西の橋-5
外から慌ただしい足音が響くものだから、少し顔を顰めた永弘が原稿用紙から視線を外して扉に一瞥をやれば、ちょうど「上桐!」と叫んだ邦秋が息急き切って駆け込んでくるところであった。
珍しく息を弾ませた邦秋に、ある種の予感を覚えながらも、永弘は皮肉げに笑ってみせる。
「靴も揃えずに駆け込むものかい、上桐」
「そのことについては申し訳ない」
目を細めた永弘に邦秋は反射で謝った。
初手で謝らないとあとでちくちくといびられるのは目に見えたこと。こういう礼儀には厳しいのが永弘である。自分に非があるのであれば大人しく認めて謝るが吉。
机の上に手をついて、っはー……と息を吐き出す。訝しげな永弘の目の前で、深呼吸をして息を整えた邦秋は、口火を切った。
「この間、幅無橋ですれ違ったと騒いでいた少女がいただろう」
「……いたね」
永弘が万年筆を筆立ての中に戻す。聞く体勢になった彼の前で、邦秋はもう一度呼吸を入れた。
「あの集団にいたうち一人の親と会って、あの少女のその後について聞いた」
「……お前の、妙なぐらいに機に恵まれているところは置いておくとしようか」
「元からの知人だったんだ……」
あまりにも好機であったことは自覚している。呼吸を落ち着けるためにも、邦秋は学生帽を被り直した。持つべきものは口の軽い知人だ、なおその場合こちらの秘密に関しては全力で隠す通す必要があるが。
鼻が利く相手だと特に背筋がひやりとするのだが――いや、それは今関係ないのだった。
「ともかく」と邦秋は言い募る。
「聞いたんだ。結論から言うなら、もしかしたらだが、幅無橋の噂は本物かもしれない……しかも、かなり性質の悪い」
「と言うと?」
「その少女は――俺にとっては、知人の娘の更に友人という位置に当たるんだが――許嫁との婚約が破談になったらしい」
刹那、沈黙が降りた。
口元に拳を当てた永弘は、邦秋の言葉を脳内で反芻して、そして眉を顰める。
「……性質が悪いと判断したのは?」
「破談になった理由が理由だ」
邦秋はきっぱりと断言する。
「幅無橋を渡ってから、今日に至るまでの間に、階段から落ちたそうだ。そして落ち方が悪くて足に後遺症を作ってしまったと。……そのとき、数人が妙なものを見ているようだ」
「具体的に」
「――少女を突き落とす人影」
ぱちり、と永弘は瞬きを一つした。
「それは……言い方は悪いが、それだけの事実で、幅無橋との関連性を判断できるものか? 実際、この世の不可思議な現象なんてその大半が嘘っぱちだ」
「正論ではあるがな、問題は」
邦秋は指を三本立てた。親指と、人差し指と、中指。
「それが――同じものが、複数人に見られているということ。その人影は目の前で掻き消えたとその数人は一様に主張しているということ。もちろん、周囲の大人には信じてもらえなかったようだが……」
「……」
「最後に、これが最も重要なんだが――突き落とした犯人は名乗り出ている」
「は?」
頓狂な声を上げた永弘に、まあそうなるだろうな、と邦秋は内心至極冷静に呟いた。
事情を聞いて理解している邦秋とは違って、いよいよ訳がわからない、という表情を浮かべるのは当然と言えよう。
「だったらそれだけで終わりじゃないか。どのあたりが幅無橋に関係しているんだ?」
「その人物が――これもまた少女で、幅無橋を通ったときにいたというんだが――位置関係上突き落とせるはずもなかったことが既にはっきりしている」
「……なんだ、それは」
「もちろん戯言として片付けられたそうだが。……その子は、突き落とされた少女の元許嫁のことが好きだったそうだ。だから幅無橋を通るときに破局を願ったと」
奇妙な話だろう。
邦秋のその言葉に、永弘は腕を組んで低く唸った。




