第十話 深淵の死闘
「倒し方が分かった? どういうこった、姉御?」
「姐御? い、いえ、ともかくあの神霊、受肉体は受肉体でも実体がないんです」
「生身の肉体があるわけではないということでしょうか?」
「はい。あいつが憑依しているのは全く別の存在……」
リリアは視線を周囲に走らせた。
自分たちには見えないし、感じる事も出来ないのだが、
「恐らく、精霊。この深淵領域の闇に満ちる精霊こそ、奴が受肉しているものの正体です!」
「精霊……なるほど、言われてみれば……気配が濃すぎて気づきませんでした」
そう、ダルカナスがどれだけ潰しても死ななかったのはそれが原因だ。
エルダーや魔獣に憑依した神霊が傷を癒す場合、再生が必要となるが、精霊という実体のない存在に憑依している彼にまともな攻撃は通らない。
だが精霊とて無敵ではないだろう。
もしも闇の精霊に憑依しているのなら、光の性質を持つ攻撃をぶつければ倒せるはず。つまり勝利の鍵はーー
【ダッハハハハ! バレてしまったか。思いのほか早かったな】
「一秒でも早くその口閉じてやるよッ、クソ神!」
【バレたところで問題がないから、我は神なのだよ。獣人の】
ダルカナスの肉体が闇に溶けていく。
【依り代が分かったところで我を倒せるか? 試して見るがいい】
「言ったはずです。倒し方は分かったと」
しゃらん、とリリアが錫杖を鳴らす。
その瞬間、リリアの羽がまばゆい光を放ち、周囲の闇を晴らし始めた。
直後、ダルカナスの姿が消え、
【む……!】
「狙いがバレバレ」
リリアの背後に現れたダルカナスを、ルージュの影が貫いた。
無論、ダルカナスにそんな攻撃は無意味だ。
すぐに闇に溶けて消えればいいーーそう思った神霊は油断していた。
【これは……!】
「ちょこまか動くの鬱陶しいからさ。そこでじっとしていなよ」
神霊体を操作しようとしたダルカナスは、おのれの身体が動かない事に気付いた。
【……っ、吸血鬼の影縛り……! おのれの影と同調させ我の動きを固定するか!】
それだけではない。重力場も展開している。
おのれの影に触れた者のみを対象とした重力の操作だ。
半魔だったころに獲得した異能は燃費が悪い欠点があったものの、
魂の泉での修業を経てルージュはその欠点を克服し、
最小範囲で重力を展開することで燃費を大幅に改善した。
吸血鬼の特性と、悪魔の異能。
二つを合わせたルージュの戦闘力は、特級悪魔を遥かに凌駕する!
【この……!】
「ざまぁねぇな、クソ野郎ッ!」
影を引きちぎろうとした神霊の頭上からオズワンが迫る。
動きを止められた神霊は、しかし、頭だけを動かし、豪風を伴う拳を避けた。
そこまで全て、オズワンの予想通りだ。
「がぁああああああッ!」
【な……ッ】
オズワンの強烈な牙が、神霊の肩を食い破った!
いくらルージュと言えど神霊の動きを完全に止められないのは織り込み済み。
オズワンは獣人特有の魔力を喰らう性質を以て、ダルカナスの魔力体を喰らったのだ。
「そう、勝利のカギはわたしではなく──」
「わたくしたち、獣人という事ですわね」
目には目を。歯には歯を。
そして、
「精霊には精霊を! 大地の子よ、大地の子! 我が敵を取り込み喰らえ!」
【……!】
カレンの精霊術が炸裂する。
指示を受けた大地の精霊が揺らめき、瞬きの後、ダルカナスの足元がぐぉおおと動き出した。
「わたくしの精霊術は攻撃だけではありません。動きを止め、封じる事もできます」
そもそも大地の精霊は他の精霊と比べて攻撃的ではない。
大地を育み、守り、恵みをもたらす存在だ。
そして大地とは時に異物を取り込み、分解し、おのれの土壌とする力を持つ。
その性質を発揮すればーー闇の精霊を分解し、ダルカナスの依り代を壊すことも可能となる!
