第九話 止まる足。
「あっ、せんぱーい!」
放課後。下駄箱に着くと、そこには背を下駄箱に預けて寄りかかる西川がいる。
必需品である松葉杖は彼女の横に立てかけてあり、もはやその光景は見慣れたもの。
「お前……ずっとそうやって待ってるつもりか」
「足が治ったら教室まで行きますよ? それに、迎えがくるまで暇なので」
「そういうことじゃない。俺なんかを待ってたって、一緒にいられる時間は少ないんだ。時間がもったいないと俺は言いたい」
「そんなことないです。好きな人と過ごせる時間は少なくても幸せなので」
「そういうものか……」
「そういうものです」
西川は言って微笑む。そんな彼女の近くには武藤が控えていた。
彼女は警戒した様子で西川の傍らにいて、これもまた見慣れた光景ではある。
ただ、朝のことがあってか敵視の視線は薄らいでいるように感じた。
西川的に言えば、帰宅するまで俺と一緒にいたいらしい。
しかし、彼女は帰ってからもやることが多くあるらしく、松葉杖で帰ろうものならかなりの時間がかかってしまうため、その時間を削ってしまわないよう送迎に甘んじてるらしい。
そして、せめて送迎車がくるまでは俺と共にいる。
……俺の承諾もなく。もっと言えば「通学路も一緒にいたいんですけどね……」という控えめな言葉さえ図々しいワガママ。
何故なら、彼女の住む家と俺の住んでいる場所は反対方向だったから。
そしてその日も、西川が今日あったことを一方的に喋り、それに俺が相づちをして、武藤が黙ったまま警戒して……帰宅する奴らから白い目で見られて……といった時間が流れていく。
やがて校門の前に黒塗りのベンツが停まり、西川は立ち上がった。
「じゃあ、先輩また明日!」
俺からなにかを話したわけじゃない。
ただそこに居ただけだ。
時間は三十分もなくて、恋人なんて呼べない一時。
まるでバス停での待ち時間だった。
もしくは、駅で電車がくるまでの暇潰し。
なのに、西川は「楽しかったです」なんて平気で言ってのけた。
そうやって俺に笑いかけた。
それにすら軽く手をあげることしかできなくて、武藤もまた同じ反応。
やがて彼女は車に乗り込んだ。
俺と武藤だけが残された。
本来なら、俺はいつも通りここで武藤とも別れる。
しかし、朝の会話での流れから、俺はこのあと武藤と共に『西川が俺を諦める方法』について話しあわなければならない。
チラリと隣を見れば、それを彼女も予感しているのだろう。
目があってしまう。
そして、俺は西川が居なくなった寂しげな校門を再び見てから言った。
「やっぱり、やめておこう」
それに武藤は、しばらく沈黙していた。
やがて。
「やめるって、なにをですか」
静かにそう聞いてきた。
「アイツに俺を諦めさせる作戦……それをお前に手伝わせることを」
「……なぜです。須黒先輩は、カホと今すぐにでも別れたいんですよね? それともやっぱり惜しくなりました?」
惜しくなった。その言いかたにはどこか皮肉めいたものがあった。
「そうじゃない。ただ、お前にそれを手伝ってもらうのは違う気がした」
今日の朝に約束をとりつけ、授業中考えていた。
いつものように昼休みに西川がやってきたときも、どうしたら彼女が俺を諦めてくれるのかを考えていた。
ただ、西川が純粋な笑顔を俺に向けている事実を知ったとき、ふと思ってしまう。
これは、彼女の気持ちを踏みにじる行為になるのではないか? と。
西川は俺の意図する作戦を逆手に取って勝利した。
そんな彼女にもう一度勝利するためには、新たな作戦が必要だと思った。
ただ、その勝利は俺に勝とうと思って得たものじゃない。
純粋に……彼女が、俺の意識を自分に向けさせたくてやった行為だ。
そこに勝ち負けの線引きをしているのは俺であり、彼女でも客観的に見ていた第三者でもない。
それを勝手に勝負にして、俺は彼女の友人までたぶらかそうとしている。
それは違うかもしれないと気づかされただけ。
人は時に、日常生活において違和感を覚えるときがあった。
家を出たあとに「鍵閉めたっけ?」と足を止める。
欲しいものがあって買おうとするとき「このまま買っていいのだろうか?」と不安になる。
全部揃っているはずなのに、なにかが足りない気がする。
それらは普段感じることがないもの。そして、たいてい杞憂に過ぎなかったりする。
だから、人はそれを「気のせいだ」と決めつけ、止めた足を再び動かしはじめた。
しかし、重要なことは「気のせいである」ことじゃない。「違和感を覚えた」ことにある。
