの話し合いに流れが出来てしまう。
ただ、ジークがそれを察する事が出来るはずもなく。
女二人の争いについていけず、ジークは茶菓子に手を伸ばした。
「ん!? ねぇリリア。この茶菓子めちゃくちゃ美味しいよ! 一緒に食べよ?」
「ジーク、今はそんな場合じゃないですから」
「さすがに空気を読んでくれます? この鈍感野郎」
「えーっと……」
なぜか自分に厳しいティアにジークは頬を引きつらせる。
リリアまで太ももをつねってきた。割と痛いからやめてほしい。
「大体、あなたが原因なのですよ。ジーク・トニトルス」
ティアは呆れ交じりに、
「あなたが煮え切らない態度を取るから、我が主が困っているのでありませんか」
「それは……」
「そうですよ。ジーク、あなたはアステシア様の事をどう思ってるんですか?」
リリアまでもがティアの追及に便乗する。
アステシアが肩をびくりと震わせ「どう、と言われても、」ジークは頭を掻いた。
「アステシア様の事は、好きだよ。でも、前にも言ったけど僕にはもうリリアが居るわけで……」
「つまり、アステシア様の事は女性として受け入れられないという事ですよね?」
容赦のないリリアの言葉に、アステシアが縋るようにこちらを見てきた。
捨てられた子猫のような眼差しに負け、ジークは思わず目を泳がせる。
「その……リリアが良ければ、その気持ちに応えたいな、とは思うんだけど……」
「ジーク……わたしじゃ不満ですか?」
悲しそうなリリアの言葉にジークは慌てて、
「違うよ! リリアは悪くない。むしろ世界で一番好きだよ、心の底から愛してる」
「……もう。そんなので誤魔化されませんからね。……えへへ」
リリアが頬を赤く染めると、ティアが「つまり」と唇を湿らせた。
「リリアの事は愛しているけれど、それはそれとしてアステシア様に女性的な魅力も感じている……というわけですね?」
「……恋愛的な意味かは分かりませんが……女性としては、まぁ、そうです。
ずっと僕の事を見守ってくれてる女神様ですし。気持ちは、その、嬉しいですし」
「ジーク……」
アステシアが眦に涙を溜めた。
ティアが咳払いし、
「という事は、あなたの胸先三寸ということになります、リリア」
「むぅ」
リリアは唇を尖らせた。
最も、今回の件に関しては完全に自分が悪いのでジークは何も言えない。
アステシアが先ほどから口を挟まないのも、立場を理解しているからだろう。
リリアはため息をつき、
「……元々、わたしがここに来たのはアステシア様と一線を引かせようとか、
そういうわけではありません。ただ、二人の本心を聞きたかったのです」
彼女はアステシアの顔を真っ向から見つめた。
アステシアの瞳もまたリリアを見据える。白と蒼の双眸がぶつかり合った。
「アステシア様、答えてください。ジークの事をどう思ってるんですか?」
「愛しているわ」
頬を染める事も、恥ずかしがるそぶりも見せず。
覚悟を決めた女の顔で、アステシアは即答した。
「英雄でもなく、運命の子でもなく、一人の男としてどうしようもなく惹かれてる。
ジークは私に可能性の外の未来を見せてくれる、ただ一人の子だから」
「……そうですか」
どことなくホッとしたように、リリアは頬を緩めた。
彼女が本当に懸念していたのは、アステシアがジークを利用価値ある存在として使おうとしている事だった。もしも何らかの目的のためにジークに力を与え、恋心と称して利用しようとしているならば……この身を盾にしてでも止めるつもりだったのだ。
(まぁ、神域に来た時から分かってましたけど……いつも鏡で見ている顔ですし)
ジークを思うアステシアの気持ちは本物だ。
確かに少しだけ悔しい気持ちもある。
自分だけを見てほしいという独占欲はあるが……
(それはそれとして、ジークには幸せになってほしいですから)
今まで半魔として辛い生涯を送ってきた恋人に、人並み以上に幸せになってほしい。
自分への気持ちが冷めて他の女に恋をするなら泣きたいところだが……。
自分をめいっぱい愛した上で、それでも彼女の想いに応えたいというなら。
「……分かりました。二つの条件付きで、アステシア様との関係を認めます」
「ほんとっ!?」
アステシアが身を乗り出した。
ティアが冷静に、
「その条件とは?」
「一つ、アステシア様とジークが今より深い関係になるのは全てが終わった後にしてください。わたしだってまだ婚姻の儀は済ませてないんですから、そんなの許しません。既に主と眷属の契りを結んでいる以上、ジークの死後、魂はアステシア様の元に還るのでしょう。その時は、アステシア様の神域に立ち入る許可を永続的にください」
「……いいわ。二つ目は?」
「身体を重ねるときはわたしも傍にいます。二人が勝手にスるのは許しません」
「……恥ずかしいけれど、分かったわ。それでいい」
ジークも頷いた。
元より文句を言う筋合いはない。
全てに決着がつくのが果たして何年後かは分からないが……。
