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第五話 白銀視点

 その狼はずっと独りだった。

 はぐれたのか、捨てられたのか、喪ったのかはわからない。

 だが物心ついた頃には親や仲間の姿はなく、己一匹だけで生きねばならなくなっていた。

 野生の世界は厳しく、本来ならば幼い狼一匹で生きていくにはあまりに絶望的であったが、それでも狼は生きた。

 雨風に耐え、獲物を仕留めては食い、己を殺そうとする獣や妖怪を返り討ちにし、近隣の村を襲い、様々な罠を掻い潜り、ひたすらに生き続けた。

 そうしていくうちに生き物を殺しすぎたのか、それとも食い殺した妖怪の力が自分に移ったのか、気づくと狼は妖怪になっていたのだ。

 だが、妖怪になったからといって狼の生き方が変わることはない。

 それからも生きるために殺し続けていった。

 やがて狼が妖怪として強い力を身につけるようになると、付き従う者が現れ始める。

 狼はその者たちを率いていき、ますます力をつけていった。

 しかし、力が増せば増すほど、狼の存在を快く思わない者も増える。

 そいつらに対抗するために、狼はより力や知恵を身につけ、襲ってくる者たちを蹴散らし、そしてまた敵対者が増える。

 そんなことが繰り返されていくうちに、とうとう敵対者たちが手を組み、一斉に狼たちを襲ってきたのだ。

 いくら狼が強かろうとも、多勢に無勢。狼はとうとう負けてしまった。

 彼に付き従っていた者達は狼が劣勢になると、助けること無く逃げ出していく。薄情だとは思わなかった。

 もともと狼と彼らは、利害関係のみでつながっていたのだから。

 そうして、ボロボロになった狼は逃げ切れる僅かな可能性にかけて、川へと身を投げたのだ。

 気づくと彼は岸辺で目を覚ました。

 どうやら賭けには勝ったらしく、周囲に敵の姿はない。

 しかし、いつ見つかっても不思議ではなく、狼はほうほうのていで起き上がり、森の中に入った。

 大きの木の根本に体を横たえ、一息つく。

 けれども、それ以上体が動かない。これでは、敵に見つからずとも朽ち果てるだけだ。

(ああ……俺もここまでか)

 狼はそんな諦観を抱く。

 今まで必死に生きてきた狼であるが、いざ死ぬとなると、自分でも驚くほどあっさりと死を受け入れたのだ。

 足掻くのを止め、いずれやってくる死を待っていたものの、どうにも手持ち無沙汰である。

 暇つぶしに己が今まで歩んできた道を思い返してみるも、特にこれといって思い出されることがない。

 喜びも悲しみも、満足感も後悔も、何一つ浮かんでこない。

 決して平坦な生涯ではなく、それなりに激動な日々を送ってきたつもりだったが、こうして思い返してみるとなかなかつまらないものだったようだ。

 そのことになんら心動かされることなく、ただ時間が過ぎるのを待っていた狼であったが、その時何者かが自分に近づいてくる気配に気づく。

 見れば、顔を布で覆った人間の女であった。

「……おお、かみ」

 彼女は驚いたように狼を見つめる。

 軽く威嚇すれば、それだけで怯えた表情を浮かべる彼女は、見ての通り大した力もなさそうだ。

 すぐに逃げていくものと思ったが、女は突然顔に巻いていた布を解く。

 その顔は傷だらけであったが、狼には興味のないことである。

 それよりも、こちらに近づいてくることのほうが問題だった。

 どういうつもりなのかと威嚇するも、女は立ち止まる様子を見せない。

「大丈夫、酷いことはしないから」

 そんなことを言われたが、信じられるはずがなかった。

 けれども、女はどうみても自分よりもずっと弱い。

 牙をたてれば一瞬で死ぬだろう。

 だからこそ、白銀はほんの少しだけ女を好きにさせることにした。

 もし、妙なことをすればその時殺せばいい。そう考えたのだ。

 すると、女は自分の顔に巻いていた布を傷口に巻いたではないか。

 狼は信じられない気持ちで女を見つめた。

(まさかとは思うがこの女、俺を手当するつもりなのか?)

