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斬罪  作者: 古海 皿
南の港
4/53

南の港-4

「少尉、身投げ死体が一つ増えたって本当かい?」

「わたくしの管轄内ではございません」


 戸口から踏み込んで挨拶を口にする前に、一瞥もなく投げかけられた台詞に少尉は淀みなくそう答えた。そう、と永弘は頷いた。邦秋は古びてくしゃくしゃになった新聞紙を丁寧な仕草で広げている。


 声をかける前だったのに、少尉を少尉と特定できた理由は不明だ。


「まあ、警察の公式発表があったから本当だとは知っているんだけどね」

「であれば、わたくしに尋ねる理由がわかりません」

「一応の確認だよ」


 少尉の言葉に淀みがなければ、永弘の言葉にも迷いはない。


「軍属のお前ならまた別の情報を持っていたりしないかと思ってね」


 どうやら当てが外れたようだけど。さしたる落胆も見せずに永弘はそう言った。

 そうですか、と頷いた少尉の方を、邦秋が振り返る。手元の新聞の上には文鎮が置いてあった。端の方も綺麗にシワを伸ばしている最中だったからだ。


「ところで、ついでにもう一つ聞きたいんだが」

「お答えできるかどうかは別問題ですが、聞きましょう」


 これもまた一種の正直には違いない。生真面目に少尉はそう述べる。もともと少尉の気質についてはよくよく知っているので、特に意外そうな表情を浮かべることもなく、邦秋は尋ねた。


「十の波止場については軍の方も把握しているのか?」

「辺鄙な町の噂話をいちいち把握している方が稀ではあります」

「なるほど、つまり把握しているんだな」


 邦秋はそう呟いて、少尉から興味を失ったように再び新聞を広げる作業に戻る。少尉は無表情を崩さない。


 十の波止場、という単語だけで、辺鄙な町に流れる噂話だと理解できるということは、少尉がそのことを知っているからだ。

 そして少尉は、軍に忠実な剣として育てられた人間である。軍に関係ないことはしないし、見ないし、聞かない。当然言わない。その在り方はいっそ異様なほどに徹底されていた。