【アウロラの天使は囮……! 光の属性で闇を相殺すると見せかけて、本命はこれか……!】
オズワンの牙とカレンの攻撃を受け、さすがのダルカナスにも動揺が走った。
顔色を変えた神霊は土が絡みついた足を切り離し、蜥蜴のように脱出。
だが、そこへ。
「あんたの動き、お兄ちゃんより分かりやすいよ」
【吸血鬼の娘……!】
どすん、とルージュの血槍が神霊の身体を突き破った。
先ほどと同じ状況。しかし、今回ルージュが使った血は少々意図が異なる。
【貴様、魔力を……!】
「内側から食い破るのが無理なら、吸い尽くしてしまえばいいんだよね」
吸血鬼の特性の一つ、魔力吸収だ。
兄と同じ力を発揮したルージュの血は、あらゆるものを喰らい尽くす。
「さっさと死んじゃえ……!」
ルージュは魔力吸収の力を強めるが、
【確かに、確かに実力はあるようだが……舐めるなよ、麗しき乙女たち!】
ダルカナスが吠えた瞬間、底なしの闇が世界に噴出したのだ。
リリアの光が弱まり、大地の精霊は怖気づき、ルージュは顔を歪める。
【我は神霊! かつて十二柱の大神としてその名を轟かせた色男、ダルカナスである! 闇にひれ伏し我に抱かれよ!】
神殿という場を侵食していくように、黒い染みが広がり、呑みこんでいく。
空間ごと喰らう闇は底知れず、またその潜在魔力も怖気が走るほど凄まじい。
限界を感じさせない力の具現は、さすがは神霊というべきだろう。
「顕現せよ、天界の光よ、天使の御霊において命じる。蔓延る闇を照らしたまえ! 我が名はリリア!」
しゃらん、と錫杖が鈴音を立てた。
同時、リリアを中心に放たれた放射状の光が、神霊の闇を押し返し始めた。
合図を受けたオズワン、カレン、ルージュが、リリアの元に集まる。
ーーそれを待っていたかのように、闇の中から鬼のような存在が押し寄せてきた。
「お姉ちゃん!」
「ルージュ、わたしの援護を。カレンさん、あの精霊たちに干渉して押し返せますか?」
「やってみます!」
「オズワンさん!」
「任せろ。テメェらにゃ指一本触れさせたりしねぇよぉ!」
押し寄せる黒い兵士たちに対し、オズワンは獅子奮迅の働きを見せる。
本来であれば陽力を吸う闇の兵士たちも、陽力を持たないオズワンに対してはその特異な力を発揮できない。
鍛え上げられた拳が振るわれるたび、兵士たちは粉微塵となって消え、リリアたちへ近づけないでいた。
その間に、
「《虚ろなる闇》《我が血肉よ、影を呼べ》《光の輝きを》《跳ね返せ》」
リリアに寄り添うルージュが魔力を練り上げる。
それは吸血鬼としての力だけでなく重力の異能も応用し、二つの力でルージュが独自に組み上げた原初の力。
ルージュは叫んだ。
「『深き影の鏡』!」
詠唱を経て、リリアの光が視界を染め上げるほどに増大する。
ダルカナスの闇の呑まれかけていた空間は、天使の神聖な光で満たされた!
【馬鹿な、なぜ……いや、そうか、そういうことか……!】
「そ、あたしの影だよ」
ルージュはニヤリと笑う。
天使の輝きを放つリリアの隣で、彼女の周囲だけが闇に染まっていた。
「光はそれ単体じゃ眩しいだけ。でも、影がある事で深みを増すんだ」
そう、光が増幅したのではない。
ルージュの影がある事で、光が際立ち、結果として光が強くなったのだ。
光と闇は表裏一体。
光あるところに影はある。
逆に言えば、光は影がなくば成り立たないとも言える。
ルージュは重力の力で限界まで圧縮した小ブラックホールを展開することで、周囲の光を呑みこんだ。そしてその反動で、リリアの光は重力に負けじと輝きを増したのである。
光と闇が一つとなり、黒と白、二つの奔流がダルカナスの闇を突き破るーー!
【これしきの事で……!】
「わたくしを忘れてもらっては困りますわ」
【……!】
カレンの声が凛と響いた。
その瞬間、ダルカナスに従っていた精霊たちが、怖気づいたように力を弱めてしまう。
【どうした、お前たち……!?】
「大地は全てを抱擁するーーそれは光も、闇も同じ、わたくしのお願いで、退いてもらったのです」
【馬鹿な……精霊と交渉するだと!? そんな高度な精霊術を扱えるなどは……いや、まさか】
ダルカナスはギリッと歯噛みした。
【そうか、貴様、貴様ら一族は……!】
「今さら気付いたところで遅いですわ……愚弟!」
ダルカナスの闇が引いた瞬間、オズワンが飛び掛かる。
「待ってたぜ、テメェを思いっきりぶん殴れる、この時をなァッ!!」
【…………!】
「オラ,オラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオァッッ!!!」
拳撃のラッシュ。
拳が分身したかのように錯覚する勢いで、オズワンはダルカナスを殴りつける。
一撃一撃が、岩を砕く破壊力を持つ拳だ。
それが五、十、十五、二十、五十、百と、嵐のように繰り出され、神霊体を打ち砕くーー!
