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斬罪  作者: 古海 皿
北の滝
22/53

北の滝-1

 原点の記憶、というものがあるとする。


 人生の転換点。その後を決めるきっかけとなった出来事。それは誰しもが所持しているものではないだろう。

 だが、持っている人間は持っているものだと、上桐邦秋と名乗る人間はそう考えている。


 そう、考えている。


 彼の原点の記憶は二つ存在する。その記憶が複数存在する時点で、原点、という表記は矛盾しているかもしれないが、それでも確かに邦秋はそう思っている。


 一つは、にこやかな笑みを顔に貼り付けた人間が、こちらに向かって差し伸べた手。

 一つは、銀と金の髪が風になびいて、諦めたように伏せられた蒼穹の瞳。


 それは邦秋にとって、どちらも――そう、どちらの記憶も。


 救いを具現したものだと、そう、考えている。


  *


 原点の記憶、というものがあるとする。


 人生の転換点。その後を決めるきっかけとなった出来事。それは誰しもが所持しているものではないだろう。

 だが、持っている人間は持っているものだと、上桐永弘と名乗る人間はそう考えている。


 そう、考えている。


 彼の原点の記憶は二つ存在する。その記憶が複数存在する時点で、原点、という表記は矛盾しているかもしれないが、それでも確かに永弘はそう思っている。


 一つは、怯えたように帽子のつばを掴んで、こちらを窺うように見つめてくる視線。

 一つは、銀と金の髪が風になびいて、困ったように瞬く翠緑の瞳。


 それは永弘にとって、どちらも――そう、どちらの記憶も。


 罪を具現したものだと、そう、考えている。


  *


 ちりんちりん。


「お元気なようで何よりです、上桐邦秋。お噂は予々」


 玄関の鐘が鳴ると同時に、穏やかな声が扉の外から降ってきた。

 原稿用紙から顔を上げた邦秋は、うわあ、と言わんばかりの顔で玄関に立つ人物をまじまじと眺める。来客の鐘の音を聞いて自室から顔を出した永弘は、人影を目に止めてぱちくりと目を瞬かせた。


 緩やかに編まれた赤毛が背の中程まで伸びている。ぴんと伸びた背に纏っているのは、派手な色の着物だ。

 整った目鼻立ちは人目を惹くだろう――異国のものである茶と緑の入り混じったような瞳も含めて。


 邦秋は忌々しげに言い捨てた。


「右京」

「右京?」


 復唱して、永弘は怪訝そうに眉を寄せる。


「……いや誰だい」

右京(うきょう)勇魚(いさな)。元同業者、と言った方がいいのかもしれんが……おい」


 邦秋の視線は鋭い。


「何しにきた」

「ご挨拶ですねえ」


 口元を袖で隠して、嫋やかに笑う赤毛の女――勇魚。言うわりには堪えた様子もない。その様に邦秋は眉を顰めた。


「それと私だけではなく、藤もいることをお忘れなきように」

「……お邪魔だった?」


 ひょこりと顔を出した、同じく赤毛に灰色の目を持つ子供。その見た目からすれば年齢は七歳前後、といったところだろうか。

 邦秋は今度こそ形容しがたい表情を浮かべたものだから――邦秋という男がここまでわかりやすいことは滅多にない――永弘は物珍しげに邦秋を眺めて、そして子供の方に視線を移した。


「……この子は?」

「……右京(ふじ)。勇魚の妹とは思えないほど謙虚で出来た子供だな」

「えっと……姉様は素敵だよ?」

「ええ、ええ、藤は良い子で可愛らしい子ですよね。ですが私を下げることはいただけません、藤の教育に悪いでしょう?」

「っち」

「おい、上桐」


 舌打ちをこぼした邦秋を反射的に叱りつけて、それにしても、と永弘は小首を傾げる。


「お前がそんなに、他人に対して嫌そうな感情を見せるところは初めて見たね」

「……別に嫌いではないんだが……」


 嫌そうな顔をしながらもそう呟いた邦秋に「ええ」と勇魚は頷いた。


「じゃれ合いのようなものですよ」

「会うたび会うたび散々に揶揄われることがほとんど確定しているから、条件反射で拒絶反応がな……」

「反応が面白いのが悪いんじゃあないですか」


 悪びれた風もなく勇魚は言った。邦秋は深い深い溜息を吐き出して、思い出したように学生帽を被り直した。


「で?」

「で、とは?」

「御託はいい。何しにきたんだ?」


 邦秋の苛立った声音に、勇魚は小首を傾げてにっこりと微笑んだ。


「その前に、来客にお茶を出すなどの対応はありませんか?」

「っち!」

「上桐お前な……」


 だからそういう仕草は客に対して向けるものではないと。

 わかっているだろうに先程よりも大きめの舌打ちを放って身を翻した邦秋に、永弘は呆れ顔、勇魚はくすくすと笑い声を立てた。藤は小首を傾げて邦秋と永弘を交互に眺めていた。


 そんな邦秋だが、なんだかんだ勇魚の言う通りに茶葉と急須を用意し、緑茶を人数分淹れるあたりがお人好しと言われる所以なのである。

 藤のような子供が緑茶は大丈夫なのか、と永弘が問う前に藤は心なし目を輝かせて緑茶に口をつけていた。問題はなかったようだ。


「で、何があったんだ」


 応接用のソファにどっかりと座り込んで――ちなみに向かい側のソファに右京姉妹が座って、永弘は邦秋の隣に腰を下ろして話の行く末を見守っている――邦秋はそう口火を切った。


「こちらに越してからお前がここに訪ねてくるばかりか、俺に声をかけてくることすらなかっただろう。何の用だ」

「せっかちですねえ、まずは世間話から、」

「お前には俺が知己の窮地に悠長に世間話をする人間のように映っているのか?」


 勇魚の声を遮って、邦秋は真っ直ぐに勇魚を睨みつける――いや、見据える。


「だとしたら勘違いも甚だしい。今すぐそのひん曲がった認識を訂正しろ」


 勇魚はぱちくりと目を瞬かせて、そして、諦めたような表情で溜息を吐き出した。その様は憂いのある色気がたっぷりで、下手な輩が血迷いかねない危うさを秘めている。

 ただ邦秋の表情は微動だにしなかったし、永弘は緑茶の入った湯呑みを手に目を細めるのみだった。

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