【915:あ】アガサとメアリ
アガサとポアロの時間軸の続きです。
※官能的表現含みます。
久しぶりの休日。私は大型ショッピングモールへと訪れていた。日曜日という事もあり、暇を持て余した子供連れの家族を多く見かけた。おもちゃ売り場やペットショップ、ゲームセンターが賑わっているのを遠巻きに、電気屋へ向かった。長年愛用していたドライヤーがとうとう寿命を迎え、遂に動かなくなったのだ。序でに仕事で使用するUSBメモリも調達する。特別ドライヤーに拘りは無いが、ネットで古い型を購入してしまうよりは店頭にあるものを買った方がいい物だろう。髪質が恐らく人より硬く乾き難いので、自然乾燥だと時間がかかる。長時間濡れた状態だと頭皮の雑菌が繁殖してしまう。頭が臭い奴は、だいたいマラセチアという菌が増殖してしまっているのだ。考えただけで恐ろしい。
そう思って、売り場で有名なメーカーのものなら間違いないだろうと、高くも安くもない、中価格帯のものを選んだ。会計を済ませ、店を出ようとする。その時、聞いたことのある声が聞こえた気がしてなんとなく辺りを見渡した。
「あ〜、図書くんだ。やっほー」
グレーのニット素材のワンピース。土ぼこりなどでやや薄汚れたフラットシューズ。長い猫毛の髪をポニーテールに纏めている──丸井芽愛里だ。彼女は、新品のオーブントースターを重そうに抱えていた。
「……こんにちは、今日はお買い物ですか」
何を当たり前の事を。しかし、驚きが勝ってしまい言葉が思い付かなかった。
「そうなの。うちのトースター、とうとう壊れちゃって」
オーブントースターも、ドライヤーも、そうそう壊れる物ではない。こんな些細な事に運命を感じてしまう自分が、我ながら気持ち悪かった。いつまで邪な感情を引きずっているんだ。挨拶だけして早く帰ろう。
「そうなんですね。ではまた「しっかし奇遇だよね!ちょうど良かった、これ、思った以上に重くてさ」
……言葉を被せてくる。そして、トースターをこちらに渡してくる。何故。
「この後夕飯の食材も買おうと思ってたのにさぁ。この程度のものは配達やってないっていうんだよ。ケチだよね」
「そうなんですか……」
本当にそこそこ重い。これを持って移動するのは女性には一苦労だろう。
「てかなんで敬語?私がポアくんの保護者とか、気にしなくていいから!昔みたいにしてよ。そんで、ちょっと付き合って」
「あ、はい……え?」
早く会話を終わらせようと首を縦に振っていたら、何故か彼女に付き合わされる事になってしまっていた。しかし、困っているのを放置して立ち去るのは気が進まない。しぶしぶ、芽愛里の買い物に付き合う事にした。
──食料品売り場へ移動して、カートを押して歩く。人が多く触れる物なので、持参した手袋を装着してから持ち手に触れる。芽愛里は不思議そうに首を傾げたが、特に突っ込まれる事は無かった。
「今日は何食べようかな〜。図書くんは何がいいと思う?あ、野菜がちょっと安いのか。でもポアくん野菜好きじゃないからな〜。ん〜、やっぱカレーかな。カレーなら喜んで食べてるし」
何も言っていないのに勝手に本日のメニューが決まった。息子の事を考えながら料理を考える姿を見ていると、やはり彼女は母親なのだと思った。そしてその横顔に、何か勘違いしてしまいそうな不安に襲われた。高く結わえた髪のうなじと首筋。私は慌てて視線を逸らして、商品棚に目を落とした。
「カレールウ、ありましたよ」
「あ、そうそう。これ。中辛でいいかな」
はい、とカゴの中にルウを入れる。にんじん、じゃがいも、玉ねぎ、豚肉、カレールウ。それから足りないらしい調味料や、カップ麺、他の物も放り込み、おまけにトイレットペーパーも必要だと言って私に持たせた。
「……あの、これ本当に持って帰れるんですか?」
買い物袋が二つ分の食材に、トイレットペーパー。そして先程のオーブントースターまである。車まで運ぶくらいなら手伝ってもいいが。
「?図書くんが居るから大丈夫でしょ」
──まさかとは思ったが。話を聞いていると、移動手段は自転車。ママチャリらしい。計画性が無さ過ぎる。
