【915:あ】アガサとポアロ3
※英語の歌が出てきます。物語の進行上日本語訳のみ掲載しておりますが、原語版と照らし合わせて頂くとより分かりやすいと思います。
甘い夢の続きを観ているようであった。私の腕を引く細い指、手の感触も、金剛石の様に煌めきを放ち乍ら此方を見つめる瞳も、あの頃の全てが鮮明に蘇ってきた。今も尚美しい人。丸井芽愛里。
しかして彼女は既に既婚者だ。その証拠にこんなに大きな息子が居る。出会った頃の時点で結婚を控えていたのだから、最初から私に可能性など無かった。考えたところでどうにもならない。況んや教え子の母親に手を出そうなど有り得ない。綺麗な思い出を詰め込んだ宝箱をそっと閉じて深い深い場所へ仕舞い込むように。ゆっくりと邪な感情だけを溶かして忘れていくしかないのだ。
「阿笠先生なにしてんの?」
「────」
それをするにはかなりの精神力と気合いが必要だ。ほぼ毎日学校で彼女にそっくりな息子と会わなくてはならない。今まで全く気付かなかった事が自分でも信じられないくらいに瓜二つだ。
宿題の採点をしていた右手がビク、と痙攣する。赤色マーカーのマルが、ぐにゃりと歪んだ形になってしまった。
「……見た通りだが」
三者面談があった日から、彼とはなるべく今まで通りを心がけて接している。担任が母親の事が好きだなんて絶対に嫌だろう。
「そんなのあとあと!あのね、先生に勉強教えてもらいにきたんだけど」
殊勝なことだ。放課後にわざわざ職員室を訪ねて質問をしにくるだなんて、ごく一部の生真面目な生徒のみである。勉強嫌いで多くの友人と遊び惚けている丸井が、そんな行動を取るとは珍しい。
だが私はそれを断った。断じて、先の事があったからではない。
「今のお前の現代文と古典の点数で、私が教える事なんて無いだろう。質問なら他の教科の勉強を担当の先生に見てもらえ」
「ええ〜!?じゃあ英語で良いから阿笠先生教えてよ」
「鈴木先生なら隣にいるが」
隣のデスクで同じく採点をしていた英語の鈴木先生がおっ?と顔を上げてこちらを見た。
「ワォ!なんだ丸井〜!そういう事なら俺が「ヤダ!!阿笠先生が良いんだもんっ!!」……ありゃ……」
折角鈴木先生が付き合ってくれそうな雰囲気だったのに、丸井はそれを一刀両断にした。「だもんっ!」じゃない。
「振られちゃったかぁ。俺、丸井と阿笠先生がそんなに仲良しだなんて知らなかったよ」
気さくで人好きする性格の鈴木先生が大袈裟な身振りで肩をすくめていた。人間的には良い人なんだろうし、実際の所生徒達からも人気の教師だ。だが私は少々彼が苦手だ。英語教師という生き物は何故外国人でもないのにオーバーリアクションなのだろう。「ハッハー!」ではない。外国語を極めるとそうなるのだろうか。
「べ、別にそんなんじゃないし」
「仲良くはないですね」
特別贔屓をしていると思われては困る。鈴木先生の言葉への否定が私と丸井の口から同時に出た。
「はあ?」
同意見の筈の丸井が私の顔を見て不機嫌そうに顔を顰めた。
「えっ……?」
困惑の表情を浮かべる鈴木先生。なんなんだこの微妙な空気は。
「なんでだよッ!教師なら教えを乞う生徒を断るなよ!!ほらッ!!」
「はぁ……」
「溜息つくなー!!」
無理矢理腕を引っ張り、顎をしゃくってすぐ側の学習室へ行くように促してくる。仕方がないので、ぽかんとした鈴木先生を置いて、丸井に着いて行ってやる事にした。
「……阿笠先生、最近変」
「…………!?」
学習室に入るなりこれである。
他の生徒が居ないのを幸いに、その理由を問い返す。
「……なにがだ。私はいつも通りだが」
「………授業中俺の事当てる時、何故か一拍置いてから呼ぶし。目が合うとすぐ逸らすでしょ。今までそんな事しなかった」
そんな馬鹿な。
「たまたまだ」
「たまたまぁ?嘘だね。毎週俺の店にも来てたくせに、先週は来なかったじゃん。俺何かした?」
逸らした目を追いかけるように、顔を覗き込んでくる。男の癖に、長い睫毛だ。柔らかそうな唇をへの字にして、突き出してくる。駄目だ。今の私は、本来の状態ではない。"なんか駄目なやつ"なのだ。