 言葉の端々でその意図が読み取れる程度には――そして読み取られることを少尉が容認するくらいには、少尉と彼らの付き合いは長い。


「軍からの伝言です」


 少尉は淡々とした声で言う。


「余計なことに首を突っ込むのは控えろというお達しです」

「逆に聞くが、お前たち、辺鄙な町の、死人だって二、三人程度の話にいちいち出動するようなことがあるのか? だったら大人しく丸投げするんだが」


 新聞のシワをひたすら伸ばす作業を続けながら、純粋に不思議そうに尋ねた邦秋に、少尉は少し黙り込んだ。そして、再び口を開いた。


「……あなたがたが踏み込む理由が不明です」

「死人が出るのを知っていて放置するのは、寝覚めが悪い」


 貸本屋から借りてきた民俗学の本をぺらぺらと捲りながら、永弘はなんてことないような口調でそう答えた。


「きっかけなんてそれぐらい些細なものだ。誰もがそんなものだろうよ」

「……理解不能」

「それでいいさ、お前はそういうやつだ」


 相変わらず少尉は無表情のままである。永弘はぱたんと民俗学の本を閉じた。

 新聞を広げ終えた邦秋は、手元に視線を落として、黙々と慎重に新聞を手繰り始める。

「それでいいんだけれど、一つ教えてくれないか。十の波止場がいつ頃出てきた噂なのか、お前たちは知っているのかい?」

「古い噂です。少なくとも、あの波止場が波止場として整備される以前から存在していたものかと」

「そうかい、ありがとう」


 にこにこと礼を言う永弘に、やっぱり少尉は無表情であった。邦秋は無言で新聞を捲っていた。


  *


「……七……八……九、十、と」


 指折り数えながら港の端をゆっくりと歩いていた永弘だったが、そこまで数えたところで足を止めた。太陽の光に照らされて銀髪が鮮やかに輝いている。


 周囲をぐるりと見回して、そして永弘は背後を振り返った。


「噂通りの結果は得られたが、そっちはどうだ、上桐!」


 しばらくの間。

 ややあって、声が返ってきた。


「こちらも同様だな、上桐!」


 金髪に太陽の光がきらりと反射して煌めく。港の端から端までは結構な距離があるのだが、さほど間を置かずに邦秋はこちらまで走ってきた。息を切らしてすらいない。

 その事実に驚くこともなく「それで?」と永弘は言葉を促す。


「数えたところ十だった。しかし実際に踏み込んでみながら数えたところ、足を踏み入れることができた波止場は九つだ」

「少なくとも噂は本当、と」

「……で」


 二人の会話に、割って入る声が一つ。


「俺はなんでこの検証に付き合わされているんだ?」


 困ったような表情を浮かべて、鴉は彼らにそう尋ねた。何をか言わんや、という顔で、邦秋も永弘もどちらも同時に鴉に視線を移した。鴉はたじろいだように一歩後ずさった。


「暇そうだっただろう」

「そうだな、少なくとも今のところ暇ではあったが……俺が付き合う理由はないだろ?」


 鴉の言に、小首を傾げた永弘は「戯言をほざかないでくれるかい?」となかなか毒舌な言葉を吐き出した。


「お前が港の怪異とやらの話を上桐に教えてきたんだろう? その責任は最後まで持ってほしいね」

「いやそれはそうだけどな? 俺はあくまでも街中の噂話を喋っただけであって」


 そこで言葉を切った鴉は「というか」と話を転換する。


「上桐永弘、いや上桐邦秋もだが、十の波止場と港の鬼火は確かに場所は被っているようだが、それぞれ別物なんじゃないか?」

「それがそうとも言い切れない」


 邦秋が真顔でそう言った。

 どういうことだ、と訝しげな顔をする鴉に対して、邦秋は持ってきていた洋紙の手帳をぱらぱらとめくる。何も書かれていない頁で止めて、そこに万年筆で流麗に文字を書いた。


〈十の波止場〉


 その字を万年筆の尻でとんとんと叩く。


「おそらくは、今広まっている噂ではこの意で使われているのだろうがな。波止場、はまあ発音からして特徴的だから一旦脇に置くとして……問題はこの〈とお〉の部分だ」

「……ふむ」


 鴉の頭の回転はなかなか早い方だ。邦秋の言葉から意図を汲み取って、す、と真剣な顔を形作った鴉が、つまり、と〈十の波止場〉と記された文字を指先でなぞる。


「この漢字がそもそも〈十〉であるかどうかの証拠は存在しない、ということだな」

「そういうことだ」

「十番目の波止場、と言うから〈十〉なのかと思ってはいたが……そもそも、ここの波止場は整備される前、九つも存在していなかった」


 頷いた邦秋の言葉を引き継いで、永弘は自分の万年筆を取り出す。


「なのにその頃から噂自体は蔓延っていたらしい。そう視点を変えれば話は変わってくる。波止場を数えると十になるのは、たまたまで――〈とお〉の部分に別の字が当てはまるとすれば」


 そして邦秋の横から腕を伸ばして、やはり流麗な手つきで手帳に書き込んだ。


〈灯の波止場〉


 とうのはとば、と永弘はそれを読み上げた。


「〈とお〉と〈とう〉の発音は随分とよく似ている」


 万年筆の蓋を閉めた二人の前で、ふむ、と鴉が自分の顎を撫でた。


「その灯というのが鬼火だと?」

「推測に過ぎないが……それでなくとも、怪奇現象であることには違いないからね」

「まあきみたちが他人事に対して妙にやる気を出すのは今に始まったことじゃあないが」


 淡々とした口調でそう述べる永弘と、その横で手帳を畳んで胸元に仕舞う邦秋。

 彼らに対して、鴉は呆れたような、感心したような、どっちつかずの声で言った。


「俺も昔より目が悪くなっているから、役立つことなど特にないぞ?」

「猫の手と大して差はないだろ」

「何気にひどくないか」

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