非日常への第一歩
「やばい、遅くなった…」
祖母が以前話していた来島さん宅で収穫を手伝いするのが今日だった。
来島さん宅は2つ離れた市にあり、両親がいない時の移動手段は電車を利用している。
幸いにも来島さん宅がある市は事件が起きていない。
しかし、今回は事件がまだ解決していないので早めに帰る予定だったのだが、来島さんの奥さんが俺の分の夕ご飯を用意してくれていたのでそのままご相伴にあずかることにした。
せっかく作ってくれたのに「今日は…ちょっと…」と言ったときは奥さんがすごく悲しい顔していたので流石に断る勇気を俺は持ち合わせていない。
「それにしても、今日は貰いすぎたな」
今日は頑張ってくれたからと来島さんが大量に野菜を持たせてくれた。
祖母に借りたエコバックがパンパンに入っている状態である。
うちの両親が帰ってくることも知っていたので2人にも是非食べて欲しいといつもより多めに持たせてくれたのだ。
最近、野菜が高騰しているので労働と引き換えとはいえタダで頂けるのは非常にありがたい。
「とにかく早く帰ろう」
電車を降り、最寄駅から自宅へ向かって歩く。
事件が解決していない為なのか、電車に乗ってる人は数人ぐらいしかいない。
住宅街なので家には灯りが付いているのはわかるが、自宅方面へ向かっている人間が誰一人いない状態だ。
あまり一人では居たくないので、早歩きで自宅に向かう。
「──────っ」
「───ん───ちゅっ」
「……?」
うつむき気味で早歩きで歩いていると、どこからか声が聞こえてきた。
その声の方に顔を向けると、一本の電柱の下で若い男女が抱き合いキスをしていた。
こちらからだと男の顔が少しだけ見え、女の背中だけが見えている状態だ。
(ただのカップルかよ、紛らわしい。てか、やるなら家でやれ!バカップルに今の状況などわかるはずもないよな)
と呆れた表情でため息をつき、その場を離れようとした。
ドサッ…!!
顔を逸らした瞬間、バカップルがいた方向から大きな物音が聞こえてきた。
その方向に目を見やると、先程までキスをしていた男性が至るとこから血を流して倒れ、俺に背中を向けていた女がこちらの方へ顔を向け……
「こんばんは。熱い抱擁見られてしまいましたね、はずかしいわ」
うっとりした表情でこちらを見つめてくる。
見つめてくる女は口周りを血で染め、右手には大きな鎌みたいなのと左手には参考書でしか見たことがなかった心臓が握られていた。
先程まで何も感じなかったはずなのに、急に鳥肌がたった。
鳥肌が立つと同時に、冷や汗が出てきて心臓がバクバクいっている。
今の状況が頭では理解できていないが、本能的にこの女はやばい人間であると警告を鳴らしている。
「先程キスしていた相手ですが、私一人でここの道を歩いていたら声をかけられたんです」
「……………っ……」
女が急にこちらへ声をかけてきた。
何か答えようにも言葉がうまく出てこない。
この場から一刻も早く逃げ出したいが、足が思うように動かない。
「あの方酔っていましたが、まぁ声をかけられて少し嬉しかったんですよ。人に声かけられることなんかないのに……」
ギィィ…ギィィ…と不気味な音を周囲に響かせながら女は大きな鎌を引きずり、俺のいる方向へゆっくりと歩いてくる。
血を纏っているので臭いがだんだんきつくなり、咄嗟に自分の右手を口に塞ぐ。
「だから思わず嬉しくなったのでキスをして、心臓いただいたのです」
女は俺の目の前に立ち、ニヤリと笑った。
ぞわぞわと鳥肌が再び立つ。
気持ち悪い、この女から離れたい、そう思っても金縛りにあったかのように未だに俺の身体が動こうとしない。
「な、んで…心臓………」
無意識のうちにその言葉を口にしていたが、恐怖心のあまり声は掠れて思うように発することができていない。
それでも口にしたのは女から自分に向けられている目を少しでも逸らしたかった。
「あぁ…これですか?何に使うかは教えられませんが、このままにしておくと腐ってしまいますね。保管庫にしまっておきます」
そう言って女は少し手首をぐいっとあげると手元にあった心臓が急に目の前から消えた。
(え…?)
流石に今起きたことが理解ができなかった。
目の前に持ってるものが消えたが、これは手品か何かなのだろうか?
そもそも物が消えるとかそんな事が普通起きるわけがない。
この女は一体今ここで何をした?