「トースターをチャリに乗っけて、食べ物とトイレットペーパーを手で持って二人で歩けば余裕っしょ」
「い、家まで徒歩で運べと……」
「そっ。歩くとだいたい三十分くらいかな?いけるいける」
こ、厚顔な女だ……。否、昔からこういう人だった気がする。
「……いや、私は車で来ているので、送りますよ……。軽車なので、自転車は後日自分で取りに来てください」
こうなったら乗り掛かった船だ。私がそう返すと、ラッキー!などと言い出した。成程丸井の母である。
極めて事務的に会計を済ませて、店を出て、荷物を後部座席に積んで、芽愛里を助手席に座らせる。車を発進させた所でどっと疲労に襲われた。私は何をやっているんだ。
***
芽愛里の道案内で自宅のアパートへ向かう。駐車場は停めて構わないという事なので家の前に駐車し、三階の301号室へ運び込む。エレベーターが無く階段のみなので、重い荷物を抱えた状態だとなかなか厳しい道のりだ。
「……も、もっと、ハァ、計画して、かっ買い物しろよ……ハァ」
「いや〜ごめんごめん。でも助かったよ。ありがとっ」
魔性である。「ありがとっ」と笑顔と共に言われた瞬間、「あ、全部許した」になってしまう自分が憎い。例え荷物を全て待たされて、彼女が手ぶらだとしても許せてしまった。トイレットペーパーくらい持てと思っていた事など記憶から削除されてしまうくらいには。
「折角だから休んでいって。ちょっと待ってね。今鍵開けるから。……あったあった」
使い倒した古い鞄をガチャガチャと漁って鍵を取り出す。人の家に上がる事に躊躇いがなくはないが、今は少し落ち着きたい。完全に体力不足である。
「汚い所だけど、どうぞ」
「お、お構いなく。お邪魔しま……」
──開かれた扉の先を見て、絶句。ギチギチに詰まった買い物袋を落としそうになる。否、片方落とした。サーっと血の気が引いていく。
「どうしたの?」
「お、おま……ングッ、信じられない……」
私の様子に首を傾げる芽愛里。ぎぎぎ、と音が出そうな動作で彼女の無垢な顔を見た。
「…………お前の家はゴミ捨て場か?」
散乱した靴。まぁそれは良い。何故飲み終わったペットボトルや缶が玄関に転がっている?その先にもゴミの日に捨てるのを忘れたのか、ゴミの日を知らないのか、ゴミ袋が通り道の脇に放置されまくっており、そのさらに先にあるダイニングテーブルにも、大量の食品のトレイやらコップやらが山盛りに積み上げられていた。
「え、急に酷くない?あ、この辺踏んで大丈夫だから」
そう言って彼女は荷物を受け取って、ゴミ貯めの部屋の中に入っていった。部屋の隅に置ききれていない、ゴミの雪崩が起きている場所をぎゅむっと踏んで台所へ向かっていく。私は、靴を脱ぐ事も忘れるくらい動揺して恐る恐る土足で入った。というか、脱ぎたくない。
台所はいつから洗っていないのだろう……流し台に大量のお皿やフライパンが置いてある。生ゴミの臭いもする。要冷蔵だろう、調味料がいつからあるのか外に出されていて埃も被っていた。恐らく期限が切れている。虫が湧いている箇所もある。まさかと思って勝手に他の部屋の扉を開け放つ。……ゴミが邪魔で半分しか開かない。黄ばんだ布団。何故寝室に靴があるんだ。しかも、片方だけ。洗ってない皿がここにもある。意味が分からない。
「適当に座ってて。今お茶入れるから」
買った物をゴミの上にどちゃっと置いて、埃が被った茶筒を手にした。一瞬にして喉の渇きが減退した。
「……………ふ」
「ふ?」
可愛く首を傾げても駄目だ。
「ふ、巫山戯るな!!む、無理だ、なんだこの惨状は!?学校の便所で暮らす方がまだマシだ!!」
全身にさぶいぼが出てきた。あり得な過ぎて、ポカンとする芽愛里を尻目に私は家を飛び出した。そして車に乗り込み最寄りのドラッグストア、ホームセンターなどを全力で梯子した。
「あ、戻ってきた」
彼女の元へ戻ると、彼女は悠長にお茶を飲んでいた。
「掃除だ」
「え?」
「掃除をしろ!!!!」
完全武装。一度家にも帰宅して、防護服も着てきた。掃除道具も各種揃えた。1秒だって此処の空気は吸いたくない。
