第七話 自称サイコパスは恋愛脳に敗北する。
夕暮れが射し込む保健室の窓は空いていて、吹き込む風がカーテンを揺らした。
簡易的なベッドに西川が座っている。
その右足の靴下は脱がされていて、テーピングが巻かれていた。
「あれ? 先輩!」
俺に気づいた西川が笑う。その、あまりの無垢な表情には罪悪感を覚えずにはいられない。
「お前……階段から落ちたって――」
「近づかないでください」
彼女に詰め寄ろうとしたら、途端に横から声がした。
そちらに目をやると、黒髪ポニーテールの少女が一人。
彼女も一年生なのだろう。橙色のリボンをつけていて……敵意のある目線を俺に向けている。
「サキちゃん! 先輩のせいじゃないって言ってるじゃん!」
「カホは黙ってて」
ぴしゃりと言い放たれた言葉に西川は黙ってしまう。
そして、サキと呼ばれた少女は俺の目の前まで歩いてきてから、やはり敵意の態度を隠さなかった。
「はじめまして須黒先輩……いえ、ロリコン変態野郎が」
火の玉ストレート。
その、下から浮きあがりえぐってくるような言葉には殺意さえ滲んでいる。
「一目惚れしたというから黙っていれば……カホが呆けて階段から落ちたのは、先輩のせいですよ?」
「だから……違うって何度も」
「あの子はああ言ってますけど、好きになった人が気持ちの悪い人種だったと知り、平気でいられるわけないんです」
「たしかにそうだな」
そう返すと、彼女の眉間のしわはより深くなった。
「なに開き直ってるんですか? ごめんの一言も言えないんですか?」
どうやら彼女こそが、西川の一番近くにいる友人らしい。
「すまない」
サキと呼ばれる少女は大きく舌打ちをした。
「わたしにじゃなく、カホに謝るべきでは?」
「そう……だよな。すまない西川」
「いえっ! 先輩は何も悪くないです。ちょっと、わたしがぼうっとしちゃって……」
また舌打ちが聞こえた。
「先輩は、わたしに言われたから謝るんですか? しかも、なんの気持ちもこもってない「すまない」って。今どき小学生でも自分から謝れますよ?」
煽りがすごい。
この子たぶん口喧嘩で男泣かせちゃうタイプ。それで泣いたら泣いたでもっと酷い追い討ちをするのだろう。
「あの、目障りなんですぐに消えてくれますか? カホのためにも」
西川のため。彼女はそこを強調した。
それに俺は頷いて立ち去ろうとする。大怪我じなくてよかった。
「あっ! 先輩! 待ってくださ――きゃっ!!」
その声に振り返ると、西川がベッドから立ち上がろうとして転んでいた。
「ちょっとカホ! なにして――」
「サキちゃんが出ていって!」
「……なにを」
「少しだけ先輩と二人きりにして!」
「カホ……」
西川は駆け寄った彼女の手を払い、キッと強めの視線をおくった。
それに彼女は困惑して言葉を失う。
「はやく! じゃないと……サキちゃんのこと嫌いになるよ?」
「そんな……わたしはただ……」
それでも西川の視線は変わらなかった。それに彼女はうろたえ、やがて悔しげにスッと立ち上がると、つかつかと保健室から出ていこうとした。
そして、俺とすれ違い間際。
「――お前を殺す」
デデン! そんなリズムから始まるBGMが流れだしそうなセリフを俺にだけ聞こえるよう吐き捨て、彼女は保健室から出ていった。
自称サイコパスでも、それには震えあがるしかない。……なんなのこの人。
「先輩……ベッドに座るの手伝ってもらっていいですか。足挫いちゃってまともに立てないんです」
「あ、あぁ」
近づいて彼女が伸ばした腕を取る。その瞬間、西川によって俺はグンと引っ張られた。
予想してなかった力につんのめってしまう。
それでも転ぶことは避けてたたらを踏んだ。
――途端。
西川は、引っ張ったのとは逆の腕を俺の首に回し、そのまま顔を近づけてキスをしてきた。
は?