「あらあら、私ったらうっかりしていました。こちら側の人間に魔法を見せてはいけない法律でしたわね。でも、もう7人も心臓を抜いてしまったので今更法律違反の事言っても仕方がないのですが」
女がそう言った途端、聞きなれない単語に反応して一瞬顔を上げてしまった。
そして…
「貴方で8人目です」
先程まで心臓を持っていた手を俺の左頬へ添え、うっとりとした顔で俺を見つめてきた。
「あら、貴方の顔何処かで…」
「……っ!!」
「あっ…」
手に持っていた荷物を地面に落とし、頬に添えられていた女の手を振り払った。
恐怖心のあまり動かなかった足を無理やり動かしてこの場から離れるために全力で逃げる。
後方から女が何かを叫んでいたが、そんなのに気を取られている場合ではない。
持てる力を振り絞って全力で逃げることだけを考えないと確実に殺される。
こんな訳がわからない状態で殺されていいはずがない。
この場を全力で逃げる、それだけを考えて身体を動かす。
『ドコニニゲルノ?』
『オイカケッコカモネ』
『ジャア、ボクタチガオニダ』
全力で走っていたら子供のような声が周りから聴こえてきた。
女の姿が見えないぐらい距離を離したので女以外は誰もいないはず。
走りながら後ろを振り向いたが、やはり誰もいなかった。
「はぁっ…はぁっ……不気味すぎるんだよっ…いや、そんな事より大通りに……はぁっ……逃げて警察に……駆け込もう……」
不気味な声に反応している場合ではない。
間違いなくこの女が世間を騒がせている殺人犯なのだ。
祖母の指導のおかげで人並み以上は強いとは自覚しているが、実戦と練習とは訳が違う。
あの女にいくら剣で挑んでも返り討ちに合うに決まっている。
俺一人で事態をどうにかできないなら今は藁にでもすがる思いで警察に駆け込もう。
それに警察だって馬鹿じゃないんだ、殺人犯に対する何かしらの対応策ぐらいは考えているはずだ。
「はぁっ…はぁっ…」
見慣れている土地なので迷う事なく近道を利用して全力で走る。
細い路地を走っている為、腕には壁で擦ってしまった擦り傷が出来てしまった。
手当は後で充分にやるとにかく走るそれだけを考え、そして、見慣れた大通りに出て安堵したのも束の間……
「な、んだよこれ………」
大通りは車は一台も通っておらず、大きなビルが何個も聳え立っているが、街灯を含め明かりは一つも付いていない。
大通りに出てすぐ見えるはずの交番ですら明かりがついていないのだ。
「っ……!」
節電の為に電気を消しておるかもしれない…そう思い交番へ向かって走るが、誰もいなかった。
「はぁっ……すみません!誰かいませんか!!!!」
奥にいるのではないかと思い掠れる声で何度も叫んでみたが、誰か居る気配がなかった。
「何が、どうなって……」
いくら考えてもわからない。
走ったから心臓が余計にバクバクいっている上に息苦しい。
誰もいない状況が理解できなくて冷や汗がとめどなく流れてきた。
ギィィ…ギィィ…
「っ……!」
さっきまで聞こえていなかったあの嫌な音がここへきて大きく聞こえてくる。
交番からに向けていた顔をゆっくり音の聞こえる方へ向ける。
「貴方も足が速いのですね」
女は大通りの中央へ立ち、ドス黒い何かを纏わせこちらを見つめていた。
数百メートル離れていたはずの女は右足を軸にして地面を大きく蹴る。
一度も地面に足をつけないまま猛スピードでこちらへ向かってきた。
そして空中でぐるっと身体を回転させ右膝で俺の腹部に向かって蹴り上げる。
ドンッ!