彼女の同意も聞かずに、まずは放置されているゴミを回収する。
「あっ、ちょっと待って!それはいるやつ!」
「ハァ!?」
空になったペットボトルをゴミ袋に入れようとしたのを静止させられる。
「去年飲んで美味しかったやつ。今年も飲みたいから、パッケージ覚えておきたくて」
「捨てろ!!!!」
「ああ〜!?」
問答無用。買い物中少しでも家庭的な女だと思った事を呪う。駄目だ、許せない。私が浄化してやらねば、彼女はゴミと雑菌に塗れて死ぬ。息子共々、死に至る。
未だかつてない危機感と使命感に、我を忘れて──ゴミ屋敷の掃除に勤しんだ。
***
日が落ちて、時刻が変わってしまった頃。まだ完全ではないが、玄関と台所、テーブル周りだけは見れるようにはなった。寝室や脱衣所はまだ手付かずだ。末恐ろしい。
お腹が空いたと芽愛里がゴネるので、台所の掃除を優先した。調理道具も清潔かどうか怪しいので、新品のものを使わせた。
「図書くんもお腹空いたでしょ。食べてって」
作っている所を見ていたので、汚物が混入している事は無いだろう。生ゴミの臭いはもう無く、カレーの食欲を誘う香りが部屋に充満する。私は素直に頷いて、彼女の向かい側に座った。
「……いただきます」
味は市販のカレールウを入れただけなので不味くはない。不揃いに切られた野菜が、料理が得意でない事を物語っていた。火はしっかり通っているので、特に気にはならない。
「美味しい?」
「……ああ」
「良かったぁ」
にへ、と笑った笑顔が眩しかった。芽愛里は私が食べるのを嬉しそうに見ていた。
「そういえば、丸井……あいつは?」
「たぶんポアくんは女の子の所じゃないかな。朝には帰ってくると思う。カレー、おかわりしてって言いたい所だけど、ポアくんの分置いておかなきゃだから勘弁ね」
「……随分放任なんだな」
「もう高校生だもん。いつもちゃんと帰っては来るし、暫く家を空ける時は連絡来るし。親が構い過ぎるのもウザいでしょ」
それで良いのか。高校生が朝帰りというのは、教師としては指導したい所なのだが。そういえば、いつの間にか敬語が外れてしまっている事に気が付いた。彼女が気にしないなら、まぁいいか。
「暫く帰って来ない事もあるのか」
「大抵お父さん……えと、ポアくんのおじいちゃんの古本屋の所に居るみたいだよ。あの子、本が好きでしょ。お店の二階に自分の部屋作ってんの。うちはほら、アパートで狭いし。こんなんだし」
「成る程な……」
片付けた時、彼の荷物がほぼ無い事が気になっていた。そういう事か。
「でも、図書くんがお片付けしてくれたから、もっと帰ってくるようになるかも。ありがとね」
「いや……私が許せなかっただけだからな。もう散らかすなよ」
「はいはーい」
「返事だけは良いんだな」
ふっと二人して笑ってしまった。
「明日はリビングの残りの箇所と、寝室の掃除をするからな。見られたくないものだけは片付けておけよ」
「明日?」
芽愛里は目を丸くしている。ここまで来たら、全部綺麗にしないと気が済まない。
「そうだ。仕事帰りになるから、あまり長くは出来ないが。暫く通わせてもらう」
「えっ、いいよそんなの」
「駄目だ」
絶対に譲らないという意志が伝わったのか、彼女はうんと頷いた。
「じゃあお礼にご飯作るね。お腹空かせてきてよ」
「生ゴミは食わないからな」
「ひど!」
──それから私は、丸井家に通う事になった。彼女に対する気持ちがどうというのは無しにしても、あの惨状を放置する事は出来ない。人間が暮らしていて良い場所ではないのだ。
次の日、『今から行く』と先日交換したメールアドレスに連絡を入れ、家に訪れた。丸井にも伝えておくべきかと思ったが、他の生徒が居る前で言う事ではない。朝帰りの件もどう指導するべきか考え中だ。この手の糞餓鬼は頭ごなしに怒った所で聞く耳を持たない。
「図書くんいらっしゃい」
インターホンを押すと、芽愛里がにこやかに出迎えてくれた。今度こそ靴を脱いで家に上がる──と思ったが。
「……………何故一日でこうも汚く出来るんだ…………?」
「えへ、なんででしょう?」
