第六話 新世界。
ここ数日で、だいぶ周りから送られてくる視線が強くなってきた気がする。
松田が流した噂のせいだろう。
それは順調に広がっているらしく、教室だけじゃなくて廊下を歩いているときなどにも見られた。
ただ。
「――ねぇ、あの人でしょ?」
「――まじで気持ち悪いよねぇ」
俺をチラチラと見ながら囁かれる声。
なんというか……それは俺が予想していたものとは少し違う気がする。最低野郎に向けられる視線というよりは……まるで変態や変質者に向けられるソレのような気がした。
そんな中でも、西川は相変わらず俺のところに来ていた。
噂を聞いていないのだろうか?
「ん? どうしました? わたしの顔になんかついてます?」
「……いや、別に」
口元に米粒をつけた西川が小首を傾げる。
それに俺は首を振った。
「もぅ! 米粒とってくれてもいいじゃないですかぁ」
「それわざとだったのか」
「当たり前ですよ。そんなはしたないこと、わたししませんから」
相変わらずの西川。彼女だけは、まるで態度が変わってない。
そして、そんな俺たちを見ている奴等は、なにか怖いものを見るような視線を俺たちに向けてくるのだ。
こいつ……本当に何も気づいていないのか……?
疑問を感じながらそんな日々を過ごしていると、ようやくその時はやってきた。
「――失礼します!」
それは、昼休みが始まってすぐのこと。
教室にやってきたのは、橙色の校章をつけた数人の男子生徒。
彼らは一様に眉を吊り上げており、教室に入ってくるやいなや俺の前へと集結する。
「……なんだお前ら」
その異様な光景に、クラスメイトたちも「何事か?」と視線を向けてくる。とぼけて聞いた俺だったのだが、だいたい予想はついていた。
「須黒先輩。単刀直入に言いますが、西川さんと別れてください」
リーダーと思わしき奴がそう言った。
それは、俺が待ちに待った展開だった。
「なんでだ」
チラリと見れば、教室内にいる松田も興味津々とばかりにこちらを見ている。
「僕たち……先輩の噂を聞きました。あなたは西川さんに相応しくありません!」
その言葉に吹き出しそうになったが、なんとか堪える。
それを決めるのは彼らじゃない。西川自身だからだ。
「……お前らが俺の何を知ってるんだよ?」
それでもなんとかそう言ってのけると、彼らは顔を見合わせて意を決したように頷いたのだ。
そこには、なんとしてでも俺と西川を別れさせなければならないという正義の決意が見えた。
それは嘘じゃないだろう。そして、俺の最低な噂は彼女にも伝わるはずだ。
たとえ彼女がどんなに俺と別れたくなくても、周りはそれを許さない。なぜなら、周りは正義に侵されているから。
この社会で強いのは正義。
正義とは、多数決によって決められる数の暴力。
人を殺すことが犯罪とされるのは、それに賛同する人間が大半だからだ。
それは神が決めたわけじゃない。
それは世界の真理ですらない。
ただ、それを支持した人間が多かっただけの話。
もし、殺しに賛同する人が社会の殆どを占めていたのなら、きっとそれが犯罪になることはなかったはずだ。
戦争が良い例。それを支持する人が増えれば、歪んだ考えですら正義を得る。
そして、その正義の鉄槌は俺に下されようとしていた。
俺は、今にも笑いそうになる口元を必死で抑えつけた。
西川……俺の勝ちだ。
「……知ってますよ。あなたが――小さい女の子にしか興味がないロリコン野郎だってことは!!」
……は?
「申し訳ないですけど、先輩の話をいろいろ聞かせていただきました。……普通に恋愛するぶんには構わないですけど、変態である先輩に西川さんは相応しくないです」
ゆっくりと俺は、彼らの後ろにいる松田を見る。
彼は……俺にだけ見えるよう親指を立てていた。
「俺が……変態?」
それは演技ではない。
思わずこぼれてしまった本音。
「……はい。自覚ないですか? じゃあ、僕らが聞いた噂を聞かせてあげましょうか?」
そう言うと、彼は生徒手帳を取り出して開いてみせる。
待て……メモしなきゃならないほど多いのか!?
「先輩が小さい女の子に興味を持ったのはイジメられていた中学生のころだそうですね?」
イジメ……られてた?
「小学生の時に好きだった女の子までもがそのイジメに加担してて……そのことに絶望した先輩は、普通の女の子を信じられなくなってしまった」
残念そうに語ってみせる彼の言葉が、だんだん遠くに感じてくる。
なのに、彼の後ろで親指を立てる松田の姿だけはハッキリとしていた。
「そうして先輩の関心は、小さい女の子へと向けられていき……やがて、小さな女の子しか愛せなくなった」
なんだよ……その超具体的な噂は。
「他にもありますよ? ……先輩」
そうして反対に持つ生徒手帳に視線を戻す彼。その生徒手帳は、まるで俺を殺す死神のノートに見えた。
「先輩は……その過程で『妹』という存在も好きになった。だけど、先輩には妹がいなかった」
待て……俺には妹がいるぞ……。
「だから……先輩は妹が欲しくて欲しくて――」
彼はそこで言葉を切る。まるでそれを口にすることを躊躇うかのように。
しかし、再び決意を新たにした彼は言ったのだ。
「――母親のご飯に……精力剤を混ぜた!」
松田ああああああ!! 誰が俺をロリコン野郎にしろと言ったああああああ!! ふざけるなああああああ!!
