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第三話

 とうとうこの日が来たのだと、美弥子は思った。

「白銀……」

 彼女の目の前で、人一人ぐらい乗せられそうなほど大きな銀色の狼が立ちあがっている。

 その姿は力強く、体中を巡る傷跡もその雄々しい存在感を引き立てることしかできない。

 美弥子の存在に気づいた白銀は、彼女へとゆっくり近づく。

 横たわっている時でもその体の大きさは理解しているつもりだったが、実際にこうして立ちあがった姿を目の当たりにすると、迫力が違う。

 普通なら腰を抜かすか、必死になって逃げ去るだろうが美弥子に限ってそれはない。

 むしろ、自ら狼へと近づいていく。

「よかった、もう動けるようになったのね」

 美弥子が手を伸ばすと、白銀は避けること無くその手を受け入れる。

 白銀の毛並みに手を滑らせながら、白銀と出会ってからの日々を思い返す。

 どれもこれもが穏やかで優しく、美弥子にとって大切なものである。

 けれども、それももうおしまいだと思うと、自然に涙が溜まっていく。

「ねえ、白銀。お願いがあるの」

 震えるその声に何かを感じ取ったのか、白銀が彼女の顔をじっと見つめる。

「私を、連れて行って。それがダメなら、私を食べて欲しいの」

 美弥子の言葉に白銀が目を見開いた。

「お願い。私を一人にしないで……お願いだから」

 堪えきれず、涙がこぼれ落ちる。

 それを白銀がぺろりと舐め取った。

「泣くな」

 そして、低い男性の声が美弥子の耳に届く。

「……え?」

 今度は彼女が驚く番だった。

 今この場にいるのは自分と白銀だけ。だからその声の主は目の前にいる狼だということになる。

「白銀、あなた……喋れたの?」

「……ああ。黙っていて悪かった」

 こちらの言っていることには気づいていたし、ただの狼ではないとは思っていたが喋ることができるとは流石に思ってもみなかった。

 白銀がじっと美弥子を見つめる。美弥子も目を逸らすこと無く見つめ返す。

「美弥子」

 初めて呼ばれた己の名に、美弥子は心が揺さぶられるようだった。

「私の名前、知ってたの?」

「お前が名乗ったのだろう? 覚えていないか?」

 白銀に言われ、確かに出会った当初、戯れに名前を教えたことを思い出す。

 あの頃は白銀の存在がまだ特別ではなく、自分の言葉を理解できるとも思っていなかったので、すっかり忘れていた。

 それを彼はずっと覚えていてくれたのだ。

「そういえば……ごめんなさい、すっかり忘れていたわ」

「いや、謝るほどのことではない」

 白銀は美弥子に鼻を擦り寄せる。

「先程の言葉、本気か……? 俺と共に行きたいなどと」

「ええ、そうよ」

「……ろくなものじゃないぞ、妖怪の暮らしなんて」

「いいの。私は、あなたと一緒にいたい」

「……それが叶わぬなら、食べて欲しいというのも?」

「本気よ。酔狂じゃないわ」

「…………」

 美弥子の重く苦しいほどの言葉をどう受け取ったのか、白銀は考え込むように目を閉じる。

 このまま自分を置いてどこかに行かないか不安で、白銀の体に手を回した。

 祈るような気持ちで白銀を見つめていると、白銀が目を開けて彼女を見る。

「少しの間、待っていてくれるか?」

「それって……」

「俺はもともと、こことは別の山を根城にしていたが、余所者の妖怪たちに襲われて逃げてきたんだ。連中を始末してくる……そうしたら、そこで共に暮らそう」

 白銀の言葉に美弥子は一瞬、呼吸を忘れた。

「本当? 本当に連れて行ってくれるの?」

「ああ、約束する」

 白銀の大きな舌が彼女の顔を舐める。

「必ず迎えに行く。それまで待っていてくれ」

「ええ、待ってる……私、待ってるから!」

 美弥子はボロボロと涙を流しながら、白銀の体を力いっぱい抱きしめた。

 白銀もそれに応えるように、体を擦り寄せる。

 一人と一匹は、しばしの別れを惜しみ、長いこと離れることはなかった。




 白銀と別れ、美弥子は以前のような生活に戻った。

 けれども、それは彼女にとって想像以上に過酷なものだった。

 周囲の人間は相変わらず美弥子の顔を恐れつつも面白がり、遠ざけながら笑う。

 前は当たり前過ぎて感覚が麻痺していたが、他者との優しい交流を思い出した今は彼らの眼差し、声、表情、全てが美弥子を苦しめる。

 そして、心の拠り所である白銀は傍にいない。

(でも、こんなことでくじけちゃダメ……!)

 美弥子は必死に自分に言い聞かせる。

(白銀が約束してくれたのだから……絶対に、迎えに来てくれるって……!)

 そうして、美弥子が懸命に日々を過ごしている最中だった。義母が自身の弟を家に招いたのは。


「今日からしばらく、この家に住むことになったから。よろしくお願いするわね、美弥子さん」

「……わかりました」

 美弥子は義母の言葉に頷きながら、彼女の横にいる男に目を向ける。

「よろしく頼むぜ」

 顔立ちは美しい義母と血がつながっているだけあって、端正だ。

 けれども、何故かひどく恐ろしい存在に思え、視線がこちらに向けられるだけで寒気を感じる。

「……はい、よろしくお願いします」

 どうして自分がこんなにも恐怖を抱いているのか美弥子自身にもわからず、それでも平静を装いながら挨拶を行う。

 けれど、ある疑問が湧いて美弥子は義母に問いかけた。

「あの、お義母様……父はこのことを知っているのですか?」

「……どうしてあの人のことを聞くの?」

「いえ、その……お義母様のご家族とはいえ、お客様を泊めるのなら父にも話が通っていた方が良いと思って……」

「ここは私の家でもあるのよ。あの人の許可がなくとも、問題なんてないでしょう?」

「……そうですね。申し訳ありません」

 こちらを睨みつける義母の言葉に反論することなく謝罪をしたのは、義母が恐ろしかったからではなく、同情をしてしまったからだ。

 美弥子はここしばらく、実父の顔を見ていない。父が美弥子に興味がないということもあるが、そもそも最近は家にいないことが多いのだ。

 お喋り好きな使用人たちによると、若い女のところに行っているらしい。

 結婚して年月が経ち、陰りが見え始めたとはいえまだまだ美しい義母を放置してしまうなんて、父は何を考えているのだろう。

 父にとって妻とは……女とはその程度の存在なのだろうか。

 もしそうなら、母の顔が変わらなかったとしても父は同じように心変わりしていたかもしれない。

 いや、きっとそうだ。母が醜くなるならない関係なんてなかった。ただ、父がどうしようもない男だったというだけの話だったのだ。

 そして父が留守がちになってから、それまではずっと興味関心もなかったくせに、義母は事あるごとに美弥子に絡むようになったのだ。まるで鬱憤でも晴らすように。

「それではお義母様、私は邪魔にならぬよう離れにいますね」

「ええ、そうして頂戴」

 早く二人と距離をとりたくて、美弥子は頭を下げるとそそくさと退室する。

 けれども、部屋から出る直前、義母が声をかけてきた。

「今は何かと物騒で外に出ると危険だから、気をつけなさいね」

 クスリと微笑む義母の顔に、何から違和感を覚えながらも美弥子は「はい」と頷く。

 その横で口角を釣り上げる男の顔に、やはり恐怖を感じずにはいられなかった。


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