 狼の視線を感じたのか、女が顔を上げ、今度はこんなことを言う。

「何か、食べられるものがないか、探してくるわね」

 そう言って離れていった女が戻ってくると、本当に木の実を持ってきたのだ。

 狼は女が何を考えているのかわからない。

 自分にこんなことをしても、女が得するようなことなど何もないだろうに。

「よかった」

 警戒しつつも木の実を食べた自分を見てそう呟いた女の声が、何故か頭に残った。

 女が去った後も、狼は女のことを考えた。

 不思議な女である。

 狼である自分を助けるなど、食い殺されるとは考えなかったのだろうか。

 ああけれども、決して不愉快な時間ではなかった。

 今死ぬと、あの女とも会えなくなる。

 そう思うとなんだか惜しい気がした。

(……もう少し生きてみるか)

 そう思った。




 女は美弥子と名乗った。

 狼に名前を教えるなど、相変わらずおかしな女である。

 美弥子は毎日せっせと食料を運んでは怪我の手当てを行い、白銀の面倒をみた。

 最初はそれが済めばすぐ帰ったのに、今では狼の毛並みを撫でては寄り添い、長いこと一緒にいる時間が増えていく。

 彼が他者と触れる時は、殺すか殺されかけるかの場合しかなく、このような優しい接触は初めてのことだ。

 だから、他者との触れ合いがこんなにも心地良いものとは知らなかった。

「あのね、今日はあなたの名前を考えてきたの」

 そんな中、美弥子がそんなことを言った。

「ほら、いつまでも呼び名がないと不便かなって思って……あなたにはちゃんと名前があるかもしれないけど……」

 狼に名前などない。

 親はいなかったし、必要に迫られたこともなかったので、自ら何かを名乗ることもしなかったからだ。

 自分に付き従う者や、敵対する者は、己を「狼」あるいは「銀狼」と呼んでいたが、これらの呼称を名前だとは認識していない。

「白銀っていう名前は、どうかしら?」

 白銀。

 悪くない名である。

 気分がいいので狼、改め白銀は美弥子の顔をぺろりと舐めた。

 すると美弥子の方も嬉しそうに白銀に抱きつく。

 こんな風に誰かに触れようと思うのも、触れられて嬉しいと思うのも、以前だったら絶対に抱かなかった感情だ。

 初めて触れる他者の温もりは、白銀の心に染み込んでいく。

 この時間がずっと続けばいい。

 そんなことを思わせるほどに、彼女との時間は心地いいものだった。




 怪我は順調に回復していき、霊力はまだ万全とはいかないものの、体を動かす分には問題なくなった。

 それでもしばらくの間、動けないふりをしていたのは美弥子との別れが惜しかったからだ。

 叶うなら、彼女を連れていきたい。

 しかし、美弥子は人間である。

 妖怪の世界よりも、人の世界で生きていくほうが彼女の為なのだろう。

 それがわかっていたからこそ、白銀は決して彼女に言葉をかけなかった。

 だが、それももはや限界である。

 美弥子に声をかけたい。言葉をかわしたい。

 それだけではなく、連れ去って自分のものにしまいたくてたまらない。

 白銀は獣であり、妖怪だ。本能や欲望を理性で抑え込むにも、限界がある。

 このままでは凶行に及ぶのも時間の問題だ。

 潮時なのだと、そう思った。


 立ち上がる己の姿を見て、美弥子は驚きながらも回復を喜び、そして少しだけ寂しそうな顔をする。

 白銀が近づくと、いつものように手を伸ばした。

 この温もりとも今日で別れである。そう思うとより一層名残惜しい。

「ねえ、白銀。お願いがあるの」

 突然、美弥子は震える声で言った。

 彼女が頼みごとをするなど初めてのことだ。

 自分にできることならなんでもしたい。

 そう思って彼女の言葉に耳を傾けると、それは思いもよらぬことだった。

「私を、連れて行って。それがダメなら、私を食べて欲しいの」

 何を馬鹿な、と思った。

 連れて行くことなどできやしない。ましてや、食べることなど。

「お願い。私を一人にしないで……お願いだから」

 けれども、涙ながらに訴える彼女の姿に白銀の心は揺り動かされる。

 だからこそ、ずっと話しかけることを我慢していたのに、彼女の名前を呼んでしまったのだ。

 白銀が喋ることに美弥子は驚いたようだったが、すぐに受け入れた。

 彼女も白銀が普通の狼でないことは、薄々気づいていたらしい。

 そして彼は彼女の真意を問うた。

 先程の言葉は本気なのか、と。

 違うと答えるのなら、それでもよかった。しかし、彼女ははっきりと本気だと答えた。

 それを聞いて、白銀の決意も揺らぐ。

 彼女とここで別れ、それぞれの世界で生きることが最善なのだろう。

 けれども、ここで美弥子を置いていけば彼女は絶望し、自死してしまうかもしれない。

 それならば、連れて行った方が彼女のためではないだろうか。

(……いや、もう取り繕うのは止めよう)