神であるアステシアは待っててくれるだろう。
(リリアが許してくれてよかった。まぁ僕が悪いんだけども)
これで話し合いは終わりだ。
ジークはほっと胸をなでおろしたのだが、
「では、ここからが本題ですね」
「そうね」
「いやなんで!?」
再び視線で火花を散らす二人に、ジークは思わず立ち上がった。
「話し合いは終わったんじゃないの? リリア、許してくれたんじゃ……!?」
「言ったでしょう? わたしは元よりアステシア様との関係を咎めるつもりはありません。ぶっちゃけ、英雄や貴族が何人かの妻を娶るのは普通の話なのです。わたし自身も妾の子ですし。だから、それよりも重要なのは、」
「女としての序列ね」
「じょ、序列?」
「女としてどちらがジークの正妻か。そこをはっきりさせないと帰れません」
「えぇー……」
もう話が着いたということでいいと思うが、二人は聞き入れない。
アステシアは髪を耳にかきあげ、ふぅ、と息をついた。
「そもそもジークに最初に目を付けたのは私なのよ。リリア」
「……」
「出会ったのもあなたより早いし、あなたより先にジークの魅力に気づいていたわ。
つまり、そう。あなたは私が目を付けていたジークを横から奪い去った女狐なのよ。
ここは出会った順番的に私の方が一番ということになるんじゃないかしら」
「へぇ」
女神に対し、熾天使は好戦的に口元を吊り上げた
「先に目をつけていた。なるほどそうかもしれません。
ですがそれは神々としてでしょう? 最初からジークを男性として見ていたと言うんですか?」
「ぐ、ぅ……」
アステシアが言葉に詰まると、リリアは畳み掛けた。
「むしろジークを観察対象として色々遊んでいたんじゃないですか? 退屈を紛らわす道具じゃなかったと言えますか? 今さらジークの魅力と自分の想いを自覚したからといってわたしを女狐呼ばわりするのは違うと思うのですが、六柱の大神としてアステシア様はどう思われるのでしょう?」
「そ、それは」
「ジークを男性として意識したのはわたしの方が先です。
時系列という観点から言えば、わたしの方がジークの一番になるのでは?
むしろ使徒化のどさくさに紛れて想いを打ち明けたアステシア様の方が女狐では?」
「う、うぅう……ティアぁあ~リリアがいじめる~」
母親に甘える子供のように、アステシアがティアに抱き着いた。
ティアは心底呆れた、と言いたげに深いため息をつく。
「全くしょうがないですねアステシア様は。自分の恋愛ごとになると途端にダ女神になるんですから……仮にも叡智の女神が正論で負けてどうするのですか」
「だってぇ~」
「ほら、いつも腐らせている叡智を発揮して今こそ反論してください」
「そう、そうね……」
眷属に発破をかけられ、アステシアは居住まいをただす。
叡智の女神の瞳が妖しく煌めいた。
「分かったわ。時系列という観点で言えばあなたが一番だと認めてあげる。でもね、ジークの力になっている観点で言えばどうかしら。私はこれまでずっとジークと共に在った。ずっとね。対してあなたは? 不意打ちとはいえ第七死徒に殺されちゃったし、そのせいでジークが冥界に行くことになってしまった。そこで何があったかは知っているわよね? 咎めるつもりはないのだけど、本当にしょうがないことだとは思うのだけど、女として傍で支えてるとは思うのだけど、あなたは私よりジークの力になっていると言えるのかしら?」
「……っ」
「その点、私は使徒化もしてあげられるし、誰よりジークの力になってるわ」
得意げに胸を張るアステシア。
ぐっ、とリリアは奥歯を噛みしめた。
ーーそれは、今のリリアが一番気にしている事だった。
天使として転生し、力を上げたつもりだったのに、ジークはどこまでも先を行く。
神霊相手には勝てるようになったが、それとて仲間の力を借りた上でだ。
独りだったらどうなっていたか分からないし、何より、
(忘れもしないあの世界最強……『孤高の暴虐』にはかなわなかった)
時間稼ぎに徹しても、リリアの最大の術も破られてしまった。
ジークがあの最強を撃退出来たのは、アステシアの力があってこそだ。
そう言う意味では、自分がした事など本当に大したことではないのだろう。
「リリアはちゃんと力になってますよ、アステシア様と同じくらい」
「ジーク……」
リリアは思わず抱き着きそうになったが、ぐっと堪える。
ここで事実を受け入れずに甘えてしまえば向こうの思うつぼだ。
「気持ちは嬉しいですが、わたしの力が足りていないのは事実ですので」
「そんな事はないんだけどなぁ……」
ぴしゃり、と断言するリリアにジークは頭を掻く。
こうなるともう何をどうフォローすればいいのか分からず、二人のやり取りを見守るしかなかった。
「大体、わたしの方がジークの良いところいっぱい知ってますし!」
「そんな事言うなら私はジークの良いところを百個言えるわ!」
「少なくないですか? わたしは千個くらい言えますけど?