逃れようと後ずさると、壁際に追い詰められている事に気がつく。私の顔の横に丸井の手が迫る。
「………壁ドン、なんちて」
「……………」
身長差があるので、それ程至近距離という訳ではない。多分、今笑うところだ。それでそれらしい話を彼にしてやるべき場面だ。
しかし、私の心臓は口から飛び出そうな程跳ねて、それを沈める事で精一杯だった。
丸井は何を思ったのか黙って身を引いた。
「ごめん」
「恐らくお前は大きな勘違いをしている」
座れ、と長机に備え付けられた椅子を指す。丸井は気持ちが悪い程大人しく着席した。
仕方がないので『若い頃お前の母親に叱られた』という話をしてやる事にした。それ以外の余計な感情は教えてやる必要は無い。
「……だから、なんとなく気不味く思っていただけだ。余計な気を使わせたなら謝る」
「そんだけ?」
丸井はきょとんと大きな目を更に見開いて此方を見た。今度は顔を晒さないよう気をつけた。
「……そうだ」
「ふーん。じゃあ俺の事嫌いになった訳じゃないんだね」
「何故そうなる?」
「そっか。かーさん、先生との事は女の秘密とか言って教えてくれなかったんだよね。先生の名誉を守ってたって事か」
丸井は安心したように微笑んだ。なんだ、私に嫌われたと思って拗ねていたのか。彼はごそごそと鞄を漁り出して一枚のチラシを差し出した。
「じゃあさじゃあさ、これ一緒に行こうよー」
可愛い所があるじゃないか、と思ってから、私の思考が不味い方に傾いていると気付いて被りを振った。チラシを受け取って、内容に目を通す。週末に判沢市庁舎広場で古書市があるらしい。
「──古書市か。興味はあるが、一緒に外出というのはちょっとな」
生徒と遊びに出かけるというのはアウトだろう。丸井はえーっと不満を漏らした。
「……だがひょっとしたら、偶然会うかもしれんな。午後から古本を探しに行く予定がある」
予定などない。少し態とらしい口調でそう言ってやると、彼は嬉しそうに口角を上げた。
「やったー!偶然?会うかもね。偶然、一緒に回る事になるかもしんないけどいいよね?」
「それならしょうがないな」
そう答えると、そのチラシはあげるね!と言って荷物を纏めて立ち上がった。帰るらしい。
「おい、英語の勉強は?」
「はあ?俺がそんなのする訳ないじゃん」
最初から自習をする気は微塵も無かったらしい。「せんせーさよーならー」と元気に挨拶をして下校していく。本当に仕方がない奴だ。
しかし、彼女への気持ちを早くどうにかしないといけなくなった。子供に勘付かれるようでは不味い。自分がこうも不器用で未練がましいとは思いもしなかった。
彼等は少し親交を持っただけのいち生徒とその家族に過ぎない。今までもこれからも。
***
その日は雲一つない青空が広がる良い日和となった。私はストライプ模様の紺色のカットシャツに黒のカーディガンを羽織って、細身のパンツに三つ折りの財布を捩じ込んだ。玄関先で靴を履こうとしたが、一旦部屋へ戻り手袋を取りに戻る。古本を触って手がベタつくのを嫌って、持ち歩くようにしているのだ。財布の中に小分けの除菌シートも入れたし、携帯電話も上着の方に入っている。荷物という程のものは無く、身軽で出かける事にした。どうせ帰宅する頃には紙袋が底を抜ける程の大荷物になるだろうから。
古本市の人出はそこそこといったところであった。各所で古本屋・コレクターが出展しており、広場には沢山の本棚やワゴンが並んでいる。混雑でも閑散でもない、過ごし易そうな雰囲気。年齢層は高めで、若者が居たら目立ちそうだ。特に、丸井のような男が居たら遠目にも分かるだろう。そうは思いつつも、視線は人よりも本の背表紙に向いてしまう。集中すると周りの環境の事を忘れてしまうので、余り意味は無いかもしれない。まあ、偶然会えればの話だ。わざわざ探す必要はあるまい。探して、どうする。丸井との談義は楽しいが、距離感を間違えてしまいそうな今の自分が不安だ。私はバイセクシャルではないとは思っているが、あの顔立ちは意識せざるを得ない──そこで、はたと体を硬直させてしまう。本のタイトルや著者名を虱潰しにしていた筈が、考え事に気を取られて目が滑ってしまっていた。どんな本があったのかまるで把握出来ていない事に気付く。
