西の橋-8
もっもっもっ。
口の中に麺をいっぱいに詰めながら、ふうん、と鮎河は気のない声を漏らした。ずず、と彼が啜っているのは蕎麦である。コシの効いた麺を口いっぱいに頬張って、もごもごと鮎河は何かを言おうとした。
いや食べているものを飲み込んでからにしろ、と邦秋は冷静に指摘した。
「むう……」
「礼儀についてそんなに蔑ろにする人間だったかな、お前は」
そう言って微笑んだ永弘の表情――正確には冷笑とも呼ぶべきその笑顔を見て、ぴしりと硬直した鮎河は、もっもっもっ、と素早く口の中のものを真剣な顔で咀嚼し始めた。わかりやすい。
隣に座る鮎河の慌てぶりを他所に、扇沢はずずずとのんびりとした所作で蕎麦を啜っている。
扇沢の蕎麦はわさびたっぷりで、鮎河の蕎麦は天かすが山ほど乗っていた。邦秋と永弘の蕎麦は至って普通の笊蕎麦だ。
「もぐ……うむ……ごくん」
口いっぱいに頬張っていた蕎麦を見る間に飲み込んで「うん」と鮎河は頷いた。
「それで、上桐さんたちはまた妙なことに首を突っ込んでいるという認識でいいんですね」
「失礼だよな……」
「実際その通りだろう」
開口一番そう言い放った鮎河に邦秋は顔を顰め、永弘は疲れたような声で呟いた。追い討ちをかけるのは扇沢である。この二人、どうにも遠慮も容赦もない。
蕎麦を箸でつまんで、そのついで、こぼれてくる横髪を片手の指で耳元にかけて、ふと扇沢は呟いた。
「それにしても、幅無橋が、希橋か」
怪訝そうに瞬きをしたのは邦秋だ。
「……何か心当たりでも?」
「俺たちの年代でも同じような話が流行っていたな、というくらいだが」
「ああ、やはり話題自体はあったのか……」
「ちなみにそれ、実際に試してみて、すれ違ったと言っていた人間なんかはいたのかい?」
「いましたね」
鮎河はそうあっさりと言ってのけた。なあ兄弟、と扇沢に目配せをすれば、扇沢もいとも簡単に首肯してみせる。
ここに来てようやく二人目の目撃情報か、と永弘は思いながら蕎麦を啜った。
「うーん、なんていうか、個人名は伏せますけどいいですよね?」
「構わないが、情報は流してくれるんだな」
「そりゃ一応上桐さんたちのことを信用していますから」
信頼ではないところはご愛嬌、といったところか。信用にしても一応がつくあたりがその程度を示している。
どちらにせよ、全幅の信頼を置かれても上桐たちだって妙な顔になるしかない。
「とは言っても、調べれば出てくるかもしれませんけれどね」
鮎河は箸の先で汁に浮いた天かすを突いている。俯いているのでその表情は見えない。
「中学校の頃の話ですよ。ま、俺は途中で辞めましたけど。――すれ違ったと喚いていた奴が死にました」
「死んだ」
「ええ」
繰り返した邦秋の言葉に鮎河は頷く。
「そいつ、普段の素行があまりにも悪すぎて、敵自体はいっぱいいたんです。でも良いとこの出だったんで婚約者がいたんです。それがまたどこぞの誰かの幼馴染だったようで」
「そいつが殺した、ってことかな」
「……さあ、どうなんでしょうね?」
顔を上げて、あっけらかんと言い放った鮎河の隣で、蕎麦を食べ終わった扇沢がごちそうさまでしたと手を合わせた。「兄弟、蕎麦湯いる?」「いる」そんな短い会話を交わして、会話の主導権は扇沢に交代。
「確かに一時期、そいつが殺したのではないか、という噂は広まった」
扇沢は静かな口調でそう言った。感情の見えない声だ。
「けれど、授業中の実験での事故だったからな。そいつができるわけがない、とそう証言するための人間は大勢いた。実際、ただの事故だろう、ということで片がついたんだ」
「へえ……」
永弘は柔らかな声で相槌を打った。邦秋は目を伏せて、呟く。
「中学校……良いとこの出で、授業中の事故……ああ、あれか」
「うえ、わかるんですか」
顔を顰めた鮎河に「最近昔の新聞を漁る機会があったからな」と邦秋は応じる。
「……だが、そうか」
「何かあるのかい?」
「あとで話す」
永弘にそう答えて、邦秋は黙々と蕎麦を啜る作業に戻った。
ちなみにこの蕎麦屋での勘定は、情報料代として上桐の二人で割り勘である。