わけが分からず思考停止。
ただ、唇に触れた柔らかいものと、西川のうなじからのぼる甘い香りだけを感じる。
「……ぷはぁ。ごちそうさまです」
顔を離した西川の頬は上気していて、目は細くとろけていた。
「おまえ……なにを」
ペロリと舌舐めずりをする西川。
そんな彼女の行動が理解できず、俺は固まったまま。
「せんぱぁい。もしかして、変な噂を知ったくらいで、わたしが先輩を諦めるとでも思ってます?」
甘く媚びるような声音。
なのに何故だろう。
そこに怖さを感じてしまったのは。
「わたし最初に言いましたよね? サイコパスでも愛せますって。ロリコンでも同じですよ?」
サキという子がいたときとは百八十度違う態度。
「あぁ、そう言えば先輩……自分のことサイコパスって言ってましたよね?」
そして思い出したかのように天井を見上げる。
「わたしも言ってなかったので、今言いますね? 実はわたし、極度な恋愛脳なんです」
「恋愛……のう?」
「はい。好きになっちゃったら、もうその人しか見えなくて……正直その人がどうとか興味ないし、周りからどう思われてようと全然関係ないんですよね。ただ、わたしだけを見てもらいたいんです」
上気する頬の下には、ピンク色の唇が妖艶に歪んでいる。
「先輩、いまの絶対ファーストキスですよね?」
「だったら……なんだ」
「わたしもなんですよ。すごいですね先輩。ここまでさせたのは、先輩がはじめてです」
口を開くたびに熱い吐息がかかる。
「これまでは、そんなことしなくても簡単に落ちてたので」
そして、西川はグッと力を入れると片足だけで立ち上がる。それを反射的に支えると西川は嬉しそうに笑った。
「頼りになりますね先輩」
「おまえ……おかしいぞ」
いや、それは最初からだったが。
「でも良かったです。勇気を出して階段から落ちて」
自然と吐かれた言葉。それがあまりにも自然過ぎて、俺は一瞬聞き間違えたのかと思った。
「いま、なんて……」
「えぇ? 分かりませんでしたぁ?」
西川はとぼけたように小首を傾げて、それから言った。
「先輩……これで周りからは「女子を精神的に追い込んで怪我させた最低な人間」ってことになりますよね? もう、誰からも相手にしてもらえないですよね? でも大丈夫ですっ。わたしだけは先輩の相手になりますから」
「おまえ……まさかわざとなのか」
そしたら、西川はわざとらしいつくり笑いを浮かべた。
「もぉー、違いますよぉー。須黒先輩のせいじゃないですからぁー。別にロリコンで自称サイコパスなんて言ってる先輩にショックを受けて足を踏み外したわけじゃないんですよぉー。わたしがボウッとしていただけなんですー」
それはまるで、あらかじめ用意されていたセリフのように平坦な棒読み。
「先輩……わたしのことなめてますよね?」
そして、その声は一気に低くなった。表情がまったく変わっていないのが逆に怖い。
「わたし、先輩のためなら"何でも"できますよ? それも言いましたよね?」
何でも。その単語は、前に聞いたときより意味合いが大きく異なっている気がした……。
そして。
呆然としていた俺を再び西川は引っ張った。
それに俺は、またひっぱられて……そのまま保健室のベッドに。
「せんぱい!! こんなところでやめてください!!」
「おまえッッ!」
ガラッと扉が開いた。
そこには、怒りで爆発寸前の少女が一人。
「なにをしているんですか……」
「ちっ、違う。これは――」
「もう、先輩積極的にですねッ?」
もはや言い訳なんてさせてもらえなかった。
西川が腕の力を弛め、俺はすぐに離れる。しかし、それで状況が好転するわけもない。
「カホ……大丈夫なの?」
「うん。すこし驚いただけ」
それに少女はホッとして、再び俺に視線を向ける。
「今度は……出ていってくれますね?」
「……あぁ」
俺はこれ以上、西川によって何かされないよう逃げるしかなかった。
保健室を出るときにチラリと見れば、夕暮れの陽を浴びた彼女が恍惚な笑みを浮かべ、口だけを動かしている。
ま・た・ね。
頭にあったのは強い敗北感だった。
まさか……すべてが西川の策略だったなんて思いもしなかった。
そうして保健室を出たとき、ちょうど目の前に保健の女性教師がいた。
「あれ? なにか保健室に用事?」
「いえ……ただのお見舞いです」
「……あぁ、西川さんの。中に居るわよね?」
「はい。居ますよ」
そう言って退くと、彼女は扉を開けて中に入っていく。
「西川さん? お父様の会社のほうと連絡がついて、すぐに――」
俺はそちらに意識を向けないようにしてすぐさま立ち去った。
下駄箱に着くと、なんと松田が待っていた。
「よっ」
「まだ……帰ってなかったのか」
「フラれた友だちを慰めてやろうと思ってな?」
「フラれた?」
「そうさ。どうせ、あの一年女子にフラれてきたんだろ? お前の思惑通り」
そういうことか。俺は靴を履き替えながら答える。
「……いや、やられた」
「……やられた?」
「あぁ。逆手に取られた。なにもかも……彼女の手のひらの上だった」
「どういうこと?」
「とりあえず、次のことを考えないといけない」
「あっ、おい! 待てって!」
――わたしのことなめてますよね?
西川の言葉が耳から離れなかった。
正直、俺はなめていた。
サイコパスを自称すれば誰もが離れていくと思っていた。
悪い噂で人は俺を決めつけると思い込んでいた。
しかし、そうじゃなかった。
「おい、どうしたんだよ……って、なんでお前笑ってんの……」
松田に言われるまで気づかなかったが、どうやら俺はニヤついていたらしい。
無意識に笑うなんてとても久しぶりだった。
だが、それくらい悔しかったのだろう。
人は簡単に人を決めつけて選別する。
そして、たぶん……俺ですら周りの人間を決めつけて諦めていたに違いない。
だから、俺は西川を読めなかった。
読めたと……勝手に決めつけていたから。
「おい見ろよ須黒。あれベンツじゃね?」
校庭を横ぎるとき、校門の近くに黒い高級車が止まってるのを目にした。その扉を運転手らしき人が開けると、車中から一人の男性が降りてくる。
学校の関係者だろうか。その男が着ているスーツから、かなり偉い人なのではないかと推測できた。
「将来は俺もああなりてぇー」
「どうせ、小さな女の子をお出迎えしたいからだろ」
「ん? ……って、運転手のほうじゃねーよ! 一瞬何言ってるのかと思ったわ! ……でもお出迎えか。うーむ」
隣で考えだす松田に呆れ、俺は思考を再開させる。
無論、今度こそは……西川に俺を諦めさせるため。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
ここからは先は贅沢品である砂糖も加えていきますが……その量は少量です。
この作品には苦味もあります。精神的に疲れている時は読むことをオススメできません。