「…………はあ、」
まだ何もしていないのにどっと疲れが押し寄せる。本棚から離れ、飲み物でも買おうかと自販機を探した。
「ポアちんってさ〜、実は文学少年ってやつ狙ってるワケ?ギャップ萌え的な?」
「そういうんじゃないって」
甲高い少女の声と難色を感じる少年の声。少年の方は、この古書市の事を教えてくれた当人。ライトブラウンのジャケットとダークブラウンのワイシャツ。開いたジャケットの隙間からは臙脂のサスペンダーが覗いており、セットアップなのであろうハーフパンツを吊るしていた。黒のソックスにローファー……通学の際には履いているのを見た事が無いが。校内での制服を着崩した姿や古本屋での格好とはまた違う、珍しい姿だ。
少女の方はぴったりとした薄手のニットにタイトのミニスカート。GOCCIだなんてハイブランドのミニバッグを肩から下げていた。全体的にモノトーンだが、メイクは奇抜だ。綺麗目ギャルという言葉が相応しいだろうか。
懐古的な装いの少年と女性誌の表紙のような少女。余りお似合いの二人には見えない。
「あっ、阿笠先生……」
「え?げえ、マジじゃん」
少年──丸井が私の視線に気付いた。隣にいた少女も私を見て露骨に迷惑そうな態度を見せた。彼女の方は……心愛か。制服姿しか知らなかったので、判別するのに少々時間を要した。
佐藤心愛。彼女も私が受け持つクラスの女生徒で、丸井とよくつるんでいる。これまでの挙動からしても、彼に好意を寄せているようであった。迷惑そうな顔をされてもめげずにアプローチをかけるのは賞賛に値する。だがこちらにも被害が及ぶとなると話は別だ。早く切り上げたい。
「偶然だな」
白々しく声をかける。丸井が居心地が悪そうに「そうですね……」などと答える。今初めて敬語を使われたんじゃないか。というか、何故敬語なんだ。
「デート中にセンコーに会うなんて最悪。早くどっか行こうよー」
「デートじゃねぇし!勝手に着いてきただけじゃんか!俺は本買いにきたの!」
「じゃあちゃっちゃと買ってきて」
「そういう趣旨の場じゃねーんだわ!」
古書市は普通の書店とは違い、隅から隅まで確認して既に重版をしなくなった本や入手困難な掘り出し物等を探すのが醍醐味だ。何処に何があるのか分からないのに、ちゃっちゃと買えるわけがない。
「…………邪魔して悪かったな。健全に遊べよ。明日の宿題も忘れないように」
早く切り上げたい。生徒から反発を買いそうな普遍的な台詞を述べて、退散しようとする。すると丸井は私の進行を阻もうと腕を掴んだ。
「はぁ〜!?ふっざけんなよッ!!」
既視感。つい先日もこれと同じ事をしたな。
「デートなのだろう?邪魔者は消える」
心愛がうんうんと頷いている。
「違うったら!俺、此処に用事があって来たワケ。ココちゃんこういうの興味ねーんだろ?」
「そうだけどぉ。だったら近くのカフェで待ってる。待ってるから、終わったらあたしと遊んでよ。ずっと待ってるから!」
「分かった、分かったからさぁ……」
食い気味に畳み掛けられ、肯定させられてしまっている。嫌だとは思いつつも友人を無碍には出来ないらしい。
「っしゃ!じゃあ絶対約束!つーかポアぴに黴臭い本とか似合わな過ぎ。ま、別にいーけど。んじゃね」
………嵐の様な女だ。丸井は大きな溜息を吐いてから、恨みがましそうな目を此方に向けた。
「見捨てようとすんなよ」
「別にお前とは約束はしていない」
「……俺は先生と一緒が良かったんだもん」
随分と小さな声で捨て台詞を言うものだ。……私とが、良かったのか。そうか………、………………。
「先生」
「っ、なんだ」
「本の話出来るの、先生だけなんだよね。じーちゃんはボケてるし、かーちゃんは趣味が偏ってるし。てかあの人殆ど本読まないし。友達は……あんな感じだし?」
なんで休日にまで活字を読まなければならないのかと思っていそうだな、と先の心愛を思い出した。