今度は騙されない。えへ、なんて可愛く言っても絶対に許さない。
「お前な……」
「やん、ごめんて〜!!」
ドスを利かせて睨むと、彼女は部屋の奥へ逃げていった。今日も、アメリカンスタイルで靴のまま入室する。
説教をし乍ら、散らかした汚物をゴミ袋に詰め、出したものはあった場所に仕舞うよう本人にも手伝わせた。すると、テーブルの上に積み上げ始めたので、私は懊悩した。
「嘘だろ…………」
「ん?何が?」
「…………先ずは物の住所を決めよう。床やダイニングテーブルは物を置く場所ではない。出したら、必ず決められた場所だけに仕舞うんだ。とりあえずで他の場所に置くのは禁止」
「はーい」
片付けの様子を監督しつつ、少しずつ綺麗にしていく。時々雑談も交えて過ごしていると、時間が経つのは早かった。
「そういえば、今朝ポアくんが帰ってきて吃驚してたよ。家が綺麗になってるって」
「だろうな」
「お母さんもやれば出来るんだぞ!って言っちゃった。……殆ど図書くんがやってくれたんだけど、私も手伝ったし、嘘は言ってないもんね」
……昨日は捨てるな、要る物だと言い張っていたばかりな気がするが。まあ、完全に嘘ではないか。
「じゃあ私が来た事は言っていないのか?」
「いや〜、流石に担任の先生にお家のお掃除してもらいましたって息子には言えないでしょ」
「それは……まぁ」
そういう恥じらいはあるらしい。今日丸井に報告しなかったのは、正解だったようだ。
「この事は内緒にしといてね。ちゃんと綺麗な状態保てる様にするからさ」
「構わないが……だがバレるのは時間の問題だと思うがな。こうしてる今にも、帰ってきたら言い逃れ出来ないだろう」
「あ、それなら暫くおじいちゃんの所に居るって言ってたから大丈夫。なんだか今集中して読みたい本があるんだって」
「そうなのか……」
今日はカレーの残りの材料で作った肉じゃがをご馳走様になった。相変わらず歪な形をしているが、味は悪くなかった。後は白ご飯と味噌汁だけという質素な物だが、今日といい昨日といい、人の手料理は久しぶり食べたので十分満足だった。
日付が変わる前にまた明日と言って自分の家に帰宅する。放課後は、暫く芽愛里と二人きり。ゴミ貯めでは色気もへったくれも無いのだが。まあ、悪くはない。
***
丸井が家にいない日を見計らって、彼女を訪ねるようになって三週間が過ぎた。
もう散らかさないと毎度そう言うのだが、いつも何処かしら物が散乱してしまっている。食べかけのお惣菜が床に置かれている日もあった。汚部屋の住人の性根がそう簡単に治るとは思わないが、片付けをしている身からすればひとたまりもない。
「ごめん」
「あのなぁ……」
今日は何故か毛布が牛乳浸たしになって、台所のど真ん中に鎮座していた。空になった牛乳パックは洗面台の歯磨き粉の隣に置いてあった。何故そうなる。
「昨晩牛乳飲もうと思ったら溢しちゃってさ。タオルは洗濯中で、ティッシュも切らしちゃってたから、とりあえずこれで」
「とりあえずで毛布で床を拭くのか……?」
「で、まだ半分くらい残ってたんだけど、期限が切れてる事に気がついて、洗面所で捨てたの。台所の流しはほら、洗い物に牛乳がかかっちゃうし」
……洗っていない茶碗や鍋が増えている。頭がくらくらしてきた。
「私が教えた事、忘れた訳じゃないんだよな?忘れているのなら、若年性認知症を疑うぞ」
「わ、忘れてないよ!使ったらあった場所に戻す。違う場所に置きっぱなしにしない、洗い物はその都度する、でしょ!」
なのにこのザマなのか。苛立ちを覚えつつ大きな溜息を吐く。返事も返さず黙って彼女が散らかしたものを片付け始めると、流石に肩身を狭くして俯いていた。
「…………主婦失格って思ってるでしょ」
「────」
「がっかりした?」
「そうだな」
「………………そっか」
しんと静まり返って居心地が悪い。しかし、何を言っても場の雰囲気が悪くなるだけなので、黙々と作業を進めた。
「分かってるんだ。ポアくんがあんまり家に居着かないのは私の所為。本当に家事が駄目駄目で。でもポアくんはパートの仕事大変でしょって言って、責めたりしない。出来ることだけしてくれたらいいって言ってくれてる。