 ああ、そうだ。これらは所詮、建前だ。

 獣としての本能が、妖怪としての欲望が、この女を自分の物にしろと訴える。

 好いた女が、一緒に連れて行ってくれないのなら食ってほしいとまで言っているのだ。

 これほどまでに自分を想ってくれているのに、何を躊躇う必要があるのだろう。

(しかしそうなると、連中が邪魔だな……)

 自分を殺そうと襲ってきた奴ら。

 今は自分が死んでいると思っているが、生存を嗅ぎつければ必ずや命を狙ってくるだろう。

 美弥子と共に暮らすのに、あいつらの存在は害悪そのものだ。

 もともと報復はするつもりだったが、美弥子に危害が及ばぬよう丁重に殺していき、誰一人生かして返さないようにしなくては。

 連中の始末が済むまでは、美弥子に待っていてもらおう。

 そう思って彼女を見れば、すがるような眼差しでこちらを見ている。

 どうやら自分が何も言わないから不安になっているらしい。

 その不安を拭うために、白銀は彼女に少しの間待っていてほしいと告げた。

 美弥子は涙を流しながら、待っていると告げて、自分に抱きつく。

 なんていじらしい女なのだろう。

 こんなにも可愛くも憐れで、愚かながら愛しい女と自分から離れようとしていただなんて、少し前の己が信じられない。

(……この女は、俺のものだ)

 白銀の中の、野蛮な獣と凶暴な妖怪が舌舐りする。

 例え、心変わりをして人里に戻りたいと泣いたとしても、もう離さない。




 襲ってきた連中の始末は、白銀が思っていたよりも容易に片付いた。

 というのも、どうやら自分がいなくなったあとの縄張りを誰が所有するかで仲間割れがあったらしく、白銀が戻ってきた時にはその大半がすでに死んでいたのだ。

 僅かな生き残りも負傷していた上に、白銀が死んだと思って油断していた。

 とはいえ、自分の存在を気取られでもしたらまた団結されてしまう可能性もあるので、気配を殺し機を伺う。

 そして、連中の隙きを見せたところで、一匹一匹、静かに殺していく。

 何が起こったのかわからずに呆然とした顔、自分が生きていたと知って絶望する顔、死に恐怖する顔、その死に顔はどれもつまらないものだった。

 こんな奴らに殺されかけたのかと思うと、腹立たしくも情けない。

 しかし、問題が早く片付いたのはいいことだ。

 これで美弥子を早く迎えにいける。

 彼女のもとに向かう途中で人の姿になったのは、美弥子を驚かせてみたいという悪戯心と、人間の姿の方が彼女も喜んでくれるだろうかと思ったからだ。

 時刻はすでに夜。朝になってから迎えに行ってもよかったが、どうにも我慢できず美弥子の匂いがするほうに足を向けた。

 その時は我ながら堪え性がないと苦笑したが、この時の判断は自身の人生の中で最も英断だったと後に思う。

 なにせ、あと少しでも遅かったら、己の番を永遠に失うところだったのだから。




「ねえ、白銀。これからどこに行くの?」

 手を取って山道を進んでいると、美弥子が問いかけてきた。

 やはり自分で決めたとしても、以前とは全く違う新しい環境での生活には不安があるのだろう。

 それを少しでも取り除くために、白銀は静かに答える。

「俺が以前、根城にしていた場所だ。数人の手下が、律儀に守っていたんだ」

 自分が敗北した際、部下たちは全員逃げたと思っていた。

 しかし、いざ戻っていると何人かの手下が自分の根城や財宝を隠し守り続けていたのだ。いつが自分が帰ってきたときのために、と。

 このことに白銀はひどく驚いた。なにせ自分と彼らの間には、そのような忠義だとか信頼だとか、そんなものが存在しているとは思いもしなかったからだ。

 どうやら自分は思っていた以上に恵まれていたのだと、その時初めて痛感した。

 彼らに美弥子のことを告げると、驚きながらも喜び、祝勝と共に歓迎の宴を開こうと言うのだ。

 そして今、大急ぎでその準備に取り掛かっている。

(宴については……黙っておくか)

