貯金箱になった少年
17日目の月がむら雲に重なって、ぼんやりとにじんでいた。
ボクの左目は、勉強机の上から、薄いカーテン越しに夜ふけの空をのぞいている。
右目のほうは何も見えなくて、たぶんどこかで裏返しなんだろう……。
ボクは、陶器で出来たシロクマの貯金箱。
ちょうど2年前、ミナト君のパパが、出張で行ったカナダのおみやげ。今は真っ暗なミナト君のこの部屋で、バラバラに割れて見る影も無いよ。
どうしてこうなったのか。
それは、ついさっきこんなひどい目にあったから……
「ドシン!」
何?
「ガタッ、ゴソッ」
「スルスル、スル、スルスル」
まだ夜中だよ。
「カチャ。キィーキキ」
今度は、パパとママの寝室のドアが開く音――間違いないよ。いつも聞こえる音だから。
「パタン」
……だって、この家のみんなは、遠くで暮らす親類に会いに出かけて、もう今日は帰らないはず。
「コタッ。コタッ。コタッ」
それなら誰? 廊下をだんだん近づいて来る!
「カチャッ」
そっとドアが開けられた。すると、暗い廊下の向こうから、ミナト君のこの部屋を、ライトの光が照らし始めた。
暗闇の中、洋服タンスやベッドの上を、何度も光が尾を引いて行き、影たちはその度にざわめいた。
部屋の右側をすみの方まで照らした後は、壁を伝い、光はミナト君の学習机が置かれた左側へと移動して来た。
学習机のそばには、ボクらを並べた棚もあって、そのうちきっとこちらにも――あっ、まぶしい!
いったい何者? 光の影に紛れて、そこにいるかどうかも分からない。
もしかしてドロボウ? だって、いつまで経っても部屋の明かりをつけないから。
「コタッ。コタッ。コタッ」
靴の硬い足音が、ボクだけ照らしたままで近づいて来る。
強い光に目がくらむ。
「うっ!」
ボクは突然つかまれて、体が宙に浮いた。
「ガシャッ、ガシャッ」
乱暴にゆさぶられ、中のお金が激しく鳴った。
逆さにされたり、ライトを顔におしつけられたり……手荒くあつかわれ、気が遠くなりそうだった。
そのうち、頭からすっぽりとタオルで巻かれて、ボクは勉強机の上に寝かされた。
――これからどうなるの――
「ガサゴソ」と、バッグの中身を探す音が聴こえる。
「ゴツ!」
えっ?
「ゴツ!」
やめっ!
「ガシャン、ガシャガシャ」
体の上に、何度も硬い物が下りてきた。そのせいで、お金とそれにボクの体をタオルの中にばらまいた。
ドロボウは、タオルを開いてボクの欠けらをつまんで捨てた。それからタオルを丸めて、中のお金をバッグにつめた。
ファスナーをすべらす音やタオルの中ではねたお金も、耳の破片が聞いていたから分かるんだ。
「コタッ。コタッ。コタッ」
靴の硬い足音が、静かに遠ざかって行く。部屋を出て廊下を渡り、階段を何ごとも無かったみたいに下りて行く。
……ボクは、ミナト君から預かった、大事なお金を盗まれた。
ボクの左目は、勉強机の上から、薄いカーテン越しに夜ふけの空をのぞいている。
右目のほうは何も見えなくて、どこかでたぶん裏返しになっている……。
とても悔しい気分なのに、どちらの目からも涙は出なかった。
それは、ぼくが陶器で出来ていたからだけど――いま思い出したんだ。
何をされてもしかたない、ぼくがおかした過ちのこと。
遠い遠いはるか昔。あれは、そう……
ボクが人間で、10歳の少年だったころのこと。
銀と瑠璃で飾られた、それは見事な首飾りを、お金持ちから盗んで逃げてしまったんだ。
ボクの家は貧しくて、家族はいつもお腹を空かせていた。
不浄な仕事にしかありつけず、朝から晩まで働いて、それでもやっと生きて行く毎日。
贅沢に暮らす人たちを見て、同じ人間なのにどうしてだろう。ボクは、世の中が不公平に思えてしかたなかった。
そんなある日のこと。お金持ちが住む屋敷の門が、少しだけ開いているのに気がついた。
ボクは、いけない事だと思いつつそこから中へ忍び込み、部屋の奥にかくされていた宝石箱を見つけだした。
腰にしのばせたナイフでカギをこわし、中からいちばん輝いていた首飾りをボクは盗み出した。
けれど……お金持ちしか持てない宝物を、10歳の貧しい子供がどうにもできないよ。盗んだことも直ぐに暴かれ、ボクは、たくさんの大人たちから、追われることになった。
その日から町中をてんてんと逃げ回ってきたけれど、いよいよ追いつめられて気づけば町はずれ。大河が流れる夜ふけの河原へ行き着いた。
ボクは土手を下り、川のようすを確かめようとしたけれど、あたりは月も星も無い漆黒の闇。それならと耳をすませば、虫の音ひとつしなかった。
手探りでうろうろしても、たどり着けそうになくて、地平線まで続くあの壮大な眺めは、どこへ隠れてしまっただろう……。