鍵はちゃんとしまっていた。しかし、電気を消し忘れていたりする。
それは確かに欲しいものだった。しかし、後々使わなくなったりする。
全部の数は揃ってはいた。しかし、一つだけ違うものが混ざっていたりする。
違和感とは、正しくないときに起こった。
だから人は足を止めた。
西川の笑顔を見たとき、俺はその感覚に陥った。
そして、その感覚はおそらく正しい。
だから、自分から提案したくせに「やめよう」などと彼女に言ったのだ。
「実は……今日一日考えていて、わたしもそう思いました」
そしたら、驚いたことに武藤も同意してくれた。
「わたしが先輩をカホと引き離したいと思ったのは……先輩が気持ちの悪いロリコン野郎だと思っていたからです。でも、朝の話でそうじゃないと分かりました。わたしが先輩を敵視する理由はなくなりました。だから、先輩に協力する意味もなくなったんです」
俺の目的は「西川に諦めさせること」。そして武藤の目的も「西川と俺を引き離すこと」。
この目的には共通の認識がある。だからこそ、俺は彼女を味方にしようとした。
しかし、その理由は……俺が彼女を味方にするために真実を話したことで取り払われてしまったらしい。
なるほど。
「先輩から言ってもらえて良かったです……そもそも、わたしが最初介入しなかったのは、カホの一目惚れがいつものことだと思ったから」
「……いつものこと?」
「はい。あの子……たぶん先輩のことを本気で好きなわけじゃないんです。たぶん『誰かを好きな自分』が好きなだけなんです」
そう言ってから、武藤は小さく「ごめんなさい」と呟いた。
「中学のときからそうなんです。好きになった、一目惚れした、そう言ってすぐに付きあって……飽きたらあの子から別れるんです」
「そういうことか……」
おかしいと思った。一目惚れにしても、サイコパスを自称しロリコンなんて噂がある男をここまで無条件に好きで居続けられるはずがない。
つまりそれは……どうでも良かったから。
「こう言ってしまった以上、もう協力はできませんけど、教えられることはあります。あの子は常に誰かを追いかけていたいんです。だから、追いついてしまったらあの子から別れると思います」
「つまり、俺がちゃんと付き合えば、それは別れることになるということか?」
「おそらく。……そういうのは「ダメだ」って言ってるんですが、カホが持ってる病気みたいなものなんです」
「病気、ね」
そのことに対して嫌悪はなかった。
なにせ、俺がサイコパスを自称していることもまた、病気みたいなものだからだ。
「教えてくれて助かった。それなら、アイツとちゃんと付き合ってみるよ」
「怒らないんですか? その……先輩が噂されていること、それには意味がなくなってしまいますし、それに……カホは先輩を本気で好きじゃないのに……しつこく迫ってるんですよ?」
それには流石に笑ってしまった。
「なにを言ってる? 噂は俺が自分でしでかしたことだ。それに、そんなこと誰にでもあるだろ」
サイコパスでもないくせにサイコパスを自称したり、とか。
そう言ったら、武藤の不安そうな表情が弛んだ。
そして。
「もしかして……須黒先輩って実はめちゃくちゃ良い人だったりします?」
とんでもない勘違いを投げかけてきた。
「俺がサイコパスだから、めちゃくちゃ良い人に見えるんだろうな」
それを訂正してやると、不意に彼女は吹き出した。
「プッ……っっはは」
「なにがおかしい?」
「いえ、その……なんか、先輩を敵視してた自分が馬鹿みたいでッッ」
勝ち気を感じさせる瞳を細めて武藤は腹を抱えた。
それにあわせてポニーテールが小刻みに揺れる。綺麗な指を口元に添えてはいるものの、抑えきれていない声が洩れでてしまっている。
どのツボに入ったのか、彼女はその後もしばらく笑っていた。
女の子を笑顔にしてしまったぜ……いや、ただ笑われてるだけか。
ともあれ、武藤のおかけでやることは決まった。
無駄なことをしてしまったように思えたが、あんがい無駄でもなかったらしい。
違和感の正体をぬぐい去ることができた。
そして新たなる問題が浮上する。
……付き合うって一体何をすればいいのだろうか。
それを何の気なしに武藤へと問いかけたら、彼女は目尻の涙を指で拭いながらこう答えたのだ。
「ならッ……わたしで練習してみますかッ?」
もちろん、それは冗談だと分かっていたからため息で終わらせてやる。
少しドキッとしてしまったのは内緒だ。