【ば、か、な…………!】
本来であれば分解、もしくは再生していたであろう。
闇の精霊に憑依するダルカナスに実体はない。先ほどのようにオズワンの攻撃は届かないはずである。
だが、カレンの精霊術により、今や周囲の精霊全てが彼女の支配下と相成った!
もはや、精霊を依り代とするダルカナスはまな板の上に乗った魚のようなものだ。
リリアの氷が、ルージュの血槍が、オズワンの拳が、カレンのゴーレムが。
四人全員の攻撃が合わさり、ダルカナスを真っ向から打ち破るーー!
【ぐぁあああああああああああああああああああああああああああああ!!!】
ダルカナスの絶叫が、深淵の底に響いていく。
精霊体という切り札を封じられた彼は、無数の光の粒子となって天界に帰っていく。
「おっしゃ……!」
オズワンは一人、拳を握った。
確実に手ごたえがあった。
間違いなく撃破だ。自分たちの力で神霊を倒せたのだ。
「ハッ、ざま見ろクソ神ッ! テメェみたいなキモい神なんざーー」
その瞬間だった。
「ーーっ、ゴリラ、避けてッ!!」
「……っ!?」
頭上から鞭のようにしなる何かがオズワンを狙い打った。
間一髪避ける事に成功したオズワンだが、その腕は真っ赤に染まっている。
神経を引きちぎられるような痛みに、獣人の戦士はぐっと奥歯を噛み締めた。
(衝撃の余波だけでこれかよ……!)
「何なんだ、何が来やがった!?」
【認めよう。我は貴様らを舐めていた】
ダルカナスが消えると同時に地面に穴が開き、どこからともなく影が現れた。
先ほどまでダルカナスの人影よりさらに大きなものだ。
その声はぞっとするほど低く、その場にいた誰もが顔を上げーー
そして絶句する。
【我にこの手段を取らせたこと、褒めて遣わすぞ】
それは人の身体ではなかった。
胴体から九つに分かれた頭が触手のようにうねっている。
その頭は人の者にあらず。禍々しい角が生え、鋭い牙が生えた、それはーー
「ヒュドラ……! 闇の神の眷属、堕ちた神獣の成れの果てですか……!」
「神獣だぁ!? 神獣ってのはあんなにヤベェもんなのかよ!?」
オズワンの悲鳴じみた声も当然と言える。
今、この瞬間にも神殿中が魔力で揺れていて、びりびりとした重圧が襲ってくるのだ。神霊など目ではない。一歩動けば殺されるーーそんな予感が目の前の神獣にはある。
「あんなバケモノ、どっから現れやがった……!?」
「ここの地下に隠していたんでしょう。あの神が楽しむために」
リリアが苦虫を噛み潰したように言った。
「ヒュドラから闇の神の気配を感じます」
「な……じゃあアレが本体だってのか!?」
「違うよ。アレはあいつの本当の姿じゃない」
ルージュは注意深くヒュドラの身体を観察しながら、
「さっきまでのあいつは間違いなく闇の精霊に憑いていた。でも、完全に神霊体が殺される前に本体を逃がしたんだ。そしてその本体は、あらかじめ飼いならしていたヒュドラに取り込ませてから乗っ取ったんだよ。つまり、アイツの受肉体は変わってない。精霊の上にヒュドラって言う鎧を纏ったみたいなもの!」
「しかもこのヒュドラの『圧』。恐らく未踏破領域の主……!」
ルージュの指摘に補足したリリアはぐっと奥歯を噛みしめた。
(この魔力、この重圧感……! 龍脈から溢れるエーテルを吸収してますね)
龍脈から溢れる力は地球の生命力そのもの。
魔獣によって取り込める力の上限が違うとはいえ、ヒュドラのそれは別格だ。
ただでさえ強力な未踏破領域の主が、神霊という『意思』を取り込めばどうなるか。
(神霊自体は、倒したと言っていいと思いますが……)
今、目の前にいるヒュドラからは神霊の魔力は感じない。
つまり、リリアたちはダルカナスの魔力を殆ど削ったと見て間違いない。
今のこれは、神霊という意思を取り込んだ破壊の権化。
「……っ」
迷いは一瞬、葛藤は刹那だ。
「……撤退します」
絞り出すように、リリアは敗北を認める。
「お姉ちゃん」
「アレは危険です。神霊を相手にしたわたしたちは疲労している。今のアレがどの程度龍脈の力を取り込めるかも分かりませんし……仮にギリギリ倒せたとしても、龍脈の力で回復されれば無意味。今すぐ撤退すべきです」
「……ま、それが妥当か。クソッ」
「わたしが時間を稼ぎます。三人はその間に出口をーー」
【ーーおいおい、我がそれをさせると思うかよ?】
九つの口が同時に同じ言葉を吐き、
【もう少しゆっくりしていくがいい。我に抱かれるまでなッ!】
「ーーッ! みんな、集まって!」
