第二話
「あら、どこに行くの?」
家から出ようとしたところに声をかけられ、美弥子はびくりと肩を震わせた。
「お義母様……」
振り返ると、義母が微笑んで立っている。
「そんなに荷物を抱えて、誰かに会いに行くのかしら? もしかしていい人でもできたの?」
「いえ、その……」
風呂敷を持って口籠る美弥子の様子に、義母はますます笑みを深めた。
「ふふ、そうよね……そんなわけないわよね。あなたに男ができるはずがないわ」
けれども、その眼光はどこか鋭く、冷たい。
「そんな顔じゃあ、仕方がないわよねぇ」
「……」
以前の美弥子であれば、こういう時はただ顔をうつむけて義母の仕打ちに堪えただろう。
けれども、今は彼女に付き合っているわけにはいかない。
自分を待っている存在がいるのだから。
(そうよ。早く行かなきゃ……この人に付き合っている場合じゃないわ)
そう自分を奮い立たせて、美弥子は顔を上げて、義母の顔をしっかりと見つめる。
(……あれ?)
そこで美弥子はあることに気づく。
(お義母様って、こんな顔だったっけ……?)
義母と話す時、美弥子はいつも顔をうつむけていたからこうして彼女の顔を見るのは久しぶりだ。
美弥子は義母が恐ろしかった。
侮蔑を隠そうともしない鋭い眼差しで見下し、赤い紅で染められた口唇からは美弥子を苦しめる言葉ばかり吐き、勝ち誇るような笑みを浮かべていた人。
確かに美しい人だったけれども、それ以上に恐怖心しか抱けなかった。
けれども、今目の前にいるのは普通の女性だった。
確かに顔は整っているのだけれども、しかしどこか輝きを失ってしまったような印象を抱く。
昔は似合っていた派手な着物も、今はなんだか無理をして着ているようで似つかわしくない。
少なくとも、美弥子は目の前の女性を恐ろしいとは思わなかった。
(もしかして、私はずっと自分の中のお義母様を恐れていたのかしら?)
美弥子が己の中で生み出した幻想。美弥子の恐怖心が生み出した怪物。
それこそが、美弥子にとっての義母だったのかもしれない。
「お義母様」
「……何かしら?」
今までない、初めて見せる美弥子の反応に、義母の顔は歪んだ。けれどもそれに構わず美弥子は口を開いた。
「申し訳有りませんが……私は用事がありますので、これで失礼いたします」
美弥子は義母に頭を下げて、立ち去る。
(……こんな風に、お義母様に物を言う時が来るなんて。なんだかドキドキしちゃった……)
美弥子の胸には、大したこともしていないのに義母に対し一矢報いてやったという一種の清々しさがあった。今までの嘲り笑われた鬱憤が、少し晴れたのだ。
だが、義母に背を向けていた美弥子は気づかない。彼女が鬼のような形相で自分を睨みつけていることに。
美弥子は山道を進んでいく。あの狼と出会ってから毎日欠かしていない日課だ。
鬱蒼と茂った木々の間に進むのも慣れたもので、美弥子の足取りには迷いがない。
ただ、流石にちょっと息苦しいので、顔に巻いた布を少しだけ解く。
「ふう……」
呼吸が楽になったのでまた山奥へと進んでいき、目的地に到着した。
「こんにちは」
美弥子が顔を出すと、眠っていたらしい狼がゆっくりと顔を上げる。
狼は最初の時のように美弥子を威嚇することはなく、ただ彼女をじっと見つめるのみ。
そんな狼に美弥子は近づき、怪我の様子を確認する。
「ああ、随分と怪我が良くなってる」
初めて会った時には大量の血が流れ出ていた傷口も、今は塞がっている。
だか、治りきることはできなかったのだろう、傷跡が残っていた。
これは医学の知識のない美弥子にはどうしようもなく、諦めるしかない。
「どうぞ。少しでもお腹を満たせるといいのだけれど」
怪我を診終えた美弥子は、持ってきた食料を狼に差し出す。
狼はその食料に鼻を近づけ匂いを確認すると、口に入れていく。
「美味しい?」
美弥子がそう問いかけると、狼はちらりと美弥子を見て尻尾で彼女の顔を撫でる。
それはまるで応と答えているようだ。
「ふふ、よかった」
否、答えているようだ、ではない。答えているのだと美弥子が確信していた。
この狼は人間の言葉を理解している。
ずっと狼の世話をしていた美弥子はそう見抜いていた。
そしてそれはすなわち、この狼が普通の狼ではないことを意味している。
「……」
けれども、美弥子にそんなことは関係ない。
例えこの狼の正体が何か恐ろしいものであっても、どうでもいいことだ。
美弥子は狼に体をそっと寄せ、その体を撫でた。
狼もそれを嫌がる素振りを見せることなく、受け入れている。
とても、穏やかな時間が流れていく。
こんな優しい時間を過ごせることは、母が亡くなってからは全くと言っていいほどなかった。