私、料理も下手だけど、食べてくれるし、一緒にお出かけもしてくれるし。こんなだけど自慢の母親なんだって。本当によく出来た子よね」
「…………料理は、私も美味しいと思う」
背中を向けたまま答えた。
「……ありがと」
背後で彼女も片付けている音がしている。全く片付けが出来ない訳では無いと思うのだが。
「……違うの」
「────」
「………この家が、綺麗になっちゃったら。図書くん、もう来てくれないでしょ」
──息を呑んだ。胸の奥を何者かに握りつぶされているような、そんな感覚に陥る。
「ごめんね」
ゆっくり振り返る。思っていたよりもずっと近くに、芽愛里の姿があった。
それ以上の言葉は何も続かなかった。お互いに示し合わせた訳も無い。吸い寄せられるように。
私達は、唇を合わせた。
──ロマンチックのかけらもない。唐突な出来事であった。私は牛乳浸しの毛布を握りしめていて、彼女は食器洗剤を胸に抱き締めていた。
やってしまった、と気が付いたのはお互いの唇が離れた時だった。
「……何もなくても、会いに来てくれない?」
仄かに上気した表情で、掠れた不安がな声が耳に届く。
分かっている。これは、駄目だ。これ以上泥沼に嵌ってはいけない。彼女は私の教え子の母親なのだ。だが、往年の初恋の相手でもある。しかも、旦那はいない。好都合じゃないか。世間体や体裁は悪くても、法律上は何の不都合も無い。別に、構わないだろう。彼女を欲したって。好きでいたって。息子が許さなくても、芽愛里は望んだ。
「………………、」
答えられずに黙っていると、彼女の方からもう一度此方に触れてきた。首に両腕を回して、抱え込むように私の口内の粘膜に触れてきた。
頭の中が沸騰する。ずっとずっと願い続けてきた事。こんな、不潔な家に住んでいる女だ。拒絶反応が出ても可笑しくないのに、誰よりも純粋で、綺麗で。泥の中に咲く蓮の花の様だ、というと笑われてしまうだろうか。
理性が、溶けていく。
彼女の口付けが深くなる度に、ぷち、ぷち、と張り詰めていた糸が切れていく。それが何処か快感でもあった。恐る恐る舌先を動かすと、逃がさないというように捕らえてくる。
なんで、わたしは、こんなに我慢しなければならなかったのかな。
──時間にして恐らく、一分、二分も無かったのだろう。だがとてつもなく長い時間の様に感じていた。理性よりも先に体が勝手に、芽愛里の体を押した。するとあっさりと彼女が離れて、湿った瞳で私を見上げた。ねっとりとした唾液が二人の間に糸を引いて床に落ちた。
「……………ぁ」
上手く声が出なかった。芽愛里は残念そうに、笑顔を作ろうとしていた。そうじゃ、なくて。
「……お前、私の服、牛乳塗れにするなよ」
それを言うのも違うだろう。私と彼女の服は、牛乳でびしょ濡れの毛布によって白く湿ってしまっていた。
「ごめん」
「…………帰る」
これ以上此処には居られない。こうなった先は、どうなるか分かり過ぎてしまう。確かに浴室も清潔になってはいるけれど。使う訳にはいかなかった。立ち上がると、縋るように私の服の袖を掴んできた。
「…………また、来る。それで、良いんだろ」
顔は見ないようにした。耐えられなくなってしまうから。芽愛里は恐らく頷いて、袖を離した。
「待ってる」
見送りは無かった。それで良かった。自分の車に戻っても、すぐには出発出来なかった。頭の中が落ち着かない。灰色の脳細胞は、全て死滅した。
芽愛里が好きだ。欲してしまう。私が側に居てやらないと、生きては行けぬ女だ。そう、思った。そんな馬鹿な話があるか、と頭の片隅で嘲笑う自分も居る。でも、りくつじゃない。恋とか愛とかいうやつは、人を馬鹿にする。分かっている。わかっている。
また会いに行くと言った。そして待っていると言われたのだ。つまり、もうそういう事だ。
口の中が、まだ甘やかな香りを放っている気がした。指で唇をなぞると、まだ感触が残っている。サイドミラーに写った自分の表情が満足げに嗤っているように見えて、これがまた可笑しくて、涙が出た。




