稲垣先輩
マネージャー業に就いてから、早一ヶ月が過ぎた。
今じゃ、六時限目が終わって掃除を終えるとすぐさま部活だ。わたしは一週間ほど前に買ってもらった有名スポーツメーカーのTシャツを着て、体育館へ向かう。
すると、体育館へ向かう途中の廊下で、身を寄せ合って話をしている女子の先輩達が見えた。どうやら女子バレー部の人達らしく、いつもの練習の掛け声の名残なのか、少しだけ大きいヒソヒソ話が聞こえてくる。
「稲垣ってさ、マジ、男子目当てで最バスマネやってるよね」
「だよね~。自分がちょっとモテるからって、調子乗り過ぎ」
「そうそれ、マジ分かる。何かさ、周りに良い顔ばっか振りまいて、ウケ狙ってるでしょ」
「それな~」
……うっ。
私はチラッと、ショートカットの先輩を見つめる。バレー部は出来るだけショートに揃えているらしく、後ろから見たら誰が誰だか分からないが、今はそんなことを気にしている場合じゃなかった。
稲垣……って、ひょっとしなくても、稲垣優実先輩のことだよね?
稲垣先輩、とっても良い人なのに。あの人達、どうして稲垣先輩の悪口を言うんだろう?
……あれ? ってことはそろそろ、私に悪口の刃が刺さってくるんじゃない?
……そ、それだけは勘弁願いたい。
私はいそいそと体育館へ向かう。こんなところでぐずぐずしている場合じゃない。ここでショックなんか受けてたら、マネージャー業に支障が出てしまう。
私は聞こえてないフリをして、廊下を早足で歩いていった。
「こんにちは、真理ちゃん」
「こんにちは、白瀬先輩」
私が早速体育館に向かうと、白瀬先輩が挨拶をしてくれた。
今日も白瀬先輩は、可愛くて明るい。何でこんなに可愛いんだろう。見習いたい。
「白瀬先輩、今日は何をするんですか?」
「今日もいつも通りだね。水筒の補給とか、終わった後の体育館の清掃とかかな」
白瀬先輩は顎に人差し指を当てて、首を捻っている。彼女を見ていると、何だかほっこりしてくるので、私の好きな人の彼女でも、憎めない存在なのだ。
「あ、優来た! 優~」
蒼葉先輩が来ると、真っ先に白瀬先輩は蒼葉先輩の元へ駆け寄る。そのまま蒼葉先輩にギュッと抱きついて、青葉先輩が「ぐぇっ」と叫ぶ。
「ちょっと響! 重いよー」
「えぇ! 私、そんなにデブ?」
「うるさいー。そういうわけじゃないからー」
蒼葉先輩は耳を塞いでいる。でも確かに、白瀬先輩は全然太ってなんかいない。
「もうそろそろ来るから、今のうちに天井のゴール下ろしとこう?」
「は、はい」
後ろから急に話しかけられたので振り向くと、そこには稲垣先輩がいた。
さっき、陰口を言われていた稲垣先輩だ。
……こんなに優しくて明るくて美人なのに、何で陰口を言われなくちゃいけないんだろう。
体育館の舞台裏に回って、稲垣先輩と二人でハンドルを回す。するとぐぉんぐぉんという音がして、体育館に設置された、天井についているバスケゴールが下りてきた。
「いよっし。これで大丈夫」
稲垣先輩が満足げに舞台裏から出ていく。私もそれを追って、舞台裏から出る。
するともう既に部員達が全員集合していて、「サンキュー」とお礼を言ってくれた。
「これ下ろしてくれたの、誰?」
黒瀬先輩の嬉しそうな声がする。
私はおそるおそる、「はい……」と小さな返事をした。
その声は聞こえていなかったのか、黒瀬先輩は「サンキュ、マネージャー」と返事をしてくれることはなかった。
「私が下ろしました、黒瀬先輩」
そう言ってスッと手を上げたのは、稲垣先輩だった。
「おぅ、そうか、サンキュー。マネージャー」
黒瀬先輩を筆頭に、次々と稲垣先輩にお礼を言う最バスの先輩達。
睦月先輩とか、宇島先輩とか、真優ちゃんの兄の、古田華先輩も、次々と稲垣先輩にお礼を言いに行く。
……私だって苦労したのに、何で稲垣先輩だけが褒められるのだろう。何かしてくれた人に必ずお礼を言うのは最バスの良いところだけどさ。
何だか、みじめっていうか。そんな感じがする。
隣には、照れている稲垣先輩。よく見ると、その視線の先には。
古田華先輩。
私の頭の中に、一つの考えが浮かぶ。
……もしかして、稲垣先輩、古田華先輩が好きなんじゃ?
……なぁんだ。古田華先輩に、褒めてもらいたくて、一人でやりましたって言っちゃったんだね。
うんうん、そういう気持ち、すごく分かる。ただ私の場合、好きな人はもう既に彼女持ちだから、アピールすることもないんだけどね。
しょうがない。今日は黙っておこう。
◆◇
やっとマネージャーの仕事が終わった。これからお風呂に入って宿題もしなきゃなんないだなんて、世の中酷過ぎる。
「真理ちゃん」
後ろから稲垣先輩の声がした。
「さっきはごめんね。つい、出しゃばっちゃって」
そう言われた瞬間、私の思考はストップした。
さっき……? ……あぁ、私と二人でやったことを、一人でやっちゃったと言ったことか。
「私もやったのに……って、気にしてたでしょ?」
「いえいえ。全然」
むしろ忘れてました。ってか、私はそんなにアピールはしたくないですから。最バス男子からモテようとしたってこんなに綺麗な人がそばにいるんですから、無理だし。
「ごめんね。本当に、ごめん」
「気にしてなんていませんよ。それよりも稲垣先輩、大丈夫ですか? すっごい疲れてますけど」
さっきから気になっていたが、彼女ははぁはぁと息を荒らげて、リュックサックを二つ背負っている。友達のか何かをきっと持っているんだろうが、だとしてもマネージャー業ですっかり疲れているはずなのに友達も自分のリュックを持たせるなんて、酷だ。
「それよりも、リュック、大丈夫ですか? 一つ、持ちましょうか?」
「いいのよ。私、真理ちゃんに酷いことしちゃったもん。一つ持たせるなんて、それこそ最低な先輩に鳴り下がっちゃうよ」
稲垣先輩は苦笑いしながら、「じゃあね」と言って、夜道を歩いていった。
私は、気付くはずもなかったんだ。
稲垣先輩の背負っていたリュックサックが、友達の物じゃなかったことなんて。