しかし丸井の母親もあまり本は読まないのか。少し意外だ。金色夜叉やフランケンシュタインの話題を出すものだから、彼の本好きは親譲りなのかと思っていた。そういえば彼をポアと名付ける位ならポアロにすべきというような話もしていたか。
「お前の母親も読書好きなのだと思ったが……」
「かーちゃんが好きなのはお芝居だね」
確かにどちらも舞台演目としてよく演じられる作品だ。
「だから、先生には俺に付き合って欲しいの!ほら、あっちのテント見に行こっ!」
腕を掴まれたまま誘われる。拒む理由も最早無いので、素直に着いて行く事にした。こうしていると、無邪気だな。今日のその服装も、古書市の雰囲気に合わせているのだろうか。見習い探偵。のような。ならば私はその師匠、のような。なんて。ポアロとアガサ・クリスティーという戯言も、今はぴったり型にはまっているような気がして。
「────」
「そういえば、丸井」
「何?」
本の背表紙を指でなぞり、物色している。
「お前、父親とは?父とはそういう話は無いのか?」
「父さんはいないよ。俺が生まれてすぐ位に離婚したんだって」
さもありなん。といつもの調子で返される。その言葉と態度に虚を突かれた。私が言葉に詰まったのを感じて一瞥をくれた。
「会った事も無い人だし、いないのが当たり前だから。同情とかそういうのはウザいからしないでね」
「………分かった」
挙げ連ねられた人物の中に何故父親がいないのか、少し考えれば推測出来る筈であった。完全に失言だ。
以降はその話題には触れず、この本が面白そうだの、知っている作家だが初めて聞くタイトルだの、装丁が綺麗だだのと、本の話題で盛り上がった。……表面上は和気藹々と楽しんでいるふり──否、楽しいのだが、何故あんな質問をしてしまったのかと何度も悔やんでいた。
今ならあの女性の隣が空いている。
邪な考えが浮かんでは、それを掻き消した。それはきっと目の前の彼の信頼に対する裏切りだ。
「うげぇッ」
そうだ。こんな感じで吐き気を催す表情をしてら、私を拒絶するだろう。──突然奇声を上げた丸井に首を傾げた。
「どうした?」
「見てよこのABC!犯人の答えが書いてある。しかもその答えも間違ってるし。嫌がらせか?」
丸井が手にしていたのは『ABC殺人事件』。アガサ・クリスティーの代表作のひとつだ。中表紙に『真犯人はアップルパイを食べたい紳士』と書かれている。
「そうだな。アップルパイを食べる様なシーンは無かったと思うが……」
「俺も読んだ事あるけど、そんなんじゃ無かったよね。」
「ああ。…………いや、それにしてもこれは可笑しくないか?」
ABC殺人事件の単行本。色褪せて古くなってはいるがそこそこ綺麗な状態だ。ページを捲ってみるが、中表紙以外に書き込みは見られない。丸井の言う様に『真犯人はアップルパイを食べたい紳士』と読めるが、『シンハンニンハアップルパイを食べたい紳士』と前半部が片仮名で記されている事が引っかかった。そしてハとニが太文字になっている。
またその下には音符の無い五線譜が引かれていた。五本の線があるだけだが、ト音記号が左側に描かれている事で楽譜だと認識出来た。
「まるで暗号のようだ」
そう呟いてから理解した。思わず笑みが溢れるのを禁じ得ない。これは買い手への嫌がらせではなく、推理小説好きへの小粋な悪戯といった所だろうか。
「本を手に取った人への挑戦状!的な?」
丸井の瞳が好奇心でキラリと輝いた。
「暗号か、確かに。“シンハンニンハ”って書いてある部分、“シソハソニソハ”に見えない?これを出題者の手癖だと決め付けるには早計な気がする。」
大人でもシとツの書き分けが出来ていない者は多い。恐らく、書き順を間違えているから判別し辛いのだろう。シは上から下に向かって書く。ちょうど、平仮名のしをなぞる様に点を打つイメージだ。ツは左から右に。つも同様の筆の動きをする。そうすると払いの角度が正確になり、正しいシとツが完成する。
だとすると『アップルパイ』のツが正確に書けているのは可笑しいのだ。これは手癖ではなく故意によるもの。丸井がそこに引っかかりを覚えるのは正しい。
