南の港-2
扉を開ければ、ちりんちりんと取り付けられたベルが鳴る。その音は意外なほどによく響く。
邦秋が帰宅したとき、彼の同居人である永弘は事務机の上に頬杖を突いていた。その手は万年筆をくるくるとひたすら回している。永弘は手を止めないまま、ちらりと邦秋の方に一瞥を向けた。
「おかえり、上桐」
「ただいま、上桐。……来客でもいたのか?」
出しっ放しの紅茶のカップ二つに視線を移してそう問うた邦秋に、「少尉がね」と永弘は肩をすくめた。ああ、と邦秋は納得したように呟いた。
「また来ていたのか。もしかしたら、軍の方は暇なのかもしれんな」
「俺たち専用の係なんて誕生するくらいだから、実際その通り、暇なんじゃないかな」
「言えている」
邦秋が椅子の上に頭陀袋を置けば、その丁寧な所作にしては大きな鈍い音が響いた。借りてきた本が音を立てたのだ。いつもそこそこの量を借りるので、そのまま振り下ろせば鈍器の役割も果たすだろう。もちろん、借りた本でそんなことをするつもりはないが。
「あいつはなんと?」
「もう少しいろいろと自重しろ、とさ」
永弘は呆れたような声色でそう言って、万年筆を筆立ての中に戻した。
「聞くような人間ではないとわかりきっているだろうに」
「仕事人間だことで、相変わらず」
「あなたがたに言われたくはないと考えます」
静かな声が上桐の彼らの会話に割って入った。
「なんだ、帰っていなかったのか」
意外そうに眉を上げた邦秋に「お手洗いを借りておりました」と後ろ手に扉を閉めて、少尉は答えた。軍帽を片手で被り直して、小柄な身体にぴったりと馴染んでいる軍服を少し整える。
そうしながら、少尉は邦秋に視線を向けた。
「軍の指令はあなたがた二名に言伝をすることでした。わたくしの指令は未だに成し得ておりません」
「仕事人間だことで……」
「伝えます」
ぼやいた邦秋の言葉は敢えて無視である。少尉は淡々とした口調を崩さない。
「言動には気を遣え」
「たった一言じゃないか」
「いつものことだろう」
永弘も、邦秋も、大して気にする素振りは見せない。わずかに眉を顰めた少尉は、一つ息を吐いた。
「……政府も暇ではありません。いちいち発禁処分にするのもなかなかの苦労を伴います」
「悪いね」
「……帰ります」
あまりにも軽い返事に、さすがにいろいろと諦めるしかないと悟ったのかはさておき。
玄関の扉に手をかけたところで、ふと瞬きをした少尉は「そういえば」と二人を振り返った。ん? と同時に小首を傾げた彼ら二人を、少尉はしばし眺める。
金の髪に翠眼。銀の髪に碧眼。異国の人間のような髪と目の色。他人にしては似通っていながら、血縁にしては異なるような彼ら二人の顔立ち。どちらも整っていることだけは間違いない、と少尉は冷静に分析する。襟に糊のきいたシャツと袷、そして袴。これも色違いの揃えの服。
唯一確実に違う点といえば、邦秋だけが被っている学生帽くらいだろう。
似せようとしているのか、それとも違いを作ろうとしているのか、少尉は一度たりとも聞いたことはない。
少尉は軍の剣であり、そして軍部からは彼らの事情に首を突っ込めとは命じられていないので。
「なんだい?」
「何か伝え忘れていたことでも?」
まるで鏡写しのように左右対称に小首を傾げた二人に、少尉はやはり淡々とした口調で「はい」と答えた。
「わたくしも知己を刀の錆にはしたくありません。それだけは理解してください、上桐のお二方」
二人は同時に肩をすくめるのみであった。もう一度、少尉は大きく息を吐き出して、今度こそ戸口の外へと踏み出した。
*
「上桐、死体が上がったようだよ」
「沖でだろ?」
ばさりと投げ出された新聞。邦秋は万年筆を動かす手を止めて、机の上の原稿用紙から視線を上げる。
眉を上げた永弘は「なんだ、聞いていたのか」と一つ頷いて、引っ張ってきた椅子に腰を下ろして足を組んだ。
「表が少々うるさいから、断片的な話は耳に入ってきた」
「ああ……なるほどね」
邦秋の言葉に永弘は得心のいった表情を浮かべた。彼らが住まうこの家が面するのは大通りであり、高い利便性を備えているが、その分騒音などもよく響く。
「どうやら警察は自殺とみている。それに対して、死ぬような人間じゃなかったと家族が喚いているようでね。上桐、たぶんお前が聞いたのはその騒ぎ声じゃないかな」
「それほど暴れているのか」
「警官に掴みかかって、往来が大騒ぎになっていたよ」
「ふうん」
素っ気ない反応はいつものこと。邦秋はいつの間にか元のように自分の手元に視線を落としていたし、永弘は特段反応もせずに、どこからかもう一部新聞を取り出してぺらりと捲り始めた。
共に暮らし始めて既に数年目。どちらも、お互いがこの程度の距離であることを知っている。
「……家族が自殺と信じない、というのはある種の典型例ではあるが」
「……うん? ……ああ、そうだね」
ややあって、視線は原稿用紙に向けたまま邦秋がふと呟いた言葉に、一拍ほど遅れて永弘が反応する。こちらもこちらで新聞の文面を目で追いかけながらだ。その状態で回想するのだから彼自身の持つ器用さがうかがえる。
「なんでも、家族に会わせたい人がいるんだと意気込んでいたのだとか……会ったらきっと驚くとひどく楽しそうに言っていたから死ぬわけがない、だそうだ。泣き喚きながらの支離滅裂な話を俺なりに意訳したものだけどね」
「奇妙な話ではあるな」
「どうだろうか」
邦秋の相槌が至って淡白なら、永弘の返答も語尾も上げない淡々としたものだ。
彼ら二人が揃った会話は、独特の拍子に沿った応酬になる。
「実際、人の死なんて何がどのように作用するのかわかったものではないけれど」
一応、事故や殺人の可能性もあるわけだしね。語尾にそうつけて、永弘は更に新聞を捲った。まあその通りだな、と口の中で呟いた邦秋は次の文章を書き進めようとして――ふと、わずかに眉を顰める。
そして顔を上げた。
「……少し聞いても?」
「なんだい」
「その死体が上がったのは沖のどのあたりだったか具体的に聞いているか?」
永弘は少し首を傾けた。
「……地図が欲しいね」
永弘の言葉にがたんと邦秋が立ち上がる。奥の部屋へと消えて、すぐに、町の地図を手にして戻ってきた。広げた地図上にはやや沖の方の海まで描かれている。
その地図の端から端までさっと視線を走らせた永弘は「確かこの辺り」と、地図上の海の一角を指差した。
「船が集まっていたからね、角度とその大きさから考えるにおそらく間違いはない」
「……海流を考えると、流れてきたのは……」
邦秋の指が、永弘が示した一角から彼の記憶上にある海流と照らし合わせて、それを遡るように指を進める。なだらかな蛇行を描いて、邦秋の指はある地点にまで辿り着いた。
港である。
「……位置は貸本屋の南だな、確かに」
そう独り言ちた邦秋。ぱちり、と永弘が目を瞬かせた。
「何がだ?」
「鴉が言っていたんだ。この港に鬼火が出ると」
「……へえ」
邦秋が無感情に述べたその台詞に、永弘は一言、そう返した。