【遅いわ! 『暗黒竜の咆哮』!】
炎が、氷が、風が、毒が、光が放たれる。
異なる属性を組み合わせたブレスは直線状で組み合わさり、五色の光となって螺旋を描く。
大きく地面を抉りながら迫る、恐るべき咆哮に対し、ルージュが前に出た。
「『黒壁・極』!!」
詠唱の余裕すらない。一秒の刹那を惜しんでルージュは重力を展開。
極限まで圧縮された重力の壁は咆哮を受け止め、頭上からの加重で押しつぶす。
ーーだが。
「く、ぅううううううううううううう」
その絶対防御を通り抜け、ルージュの手のひらが焼け焦げていく。
耳から真っ赤な鮮血が噴き出し、彼女の全身に亀裂が走った。
「ルージュ様!?」
【ダッハハハッ! 無駄、無駄! 我が攻撃を受け止めるのは、大地そのものを受け止めるに等しい! 龍脈の力を得た我に不可能はなし!】
「ルージュ、やめてください! それ以上やったらあなたが……!」
「それでも」
ギリ、と血反吐を吐きながら、それでもルージュは踏ん張った。
背後に集う仲間たちの気配を感じながら、敬愛する兄を想う。
「お兄ちゃんなら、絶対に諦めないから……!」
「……!」
「あたしはお兄ちゃんの妹だ。世界で一番強い男の妹なんだっ」
腹の底から溢れる魔力がルージュを強化する。
足元から伸びた影の触手が筋肉を強化し、体内の血を活性化させて硬化する。
持ちうる全てを使って、ルージュは、
「絶対に、負けて、たまるかぁあああああああああああああああああああ!!」
【な……っ】
重力の壁が、ヒュドラのブレスを真っ向から跳ね返した!
放射状に跳ね返された光は、ヒュドラは自身に降り注ぐ。
龍脈の力を得た攻撃だ。例え暗黒竜といえどタダでは済まない。
当たればの話だが。
【……見事。見事なり】
なんとか跳ね返した攻撃は、周囲に現れた闇に吸収されていた。
「ぁ……」
起死回生の一撃を無効化され、絶望が四人を覆う。
ただでさえ凶悪な怪物なのにーー神霊の力を使えるなんて。
【吸血鬼の娘よ。ただの悪魔にしておくには惜しい女だ】
「こいつに近付くんじゃねぇッ!」
ヒュドラの首を近づけたダルカナスに対し、オズワンが前に出る。
しかし、首の一つが大きな口を開くと、三人の耳から真っ赤な血が噴き出した。
「「「……ッ!?」」」
(これは、超音波……! 鼓膜が破れるほどの超音波で、耳を塞いだ……!)
人体において、耳は重要な役割を持つ。
音を聞くだけではなく、バランス感覚の維持も担っているのは有名な話だ。
耳を潰されたリリアたちは立っていられず、成すすべなく崩れ落ちた。
(天使の力で傷は癒せますが、耳はデリケートなので時間がかかる……!)
(大地の精霊を呼び出して……いえ、ヒュドラを怖がって出てこない。ルージュ様……!)
【さぁ、我と一つになろう。吸血鬼の娘、ルージュよ……む】
九つの首の前に、立ちはだかる影。
それは全身から血を流しながら、ヒュドラを睨みつけるオズワンであった。
「オズ……!」
「この女に手ェ出すんじゃねぇよ。クソ神が」
震える膝を叱咤し、それでも彼は吠える。
「この女は、おれのダチだッ! 手ェ出すならぶっ殺すぞ、オォ!?」
「……ゴリラ、あんた」
自分を庇うオズワンに、ルージュは目を見開いた。
ーー普段はいがみ合っているが、オズワンはルージュを認めている。
いや、認める、という観点でいえば、他の誰より認めていると言っていいだろう。
(気に入らねぇがな。こいつぁ大した女だよ)
冥王の支配を断ち切った唯一の悪魔。
いつまた支配されるか分からない恐怖、寄る辺が一つしかない不安感。
ジークから嫌われたくない、自分を見てほしいという欲求。
重圧と内心に苦悩しながら、それでも彼女は生きている。
弱い自分と向き合い、鍛え、強くなった彼女をオズワンは知っている。
それは自分が欲する、『強い漢』の在り方そのものだ。
「コイツを抱きたきゃ、おれを殺してみろ、神霊ッ!!」
【そうか、分かった。殺さずに抱いてやる】
「が……っ」
情け容赦なく、ダルカナスはヒュドラの首を操った。
オズワンの肩を、足を、肘を獰猛な牙が狙う。
抵抗するオズワンだが、バランス感覚を失った今では大した反撃も出来ない。一撃、二撃、弾いたところで肉を抉られ、骨を砕かれ、無様にヒュドラの口に咥えられる。首が吐く灼熱の炎にあぶられながら、オズワンは絶叫した。
「愚弟……オズ、オズワン! しっかりなさい!」
(弟が踏ん張っていると言うのに、わたくしは……わたくしも……!)
