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斬罪  作者: 古海 皿
南の港
1/53

南の港-1

「よっ」


 軽快な声に邦秋は顔を上げた。


「久しぶりだな、上桐(かみぎり)邦秋(くにあき)

「……(からす)


 つばの広い学生帽をくいと上げて、相手を確認した邦秋がそう呟く。貸本屋の戸枠から覗くように顔を出して、にこにこと笑みを浮かべた黒髪の彼は、ゆっくりとした歩調で邦秋の前に歩み寄った。


「の、爺さん」

「爺さんじゃない」


 すとんと真顔になった鴉に邦秋は「そうだな」と棒読みで言った。

 鴉の背はほんの少し邦秋より高い。自然、邦秋の背筋を少しだけ伸ばす。


「全く……ちなみにうちの司書は今ちょっと席を外してるぜ」

「……あの司書が?」


 邦秋はぱちくりと目を瞬かせた。


「随分な出不精だった記憶があるんだが」

「あれを出不精と言うにはまた違うだろうが……まあそうだな。ただ出かけているのは事実だ。しばらく戻らないぜ。ざっと一月くらい」

「席を外すという表現にしては長いな。……まあ、どちらにせよ、構わない」


 学生帽を被り直して、邦秋はそう言った。


「今回は純粋に貸本屋を貸本屋として利用しにきただけだ」

「うん? また珍し……くもないか。きみたち、一応作家だものな」

「……一応……」

「いや、だってきみたち、普段何しているのかいまいちよくわからないところあるだろう」


 彼はそんなことを言うが、実際のところ、普段何しているのかいまいちよくわからないのは鴉の方だろうと邦秋は思った。

 年齢不詳、素性不明。鴉という名前すら、それが苗字なのか下の名前なのかあだ名なのか、もしかすれば偽名であるのかすら定かではない。


 邦秋が鴉について知っているのは、眼前の貸本屋によく手伝いに来ていること、そこの店主――本人は司書と言い張っている――と古馴染みであることぐらいだ。じいさんというのは単に、この鴉と名乗る男が、そこそこの頻度で爺臭いことを言うから揶揄い混じりにそう呼んでいるだけだが、別に本当に爺さんであってもなんらおかしくないとは思っている。

 同様のことを自身の同居人も言うだろうが、本人がその場にいないので意思確認はできないのであった。


「きみは何を借りるつもりなんだ?」

「民俗学について少し……それと、そろそろ地方の神話にも手をつけたいところだな」

「相変わらず勉強熱心だなあ……少し前に本を出したばかりだろう?」


 鴉の呆れとも感心ともつかぬ声に邦秋は肩を竦めた。幸いなことに、少なくとも食っていけるだけの収入が得られるほどの評価はしてもらえているのが、彼の書く本だ。


「上桐が異国の歴史書が欲しいと言っていた。入荷してないか?」

「調べておこう」


 そう承諾して、鴉は不思議そうな顔をした。


「……ところで、上桐永弘(ながひろ)も、なんだってまた異国の歴史書なんて?」

「憲法について、参考にされた国の視点から突いてみたいそうだ」

「さすが随筆家……また発禁処分にされても文句は言えない代物が完成するんじゃないか?」

「俺もそう思う」


 真面目な顔で頷く邦秋に、やれやれと鴉は首を横に振る。思ったとしても、だからと言って同居人の所業を止める気すらないのが邦秋であり、また彼らに苦言を呈すくらいはするが、それ以外に特に介入もしないのが鴉である。彼らの周囲の人間たちは概ねそんな感じだ。


「そういえば、」


 鴉の視線が、貸本屋の戸口からふいと外へと向いた。


「聞いたかい?」

「何を」

「鬼火が出るんだそうだ」

「……はァ?」

「そんな目で見るなよ、元の話は俺が言ったんじゃない」


 いかにも怪訝そうな、素っ頓狂な声を上げた邦秋に鴉は両手を広げてみせる。


「すぐ南の方に港があるだろう、あそこに鬼火が出るんだそうだ。……興味はあるかい?」

「何を」


 邦秋は溜息を吐き出した。


「どうせ煙管の火を見間違えたか何かだろうよ」

「まあそうだろうがな……なんだ、つまらない」


 鴉は唇を尖らせた。


「夢がない、小説家とは思えん」

「そんなものなくても構わん。それより本を貸してくれ」

「了解しましたっと」


 世間話くらいしたかったんだがなあ。ぼやきながらも踵を返した鴉に続くように、貸本屋に足を踏み入れた邦秋は、一度だけちらりと後ろを振り返った。


「……」


 何もない虚空を見つめて、目を細め、そして彼は店内に姿を消した。

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