『ABC殺人事件
アガサ・クリスティー
シソハソニソハアップルパイを食べたい紳士
空欄の五線譜の図』
「わざわざクリスティーのこの本を選んで暗号を書いているのだろう。どんな本を使っても良い訳では無いはずだ。クリスティーの、ABCを選んでいる所がヒントだろうな」
「え、となるとアレしかなくない?」
どちらかが解いてみようと言い出した訳ではない。しかし私達は突然の非日常にのめり込まずにはいられなくなった。
「「マザーグースだ」」
言葉が重なって、互いににやりとほくそ笑む。丸井は期待通りと言いたげだ。余程今のハモリが嬉しかったのか、「流石だ、感服したよ我が友」と芝居掛かった調子で宣った。
「クリスティーといえば、マザーグースを引用したトリックが沢山ある。ABC殺人事件は鉄道案内の表記を使ったものだけど、マザーグースのABCと言われたら『Aはアップルパイだった』だ!」
「『Aはアップルパイだった』は簡単な単語の覚え歌だが、他の訳では『切り刻まれ25人の紳士に食べられたA・アップル氏の悲劇的な最期』と仰々しいタイトルのものがある。歌の中では食べられなかった者も居るな。」
「そうそう……って言っても俺はそんなに詳しくないんだよね。どんな歌詞?」
私は記憶を手繰り寄せ乍ら誦んじた。
Aはアップルパイだった。
Bは齧って、
Cが切って、
Dは配って、
Eは食べて、
Fはうでずく、
Gが手に入れ、
Hが飲み込み、
Iが調べて、
Jが飛び付き、
Kが隠して、
Lは憧れ、
Mが嘆き悲しみ、
Nは俯き、
Oは開けてみて、
Pが覗き込み、
Qは4等分、
Rは追いかけ、
Sは盗んで、
Uがひっくり返して、
Vはよく見て、
Wは欲しがり、
X、Y、Z、&達はそろって一切れ手に入れたかった。
「え〜、棒読みじゃなくてちゃんと歌ってよ」
折角教えてやったのに不満を漏らした。
「マザーグースは口伝だ。メロディは地域や家庭によるんじゃないのか?そこまでは知らん」
「チッ……。とにかく、この歌を使って暗号を解読しろって事だよね。『アップルパイを食べたい紳士』はその事を示すものだから、解読すべき箇所は『シソハソニソハ』の所か」
舌打ち聞こえたぞ。こんな屋外で陽気に歌い出す訳が無いだろう。ミュージカルじゃあるまいし。
「楽譜も何か意味があるのだろう。歌を示唆するだけなら、こんな楽譜をわざわざ書いたりしない。……楽譜を作らせる事が目的か?」
「……とするとシとかソってドレミの音階の事かな?ハとニは太字になっているから、それは別のものを表してるんだと思う」
結構良い線を行っていると思う。だが、テンポよく続いたレスポンスが止まってしまう。シとソだけではメロディにはならない。それに楽譜を作った所で、出題者は何を伝えたいのか。
「……ABCの歌を使った暗号だったな。『シソハソニソハ』をアルファベットに直してみるのはどうだ」
SHISO-SO-SO-。ハとニは一旦考えない事にする。
S、H、I、Oのアルファベットを使うのだろうか。
Sは盗んで
Hが飲み込み
Iが調べて
Oは開けてみて
アルファベットの順番や数を考慮しようがしまいが、意味が通る気はしない。
「言葉というより音を表すって考えるならヘボン式のSHIじゃなくて、訓令式のSIじゃない?」
SISO-SO-SO-
Sは盗んで
Iが調べて
Oは開けてみて
「盗んで調べて開けてみる、それか盗んで開けて調べてみる。……どう組み合わせても似たような意味でいけそうだね。」
丸井が盗むという単語を口にした途端奥に居た店主がぴくりと反応した気がした。慌てて謎解きって難しいねー!と盗みを働こうとしている訳ではないとアピールをしていた。店主に此方を咎める様子は無いので、引き続き解読を試みる。
「stealは盗むという意味では無いのかもしれないな。上手く手に入れる、と訳す事もある。この本を購入して、改めてみろって事なのかもな」
「へー、てっきり本当に泥棒しなきゃいけないのかと思った」
先の反省を踏まえて小声で言ってくる。……お前本気にしていたのか。