家を出て、気になっていたことは家族のこと。弟や妹たちも、家族はきっと袋叩きにあっただろう。みんなは、まだ生きているだろうか。
心配しても、あとの祭り。ボクは、河原をさまよいながら、渡ることも戻ることも出来ずにいた。
「ザザッ」
「アッ!」
水たまりに足をすべらせた。その拍子に、はいていたサンダルが片ほう脱げて、どうしても見つからない。
暗闇の中、石や砂をかき分けるけれど、はたしてボクの目は、開いているだろうか。
ふと目の前を、悠々(ゆうゆう)と水の流れる気配がして、すると、揺れながら水面を遠ざかるサンダルが見えた気がした。
「闇夜にまぎれて、何かするつもりなのか」
ボクは、姿を暗ましたままの大河が、災いを招きやしないか疑った。
この川が大蛇になって、ボクを飲みこんでしまう? それとも、不意に足をすくわれ、地獄の底まで連れて行かれてしまうだろうか。
そう思うのは、きっとこの暗闇のせい。そして、ドロボウをした後ろめたさのせいだ。
分かっているけれど……。
ボクは急におじけづき、サンダルのことはあきらめて、土手の上まで戻ることに決めた。
すべり落ちる砂をつかんで四つんばいではいあがる。ところが土手の上から目にしたものは――
やって来る、たくさんの焚松の火と大人たち。ざわざわと狩り立てるざわめきが、もうすぐそこまで近づいていた。
ボクはとっさにふせたけれど、連れてこられた犬たちが1匹2匹と吠えだして、すると影たちがいっせいに放たれるのを見た。
ボクはあわてて土手を駆け下り、いま来た暗闇に向かって逃げ出した。
首飾りを握ったまま、大きな石に足を取られながら。
裸足の片方も労わって、おのずと足もとへ向いた眼差し。
しかし、辺りに何やら気配がしてきて、顔を上げたら驚いた。
見えなかった河原の景色が、ぼんやりと暗闇の向こうにうかんでいる。
朝が近づいたからなのか、それとも夜の暗さになれてきたのかもしれない。
ボクは、あわてて目を凝らす。
そして、墨絵のような静けさにまぎれた、ボクが目指す場所を探した。
黒く地を這うようにうごめくその場所は――
あったあそこだ!
ボクは、小石をけってまっしぐらにそこを目指す。
犬の狂ったみたいな鳴き声が、あっという間に近づいてくる。
後ろはふり返らず行く手もためらわず、もう裸足だって気にしてはいられない。
このままいっきに大蛇のふところへ――
「やぁー!」
「パチャバチャ、バシャバシャ」
ボクは真っ黒な川底を蹴って、どんどん深みに向かって漕いで行く。
「もう、どうにでもしろ!」
向こう岸まであまりに遠くて、船を使わず渡る者など見たことが無い。けれどボクには、もう選ぶ道が無い。
腰にしぶきを跳ねながら振り返ると、焚松の下、犬たちが川に沿って吠えたてていた。
すでに大人たちも追いついて、それぞれ何かを叫んでいる。
中には川につかった人影もいて、まだ追いかけてくるつもりか。
「だって、川には人食いワニがいるんだぞ。知らない人なんていない」
ボクは、少しでも遠くへ逃げようと、なおも川を漕いで行く。ヘソが隠れるくらいの深さになると、水は急に冷たくなって、流れもきつく変わった。
川下へ押されながら、足をすくわれないよう両腕でバランスをとって進む。
どこまで行けば、逃げ切れるだろう。どこまで川底を蹴って進むことが出来るのか。
胸までつかると、思うようには進めなかった。水に押され、ふん張ることも難しい。けれどもボクは、もう1歩と前へ踏みだす。
片足を上げて、自分をおし出すように。
すると、体が少し浮いて、すぐまた沈んだはずが、どちらの足も川底へはとどかなかった。
水面があっという間に喉元を触り、息を吸いこむ間も無く頭まで沈んで行く。
恐怖におののき手足をばたつかせて、あてもなく水中をもがくばかり。
ボクは泳げない。水に浮く術も知らない。
深みにはまり流れに操られ、もはや岸がどちらで、体がどこを向いているかも分からなかった。
「たすけて……」
「……」
「……」
ボクの目は、開いているのか。意識は、まだボクの肉体にあるのだろうか……。
思い出すのはここまでのこと。その後の、ボクや首飾りのことも、ボクは分からない。
インドの、たしか北西部の辺り。すべては、ボクが暮らした町とそばを流れる大河であったできごと。
人間だったボクが、シロクマの貯金箱に生まれ変わる、遥か3000年前にはたらいたドロボウの記憶。
だから――
ミナト君のお金が盗まれたのは、ボクの責任だよ。ボクが昔、首飾りを盗んだから。
神様の罰さ。
これからも続くだろうか、輪廻転生……とにかく謝るよ、ミナト君ごめんなさい。そして、神様どうかゆるしてください。
今とてもみじめな気分なのに、どちらの目からも涙は出なかった。それは、ぼくが陶器で出来ていたからだけど――本当にいま思い出したんだよ。
遠い昔の過ちのこと。
(終わり)