「しかも……それを父親に見られてドン引きされた……」
松田ああああああ!! おま……これ絶対お前の実体験だろうがああああああ!! 父親にマザコンと勘違いされてるじゃねぇかああああああ!
「家族にも見放された先輩は、次第に自分だけの世界にのめり込むようになって……小さい女の子しか愛せなくなった……」
松田は、彼らの後ろで照れ笑いを浮かべている。
それでも、俺への親指は立てたまま。
その時、俺は松田の言葉が脳裏によみがえった。
――俺だけはお前の理解者だから。
――スッキリした。
――これからよろしくな?
そして、俺は理解した。
彼は、俺の願い通り『最低野郎』の噂を流したわけではないことを。
罠だ。これは松田が、自分の仲間をつくるために仕組んだ罠だ……。
「先輩……イジメを受けていたことには同情しますけど、それを理由に拗らせて……自分が好きだった頃の妄想を肥大化させて……終わりですよ、須黒先輩。あなたには、西川さんは相応しくありません!」
彼はそう言い切り、正義をその背中に背負って俺の前に立ちはだかる。
その顔には、やはり正義を志す決意が張り付いていた。
まったく……噂の審議など確かめもせず、それを鵜呑みにして、盲信して……ほんと、言ってもわからぬ馬鹿ばかり。
ため息を吐いた。
だが……それこそを俺は望んだんじゃないか。
椅子からユラリと立ち上がる。
それに彼らは焦ったのか、怯んだように一歩引いた。
暴れるとでも思ったのだろうか? そんなこと、するわけがない。
できるかぎり口元を歪めて彼等を見る。
それに一人が「ひっ」と声を漏らした。
その様子を冷淡に見てから、俺はハッキリとした口調で言ったのだ。
「そうだ。俺がロリコンだ。そして……自称サイコパスだ」
――。
ゾロゾロと一年生たちが教室から出ていく。
彼らは最後「このことは西川さんに伝えますね」とだけ言った。
クラスメイトたちは嫌悪感を露にしたまま俺を見ている。
そんな中、松田だけが俺に近づいてきて肩にポンと手を置く。
「俺だけは……お前の味方だぜ? ようこそ新世界へ」
その時、俺はようやく松田の本名すべてを思いだした。
――松田幸太郎。
興味がなかった有象無象からの格上げ。
光栄に思えよ? 自称サイコパスが、他人の名前をフルネームで覚えるなんて滅多にないんだぜ?
「松田……」
「なんだよ、須黒」
「お前には……絶対に妹を会わせない」
「へっ……中学生には興味ねぇよ」
そして、俺たちは教室で立ち尽くした。
自称サイコパスとロリコン野郎。それは、社会において忌み嫌われて当然の存在だった。
西川が教室にくることはなかった。おおかた、周りの誰かが止めたに違いない。
これでいい。……これで。
思惑とは少し違ったものの、結果としては十分。
俺はやり方を間違えたわけじゃない。人選を間違えただけだ。
そうやって終わらせようとした……その日の放課後。
やはり西川が教室にくることはなくて、俺は本当に彼女が諦めてくれたのかもしれないと思った。
しかし。
「――なんか、一年生の女子が階段から落ちたらしいよ? しかも……須黒の彼女だって」
「――うっそ……絶対それ須黒が原因じゃん」
その声に振り向くと、話をしていた女子二人が「やばっ」とでも言いたげに顔を強張らせた。
「……その話、本当か?」
「えっ……いやぁ……たぶん」
詰め寄った剣幕に押され、言いよどむ女子生徒。
「怪我は?」
「しっ、知らないけど……大怪我じゃないらしいし――」
それだけ聞いて、俺は彼女たちから離れる。
そのまま一年生の教室へと向かった。
西川がどこのクラスかは知らない。だが、あれだけ可愛いのだから知らない人がいるとも思えない。
俺は一年生の教室が並ぶ廊下で、ちょうど帰ろうとしている女子生徒を捕まえた。
「ちょっと聞きたいんだが、西川花帆という女子生徒はどこにいる?」
「西川さん? ……あぁ、たしか今保健室に……って……まさか」
彼女は俺の顔を見てから、何かに気づいたように目を見開いた。
噂がどれほど広がっているのかよくわかった。
「ありがとう」
俺は、その女子から離れ保健室に向かう。
まさかとは思うが……あいつ。
事故かもしれないが、俺は確かめなければならなかった。
それをする義務はあると思った。
そして、保健室に着いた俺は迷いなく扉を開けたのだ。
【シゾイド/スキゾイド】
シゾイドは、自分との関わりによって他者を変化させてしまうことに恐怖している。
彼らは対人関係における障害を、誰の力も借りず、時には自分の性格を歪ませ時には犠牲にして乗り越えてきた孤高の戦士である。故に、変化することへの危うさを誰よりも理解しているため、彼らは積極的に他者を指摘をしたり叱咤することができない。
そして、他者の責任を自分の責任として沈黙してしまうこともある。問題を大きくすることより、自分の罪として処理してしまった方が合理的であるとも考えている。それが歪んだ正義感であることをシゾイドは知っているが、恐怖が勝りできない。
そして多くの場合、シゾイドは他者が自分に対して持つ誤解を解こうとすらしない。
※注釈
『殺しが犯罪となる理由』について主人公が考察をしていますが、これは『殺しをしてはいけない理由』と同義ではありません。
その理由は道徳的観念から導き出さなければならないことであり、作中における説明は社会的構造から考察したものです。