「stealくらい習ってるだろ」
「てへへ」
先日本当に鈴木先生に補習をお願いすべきだったかもしれない。
──実はこのABC殺人事件には違和感があった。本のカバーが外れないよう、縁の部分をペーパーエイドで貼り付けてある。図書館の本のようにきっちりフィルム加工がされている訳ではないので、シール剥がしを使うか、カッターで切り取って外す事が出来そうだ。
「まだ疑問は残るが、ひとまず購入買っていくか。店主、この本を一冊」
財布を開いてお金を支払う。その時店主がにやりと笑って「まあ精々頑張りな」と声をかけてきた。……何か知ってるのかもしれない。しかし助言をするつもりは無いらしく、お金を受け取るとさっさと中に引っ込んでしまった。
その後、文具屋へ立ち寄ってシール剥がしを購入し慎重にカバーを外した。すると本とカバーの隙間から一枚の紙がひらりと滑り落ちてきた。
「すごい!宝の地図じゃん!!」
紙を拾いあげた丸井が嬉しそうな声色をあげた。興奮気味にココにマルが付いてる!行こう行こう!とせっついて来る。
「お宝かどうかはともかく。まぁ、ここまで来たら行くしかないな」
「よっしゃ!……っと、その前にあとはニとハの意味だね。音階はシとソだとして、まだ楽譜には書き込めない。リズムがまだ分からないから。だからつまり……これは片仮名じゃなくて、2と8って意味だと思う。つまり、二分音符と八分音符を示しているんだよ」
英単語は全く駄目なのに、随分と冴えた考察だ。丸井は半ば確信しているようで、その声色に自信が溢れていた。
「成る程な」
SISO8 SO2 SO8
後はこのリズムが意味するところを解くだけだろう。
「リズムで、俺達に伝えたい事……」
この謎解きの出題者は、アガサ・クリスティーが好きなのだろう。だからこの本を選んだのだろうし、マザーグースを引用してきた。となれば、このリズムもクリスティーめいた解釈を用いるのではないだろうか。
灰色の脳細胞とやらが、十全に働いているのを感じる。
私と丸井は黙ってにやにやと顔を突き合わせた。
「──ふっ」
「あーね。そういう事よ」
***
地図で示された場所は然程遠くはない。車を使って十五分程だろうか。私は古書市へ車で来ていたので、丸井と共にパーキングまで戻って印が付けられた場所へ発進した。
到着した場所は街中から外れた、住宅が犇く閑静な場所であった。広い公園、朝市の小屋、地元民達が通っているのであろう排他的な喫茶店。私達が入れる場所は限られているように見えた。
「えーっと、この辺を散策すれば何かそれっぽい物があると思うんだけど……」
地図を確認し乍ら、暗号通りの場所を探す。暫く歩いて、私は漸く目的地を見つけた。
「おい、丸井。あれ……」
西洋風の古民家。蔦が壁を這い、庭には最低限の手入れがされているのであろう花々が無節操に咲き乱れていた。土まみれのジョウロとスコップが花壇の隅に放置されている。
フランス窓のようなガラス張の開戸が入り口のようだ。その真上には四つの看板が並んでいた。繋ぎ合わせると『Pranks of Tuppence』。なんとも洒落ている。色褪せてはいるが、林檎の図案も描かれており、それがまたノスタルジックな異国情緒を彷彿とさせていた。
「『四つに分けたアップルパイを食べたい紳士』ドンピシャじゃね?……何屋さんか分かんないけど。アンティークショップ?」
──『四つに分けた』。これが最後の謎の答えだった。アガサ・クリスティーに由来する解読法。リズム。そうくれば私達が思い浮かべるのは一つしかなかった。
「モールス信号、マジだったね」
二分音符を長点、八分音符を短点と考えた時、モールス信号はトントントントンツーツートントンとなる。最初の『トントントントンツー』は数字の4、『ツートントン』はアルファベットのDだ。Dは『Aはアップルパイだった』に当てはめるとdealt、分けるという意味になる。
「ああ。しかも店名が『Pranks of Tuppence』とは、なかなかセンスが良いんじゃないか?」