「カレンさん、駄目!」
「ぁぁああああああああああああああああッ!!」
【見上げた闘志だ、獣人の姉弟】
震える膝を叱咤して立ち上がったカレンを、ヒュドラの吹雪が襲う。
既に精霊術を行使して体力を消耗していた彼女は避けられない。
「申し訳ありません、リリ、ア、様」
「カレンさんッ!!」
瞬く間に氷像と化したカレンを、ダルカナスが首で咥えた。
【ふふふッ。まずは二人確保といったところか。存分に愛でてやろうぞ】
(まずい、このままじゃ……!)
呻くリリアも限界に近い。
戦いの最中、仲間たちがこの場の瘴気に呑まれないよう結界を張っていたのだ。
陽力の消耗も人一倍激しく、故に、ヒュドラの攻撃を防ぐ力は残っていない。
(……っ、これが未踏破領域。これが深淵領域ニクセリス……!)
相次ぐ罠、魔獣の襲撃、極めつけは神霊とヒュドラの存在。
これまで誰もが踏破できなかったわけだ。
未踏破領域のヌシと同化したダルカナスの力は、神霊を逸脱している。
【まずは全員、気絶させてくれよう。さぁ、眠るがいい】
それでも。
【次は吸血鬼の娘、お前…………何の真似だ、熾天使】
「はぁ、はぁ……みんなは、連れて行かせません」
ルージュとヒュドラの間に、リリアは立ち塞がった。
拳が白くなるほど錫杖を握りしめ、恐怖の象徴を真っ向から睨みつける。
【天使が悪魔を庇ってどうする。本来、そやつは貴様の敵だぞ。奇妙とは思わんのか?】
「わたしは、ジーク・トニトルスの恋人であり、ルージュ・トニトルスの姉だ」
「おねえ、ちゃ……」
ひな鳥を守る母鳥のようにリリアは羽を広げた。
しゃらん、と錫杖を揺らし、氷の粒子を周囲に形成する。
全身から力を集めながら、神霊を睨みつけた。
「他人が決めた価値観なんて、クソ喰らえです」
【……】
例え、未踏破領域の主であり、龍脈の力を使っていようと。
例え、バケモノじみた力を持ちながら神霊の力を取り込もうと。
自分たちは。
世界の頂点に真っ向から立ち向かった、ジークの仲間だから。
この程度の相手に啖呵を吐けないようでは、彼の前で胸を張れないから。
「わたしは、わたしたちはッ、絶対に諦めない! 仲間を返しなさい!」
【ふ、はっははははッ! 昂るなぁ! その気丈な顔が我のものになったことを想像すると、昂りが止まらないぞ、天使!!】
九つの首が不気味な笑い声をあげ、
【よかろう! ならば貴様らの心を折り、我が女としてくれようぞ!】
ヒュドラの首が全て迫る。
九つの首それぞれが別の能力を持ち、強大な魔力を持つバケモノ。
もはや九体のダルカナスがいるといっても過言ではない相手に、なすすべはない。それでも妹を守ろうと、リリアが光を展開したその時だ。
「ーー誰が、誰の女にするだって?」
バシィイイイイイイイイイイイイイイイイイイイ!!
【ーーッ!】
紫電が世界を駆け抜けた。
闇を切り裂き、ヒュドラの首を切断し、その男は獣人の二人を両手に抱える。
たん、と軽やかな音を立てて、雷の行使者はヒュドラの前に降り立った。
【貴様……!】
「よくも好き勝手にやってくれたな」
ぼさぼさの黒髪を揺らし、迸る雷を纏う少年。
ギンッ!と煌めく紅色の瞳が、ヒュドラを真っ向から射抜いた。
「お前は、絶対に許さない」