女に猛スピードで蹴られて俺は壁みたいなものに激突し、背中をおもいっきり反り返りその反動で血を吐いた。
「ガハッ……」
壁の中央付近に叩きつけられそのままずるずると地面に向かって滑り落ちる。
蹴られた瞬間、咄嗟に頭を守る態勢に入ったが、手首や足が壁みたいなものに激突してしまった為に全身が痺れて動かない。
(いってぇ……痺れて動かないけど、頭打ってないから良かった。しかし、人間業じゃねぇ、あの女何なんだよ…)
格闘マニアの祖母に色々技を仕込まれたとはいえ、あんな人間離れした動きは見たことがない。
逃げるにも猛スピードで追って来られる。
躱そうにも人間離れした動きで攻撃される。
頭をフル回転させて考えても、この女から逃げられる術が見当たらない。
「実は貴方の他にも逃げた方いらっしゃるのですが、なかなかに足が速い方でしたの」
いつのまにか女は目の前に立ちそう呟いた。
身体が痺れて顔は今以上に上げれず、瞼は半分しか開かないのでどんな顔をしているかはわからない。
そして、女は続けて言葉を発する。
「じわじわ追い詰めるのも楽しんですが、速く済ませないと後処理が面倒になってしまうのでこうやって壁沿いに追い詰めて心臓を抜きました」
「何が…言いたいんだ……」
思っていた事をつい言葉に出してしまった。
女は勘に触ったのか、大きな鎌の先端を俺の喉元へ突きつけてきた。
ギリギリの距離で当てているみたいなので喉をごくりとしただけで、皮膚から血がスーッと垂れていくのがわかる。
会話を試みようとするだけで喉が鎌の先端から引き裂かれるので今は黙って女の話を聞くしかない。
女に命を狙われていると分かった途端、心拍数は通常より倍ぐらい跳ね上がった感覚に襲われ、胸がいつもより熱くなってきた。
「そうやって黙っていてくれる方が私好みです。あまり時間をかけてると貴方を捕まえる為に仲間に頂いた結界魔石の効果が解けてしまい、面倒な人達がやってきてしまうので……」
ドクンッ……
女はそう言って俺の喉に当てていた鎌を両手で強く握りしめ、女の頭上へ向けて持ち上げ刃を心臓のある場所へ狙いを定める。
定められている間にも胸の高鳴りが止む事なく、どんどん熱くなっていくのがわかる。
ドクンッ…
「貴方の顔を何処かで見た記憶があるのだけれど、思い出せないわ。でも、私には心臓が必要なので……貴方の分いただくわ」
女は冷たい表情のままそう言って鎌をふり落す。
ドクンッ…
(何だよこれ、呆気なさすぎだろ。俺の人生まだ半分も終わってないのにさ…)
心拍数が今まで以上に跳ね上がった気がしたと同時に、今まで動かなかったはずの俺の体から金の粒子が漏れ始めた。
(なんだよ、これ…!それに身体が熱い……)
女に殺されかけているよりも金の粒子の方へ目をやっていたが、止まる気配がない。
それと同時に胸の熱さが今まで以上だ。
こちらに目を向けている場合ではないと女の方へ急いで顔を向けたが、何故か女の鎌は俺の頭上でピタリと停止していた。
「っ………止まった…?」
女が同じ姿勢で固まったまま、ピクリとも動こうとしない。
女が停止している間も胸の熱さが収まらず、汗が滝のように溢れ、呼吸も乱れる。
「はぁ…い、今のうちに……」
身体中の体温が上がってきて頭の思考が全然回らなくなる前にこの場から離れる。
なかなか身体が動かしづらいので鎌をふり落す位置から右にずらすのが精一杯だった。
そして俺の立ち位置をずらした瞬間、ゆっくりと女が動き出し…。
ガキィーーーン
女は地面をおもいっきり叩きつけていた。
そして何も言わず地面をずっと見続ける。
「……………はぃ?」
俺が到達地点にいないことに意味がわからなくなったのか、女が目を大きく開く。
そして、右にずれていた俺に首だけを向け凝視してくる。
「あらあらあらあらあら?なぜ貴方はそこにいるのです?私狙ってましたよね??どうして?どうして??あの、一瞬で移動したのですか????」
「……っ…!」
前屈みになっていた女は一度身体を起こし、血がべっとりついてる左手で自分の頬に手を添えて首を傾げた状態でそう問いかけてくる。
正直な所、自分でも何が起きてるかが重要わからない上に熱が一向に冷めないので言葉を発することもできない状態だ。
「貴方…、何者なんです」
女がそう言った瞬間、上空から何かが移動する音が聴こえてきた。
空軍が所有するジェット機並みの速度で何かがこちらに向かってることはわかる。
『ーーーー対象、捕捉。攻撃態勢に入ります』
「……いっ……」
そして、移動音とは別に人の声が俺の頭にダイレクトに入ってきた。
熱にうなされている俺の頭に響いてかなり痛い。
移動音が段々俺と女の方に向かって近づき……。
ドォンンンンン
女の方へ向かって何かが突っ込んできた。
「……!?」
気づけば飛行物体が数百メートル離れた先に女だけが吹き飛ばされ、何かが目の前に現れる。
何かが一瞬でわからなかったが、段々目が慣れてきて人影が見えてくる。
暗闇のせいで人影が認識できなかったが、雲に隠れていた月が人影を照らす。
「お待たせしてすみません。魔法警察刑事局犯罪取締課 巡査 コルネ・ディソナンツ、救援に参りました。」
月明かりに照らされたた人物は銀色の髪をなびかせ、金色の瞳で俺を捉え、そう告げた。