プルーデンス・ベレズフォード。愛称タペンス。アガサ・クリスティー作品の登場人物の名前だ。トミー&タペンスという二人の夫婦を主人公とした物語だ。勿論探偵ものである。店の隣はオーナーの自宅なのだろう、『富永』と表札がかかっていた。
「早速入ってみよ!」
丸井が先陣を切って扉を開ける。チリンチリンと小気味のいい音がした。
店内は彼がアンティークショップと言っていたほぼその通りで、様々な雑貨が店中を埋め尽くしていた。独特な色・デザインの古着にアクセサリー。食器、ハーブ、絵画、ドール人形まであった。
「いらっしゃいませ」
ベルを聞いた店員が奥から顔を出した。随分と若い女だ。黒髪のストレートのロングヘアに、大ぶりなハートのヘアピン。パステルカラーのビッグサイズのパーカー、プリーツのミニスカートを着ていた。店の雰囲気とはあまり合わない。独特の雰囲気の魔女のような老女か、ロマンス・グレーな紳士が居そうな店だと思ったが。まさか彼女が店主ではあるまい。
彼女は私の手の中にある本を見て、目を丸くした。
「えっ!ちょっ、待っ、」
身に覚えかあるらしく、此方に歩み寄りかけて足元にある未整理の段ボール箱に蹴躓いた。
「イテッ、あや、お兄さんその本……」
「大丈夫ですか」
「お姉さんこの本の事知ってるの!?」
丸井が彼女の手を取り、体を起こしてあげる。丸見えになった下着の事など眼中に無いらしく、謎解きに夢中な様子でいきなり捲し立てた。
「この本ね、ABC殺人事件に謎の暗号が書いてあって!俺達それを解読してここに来たんだ!四つに分けたアップルパイを食べたい紳士って、あの四枚の看板の事でしょ?お店の名前のタペンスってそういう事なんでしょ?これ書いたの絶対店主さんでしょ!?店主さんとか居る?」
「待って待って!!」
「丸井、落ち着け」
手を握りしめたまま詰め寄られて流石に困惑している。丸井を宥めて引き剥がすと、彼女は漸くこの暗号が書かれた本について教えてくれた。
「それ、ウチの大学のサークル、ミステリ研究会が作成したものなんだ〜。知り合いの古本屋さんに置いてもらって、購入した人に解いてもらおうっていう悪戯みたいな企画だったんすけど。作る過程は楽しかったらしいんだけど、解く人が現れるのかどうかも分からないのに、気の長い話だと悟ってしまって。気づくの遅ない?こうして解いてきてくれたのは貴方達が初めて、みたいな。ヤバ。聞いてはいたけど、本当にやってたのか〜エモ〜!」
という事は今はやっていないのか。彼女はしみじみと嬉しそうにしていたが、当時のサークルのOBで父親がこの店の店主だそうで、呼んでくると言って奥に引っ込んでいった。
暫くすると、私が想像していた通りのグレーヘアの良く似合う初老の紳士が顔を出した。ストライプのベストとピシッとした開襟シャツが良く似合う。
「おお、本当に解き明かして来てくれる人が現れるとは……!」
店主は私と丸井の手を掴み、握手を交わした。余程嬉しいと見えて、頰が上気していた。
「しかも二人組で来てくれるだなんて、本当にホームズとワトソン、いやポアロとヘイスティングズみたいじゃないか。嬉しいなあ」
「残念おじさん、俺がポアロでこっちがクリスティーだよ。ねっ、阿笠先生!」
「……阿笠と申します。彼は丸井歩愛と言いまして」
「ほう!これはご丁寧に。まさか名探偵と作者ご本人が来てくださるとは!私は富永武夫。トミーがやってるタペンスの店ですよ。ハハハ」
「ちな、ウチはパパの娘の富永ジェシカ。ヨロ〜」
大の大人が子供じみた事を言って、私と富永さんは吹き出した。ニヤニヤ笑いの丸井に、あまり意味が分かってなさそうなジェシカ。
「くっく……いやあ、こんなに笑ったのは久しぶりだよ。それで?此処で君達が何をしなくちゃいけないのか、分かったのかな?」
「え?」
やっと笑いが収まった富永さんに、よく分からない問いかけをされてしまった。此処でしなくてはならない事……ひょっとして、まだ解けていない謎があるのだろうか。手に抱えたままの本を見やると、彼はにっこりと頷いた。
「えっ!?まだなんかあんの!?」