それをこんな山奥で、自分よりも大きい狼と共に過ごせている。なんとも不思議な感覚であった。
美弥子は顔の布を取り払い、素顔を晒す。それに狼は何の反応も示さない。
当然だ。狼なのだから、人の顔に興味など持つはずがない。
しかし、それが美弥子には心地よかった。
この狼と過ごしている間だけは、自分の顔を気にせずにすむ。
怖がられることも、気味悪がられることも、見下されることも、嘲られることもないのだ。
それがどれだけ彼女の心を救っているか、誰にもわからないだろう。
狼が怪我が治った後に村に降りて村人を襲う、という可能性を考えなくはなかった。
けれどもその可能性を考慮した上で狼を世話したのは、それを心のどこかで自分を蔑ろにする人々が自分の行為で、間接的とはいえ害されることを望んでいたからかもしれない。
けれど、狼と共に過ごすうちに彼女の心にも変化が訪れていた。
(このまま、彼と共に過ごせたらどれだけいいだろう……)
この狼と共に過ごせるのなら、もう他のあらゆる事柄がどうでも良い。そう思えてしまえるほど、美弥子は狼に心を預けるようになっていたのだ。
だから、いつまでも狼と呼び続けることに抵抗を覚えるようになった。
「あのね、今日はあなたの名前を考えてきたの」
狼を撫でながら、美弥子はその耳元で囁く。
「ほら、いつまでも呼び名がないと不便かなって思って……あなたにはちゃんと名前があるかもしれないけど……」
美弥子の言葉に狼の耳がピクリと反応したが、それ以外に反応はない。
「白銀っていう名前は、どうかしら?」
狼の毛並みからとった名前。少し安直だと思わなくもないが、これ以上にいい名前が思い浮かばなかったのだからしかたがない。
「気に入ってくれた?」
美弥子が問いかけると、狼はぺろりと彼女の顔を舐め取った。
それを了承と受け取り、美弥子の口元は綻ぶ。
「よかったぁ」
狼改め、白銀に腕を回す。
自分を気にかけない父よりも、馬鹿にしてくる義母よりも、影で笑いものにしている周囲の人間よりも、言葉の通じない狼と心が通じ合っている気がするのは思い上がりだろうか。
「白銀……」
(この時間がずっと続けばどれだけいいか……)
けれども、時間は無情にも過ぎてしまう。
日が傾き始めた頃、美弥子は狼から離れた。いい加減戻らないと、日が沈む前に戻れない。
「それじゃあ、私は行くね。また明日も来るから」
美弥子が声をかけると狼は尻尾を一振りした。
それに目を細めて、美弥子は山を降りていく。
家に戻る頃には、すでに日は落ちかけて辺り一帯暗くなっていた。
誰にも見つからぬよう離れに戻ろうとした美弥子だが、その途中で義母の姿を見つけ足を止める。
(あの人……何をしているのかしら?)
見れば、誰かと話しているように見えた。
そっと音を立てぬように近づき、耳を立てる。
「ええ、そうよ……だから…………」
だが、よく聞き取れない。
これ以上近づくと流石に気づかれてしまうだろう。
「もううんざり……早く………」
微かに聞こえる言葉に嫌な予感を覚えつつ、美弥子は静かにその場を離れた。
「……ふう」
離れに戻った美弥子は大きく息を吐く。
(やっぱり、ここは落ち着かない……白銀のもとに行きたい)
帰ってきたばかりだというのに、頭にあるのは白銀のことばかり。
ずっとあの狼と過ごせたらどんなにいいだろう。
けれども傷が癒えれば、白銀とは別れなくてはいけない。
いっそ離れ離れになるのなら、最後のはその牙で自分を一思いに殺して食べて欲しいと、美弥子は思う。
(そうすれば、白銀の一部となってずっと傍にいられるのに)
異常な思考だということは理解している。
狼の世話をするだけならまだしも、食べられてでも傍にいたいだなんて。
まともな人間の考えることではない。
けれども、美弥子の想いは止まらない。
美弥子は鏡台の前に座り、前を向く。
そこには以前同様、傷だらけの自分が写っている。
以前だったら、堪えきれなくて目をそらしていただろう。
けれども、今はこの傷だらけの顔から目をそらすことなく見つめることができる。
この顔を恐れるでもなく、見下すでもなく、笑うでもなく、白銀がただ受け入れて傍にいてくれたからだ。
もう以前のような、周囲の目を気にして顔を隠すような生活には戻りたくない。
白銀がいてくれれば、周囲からどんな仕打ちを受けても堪えられると思う。
けれども美也子は強くないから、白銀がいなくなってしまえばすぐに以前の自分に戻ってしまうだろう。
鏡に映る自分の頭部に視線を送れば、一本の簪が刺さっているのが見える。
それに向かって、美弥子はポツリと呟く。
「お母さん、親不孝な娘でごめんなさい……」
彼女はこの時、心を決めた。