 美弥子の驚く顔を想像して、白銀はくすりと笑う。

「残っている手下たちは、皆気のいい連中だ。きっとお前とも仲良くなれる」

「そうだといいんだけど」

 白銀の言葉に少し安心したのか、美弥子が微笑んだ。

 この可憐な笑顔が、外道のせいで消えかけていたなんて受け入れがたいことである。

(まあ……あいつはもう助からないだろうが)

 片目と片腕を失い、気が動転した男が進んだ先には崖があるのだ。

 もし仮に死に損なって生きていたとしても、見つけ出して始末すればいい。

(それから、彼女の父親と義母はどうするか……)

 美弥子に怪我の手当てを受けていた頃に、家庭のことも聞いた。

 狼は番を大事にするのだ。

 だから、美弥子を苦しめた奴は許さない。

(……あいつらのことは、また今度決めればいいか)

 今は、美弥子との生活に思いを馳せよう。そちらのほうがずっと有意義だ。

「なあ、美弥子は何か欲しい物やしたいことはあるか? あれば、俺が可能な限り力を貸そう」

「……えっと、実はね、ずっとやってみたかったことがあるんだけど、いいかしら?」

「ん? なんだ?」

「私ね、ずっとあなたの背中に乗ってみたかったの……」

 子供っぽいわよね、と彼女は照れたように顔を赤らめた。

「それぐらいいいぞ」

「いいの? 本当に」

「ああ」

 乗っていい。好きなだけ乗っていい。なんなら、山や野原を駆け回ってみせよう。

(それにしても、美弥子を喜ばせたくて人の姿になったが、もしかして美弥子は狼の俺の方が好きなのか?)

 一度浮かんだ疑問は彼の頭にこびりついて離れない。

「……なあ、美弥子は狼の姿の方が好きか?」

 もし美弥子が望むのなら、ずっと狼の姿でいるし、人の姿が良いと言うのならこのままでいよう。

 そう思ったのだ。

「? いいえ。私は、白銀ならどっちも好きよ」

「……そうか」

 けれど、美弥子が返した答えは白銀が全く予想していないものだった。

 今尻尾を生やしていなくて良かったと思う。もしついていればみっともないほどブンブンと振れていたに違いない。

「ねえ、白銀は?」

「ん?」

「白銀は何かしたいことと、ある?」

「そうだな……」

 やりたいこと。美弥子にして欲しいこと。

 考えていると、一つだけ浮かんだ。

「美弥子」

「うん、何か決まった?」

「ああ……俺に触れてくれないか」

 白銀の言葉に、美弥子は戸惑いの表情を浮かべる。

「触れるって、白銀に?」

「ああ、そうだ」

「それだけでいいの? もっと我がままを言っていいのよ? 遠慮なんてしないで」

 美弥子の言葉を聞いても、白銀の答えは変わらない。

「今はそれが一番やってほしいことなんだ」

 ずっと独りだと思って生きてきた。

 自分以外の存在は、自分を利用しようとするか傷つけるかのどちらかしかいないのだと、決めつけていた。

 だから彼女の手が初めて自分に触れた時は、衝撃的だった。

 自分にこんなにも優しく触れる者がいるだなんて。こんなにも温かいものが存在していただなんて。

 美弥子の手が、白銀の頬を撫でる。

(……ああ、これだ)

 この温もりが、自分を変えたのだ。

 こんなにも優しく温かいものを知らなかった頃には、もう戻れないだろう。

「ありがとう。もう十分だ」

 本当は名残惜しいが、いつまでもこんなところにいるわけにはいかない。

 それに、これからいくらでも機会はあるのだから。

「また頼んでもいいか?」

「いつでも言って。いくらでもするから」

「それは嬉しいな」


 こうして二人の姿は、森の奥へと消えていった。


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