丸井も気づいたらしく、改めて暗号を凝視する。楽譜は完成した筈だ。
真犯人は、をアルファベットに直した。そして本に挟まる地図を見つけた。音のリズムとモールス信号を結びつけて、この店を割り出した。
四つに分けたアップルパイを食べたい紳士。まさか、アップルパイを買えと?いや、この店は食品は置いていない。
「──そうか」
「先生、何か分かったの?」
頭を抱えた丸井が縋るように私を見上げた。
「マザーグースだ」
「え?また?」
私の断言に首を傾げる。無理もない。ここまで駄目押しをしてくるとは私も思わなかった。
「モールス信号で導き出した4D、即ち『四つに分けた』は『Aはアップルパイだった』の歌詞に存在する。アルファベットのQ。quarter 。『Qは四等分』と歌われている。全く同じ意味だ。これをstealの時と同じように、更に英単語の訳を別の物に変換する。」
私は一人店内をぐるりと見渡した。そして、見つけたそれを富永さんに手渡した。
「ラッキークォーター。これを購入していく。……合っていますか?」
「amazing!!」
***
「──いや、なんか凄かったね」
「そうだな。強烈な人だったな、富永さん」
「……それもだけどさ、先生がだよ」
「私が?」
Pranks of Tuppenceを出た後、私達はアップルパイが食べたくなりケーキ屋を寄りテイクアウトしていた。これだけアップルパイの話をしていたらそうなるだろう。近所の公園のブランコに腰をかけて、紙で包まれたパイを貪る。丸井に食べる前に念入りに除菌をしている姿をじとりとした目で見られる。手も洗わず食事なんて汚いだろうが。
赤く染まった空をぼんやりと眺めて黙って食べていると、唐突に丸井が私を褒めた。やはり脳に作用するバイ菌でも食ったのか。
「俺一人じゃ絶対に最後まで解けなかった。一緒に解いてくれてありがとう」
「それを言うならお互い様だな」
互いに意見を出し合ったから解答を導き出す事が出来た。そもそも彼がいなければ気にはなりつつも暗号を解かずに店の本棚に戻していたかもしれない。
「それに最後のやつ。ラッキークォーターってよく分かったね?」
「クォーターは25セントの事。ラッキーペニー、クォーターといって、こういうコインはお守りになるんだ。日本の五円玉みたいなものだな。目につく所にあったからピンと来た。お前だってきちんと英語の勉強をしていれば分かっただろう」
私が言わずともマザーグースに由来する事や、モールス信号に辿り着いていたのだ。発想力があるのだから、知っていれば解けた筈だ。丸井は途端にウンザリした顔になった。
「ゲ〜、結局それかよ………」
「勉強しろ」
へーい、と気の無い返事をする丸井。どちらからともなく、笑いが漏れた。
私は、先程購入したラッキーコインを丸井に差し出した。首からぶら下げられるようにペンダントになっている。
「やる」
「いいの?」
「私が持っていてもどうにもならんからな」
それと、富永さんが解いてくれたお礼だと言ってくれた図書カード。金額的にはペンダントより高いので、ものを買った筈なのに儲けてきてしまった。
「どっちもくれんの?やったーマジ嬉しい!ありがと〜」
楽しかったと言ってアップルパイを頬張る丸井。お腹が空いていたのか、もう一つ買って来ると言い出した。
「まだ食べるのか」
「育ち盛りなの!甘い物大好きなんだ。休みの日はよくココちゃん達とスイーツ食べに行ったりし….て……」
そこまで言ったのに途中で言葉が途切れた。ニコニコだった顔がサッと青褪めた。
「………………ココちゃんの事忘れてた」
──私も忘れていた。
仕方が無いので、私は丸井と共に叱られてやる事にしたのだった。
過去最高に長くなりましたスミマセン……
原点回帰?のような話になりました。いや、これが彼等の原点な訳ですが。お気付きの方もおられるかもしれませんが、富永ジェシカは富永ジェーンと同一人物です。これの意味する所は、いつもの【915:あ】など…を解いて頂ければお察し頂けると思います。答え合わせはいずれ。