何なら朝から晩まで語り尽くせますけど?」
「言葉に出来ない良さが分からないところはまだまだ子供ね。
ジークの良いところは欠点も含めた全部よ。言葉に出来ないカッコよさがあるの」
「そこに異論はありませんが、言葉に出来ない良さを口にしてこその恋人では?」
「ふん。いいでしょう。なら、今からジークの良さを挙げていきましょうか。
どちらがより多くジークの良さを言えるのか、勝負よ」
「望むところです!」
同時に立ち上がった女神と天使。
慌てるジークをよそに、アステシアはさらりと髪をかきあげた。
「まず私からね。私が一番良いと思うのはジークのギャップよ。
戦いの時の凛々しさとたまに見せる無垢な笑顔のギャップが癖になるわ。
もうあの笑顔を見るだけで食事が進んじゃうもの」
「ぐ……! そこを分かっているとはなかなかやりますね。
ですが甘いです。わたしの一押しは仲間の為に戦っている時のジークの表情です。
彼の決意と仲間を思う優しさが渾然一体となった顔は筆舌にしがたいです。
特にわたしの為に怒ってくれてる時なんてそれはもう……
えへへ。思い出しただけでニヤけちゃいます」
「ぐ、ぅ……! やるわね。けどまだよ。次に私が良いと思うのはーー」
もはや議論ではなくノロケ大会のようになってしまった。
自分のことを言われているジークの居心地の悪さは尋常ではない。
嬉しいやら恥ずかしいやら熱くなった顔を冷ましつつ二人の間に割って入って、
「あ、あのね。アステシア様、リリアも、ちょっと落ち着いて……」
「「ジークは黙ってて!」」
「あ、はい」
ジークは座り込んだ。
おかしい。今のは悪くないはずなのに。
「……英雄としては上等でも、女関係になると途端にダメ男ですね、あなたは」
やれやれと、毒舌天使は肩を竦めた。
全くその通りなので何も言い返せないジークである。
もはや二人のやり取りを見守るしかないのか……そう思っていると、
「仲介人を呼んでおいて正解でした」
「え」
「ーー二人とも、そこまで」
ふわり、と白雪が膝の上に舞い落ちる。
違和感を覚えて顔を上げれば、あふれ出す神気を纏って一人の女が立っていた。
「アウロラ様!?」
白い女だ。髪も服も目も、全て白。
触れた途端に消えてしまいそうな儚さがそこにある。
冬の女神アウロラ。リリアの主にして月の女神エリージアの妹だ。
「アウロラ、どうしてここに……」
「私が呼びました。お二人だけだと永遠にノロケていそうだったので。私、少々胸焼け気味です」
「ティア。あなたって子は……」
ティアの先見の明には舌を巻くしかない。あるいは本当に未来が見えるのか。
そんな事を勘ぐってしまうアステシアに、アウロラは微笑む。
「神々の会議ぶり、アステシア」
「そうね。あなたなら歓迎するわ。でも……」
叡智の女神は冬の女神と眷属を交互に見て、
「ハッキリさせておきたいのだけど、あなたはどちらの味方かしら?」
「どちらの味方でも、ある。リリアは大事な眷属……アステシアは大事なお友達」
「アウロラ様……でも私、ジークの一番がいいんです」
「分かっている。それは……二人とも、同じ」
おのが眷属に頷き、アウロラは指をくるくると回す。
すると、ジークの頭の上に花を模した雪の冠が出来た。
「つめたっ」
「ふふ。運命の子。かわいい」
「ジークで遊ばないでくださいアウロラ様!?」
「王子様は一人。お姫様は二人。どちらも一番を主張している。運命の子、あなたはどちらを選ぶ?」
初対面のアウロラに問われ、ジークは首を振った。
「僕にとっては、どちらも大事な人です。リリアは恋人ですし……
アステシア様は、お姉ちゃんみたいな感じですし。どちらが一番とか、ないです」
「そう。それが正解」
アウロラは満足げに微笑んだ。
「ここは私に任せてもらう。リリア、アステシア、いい?」
「まぁあなたなら、公平にするでしょうし……」
「わたしも、アウロラ様なら文句はありません」
「ありがとう。二人の話はリリアを通じて聞いていたから……結論を言う」
一瞬の沈黙を置いて、冬の女神の裁決が下される。
「冥王を倒すまでの間、リリアが正妻。アステシアは二番目。そのあと二人は対等。
どちらも一番。女としても、妻としても、パートナーとしても」
「「む……」」
「異論は認めない。これが一番丸く収まる方法」
「……しょうがないわね。私の方が割り込むんだし……女として対等なら、それくらい待つわ」
「わたしもそれでいいです」
結局当初の議論通りと言う事になった。
今までの話はなんだったんだと思うジークだが、口には出さない。
(二人とも仲良くなれたらいいんだけど……今度、手料理作ってあげようかな)
みんなでご飯を食べれば仲良くなるはずだ。
そんな恐ろしい事を考えているとは知らずーー
女神と天使の修羅場は、いちおうの終幕を迎えたのだった。
「めでたし、めでたし、だね」
「「「あなたが言わないでください!」」」