5話:私と貴方の約束
「…………ナナちゃん。私、とっても悪い夢を見ているのかもしれない」
「そうかもな。アタシもそうあってほしいと昨日からずううぅっと呪ってたんだが、悪いが成就とはならなかったらしい」
「そっかぁ……ん? 呪って、え?」
「聞き間違いだ、気にすンな」
「ふふふ、リリィちゃん、ナナの戯言よりも何よりも、君には目前に迫った危機があるんじゃないかな?」
そうでした。
そう、リリィ・シュタットフェルトには差し迫った問題があるのだ。いやお前問題って他にもあるだろ、地下に棲むあの狼モドキとか。とかいうツッコミは控えてほしい。
「―――それで、如何してここにいらっしゃったのですか、殿下」
ナナちゃんとシオさんと別れたあと、どういうわけか学園を案内することになった私は、溜息を堪えて彼を目に映しそう聞いた。少しだけ呆れの色が滲んでしまったけれど、殿下は笑みが浮かんだすました表情で肩をすくめる。
「そう固くならずとも良い。今はプライベートだ」
「……王子にプライベートなんて概念が存在したんですね」
「違いない。まぁいずれ宰相になる身だ、王子の肩書は期間限定であるし、そう咎められることはない」
「だから、学園に編入した、と?」
どういうわけも、そういうわけで学園を案内することになったのである。きょうびこのジークフリート・ラインヘルツ第二王子はリリィたちの通う学園に顔を出し、あろうことか編入届をそのまま校長室へ提出し、権力に軽くものを言わせて、リリィのクラスに強引に越してきたのだった。
「元々、学園への編入は打診されていたんだ。俺は前言した通り未来は宰相の身。下々の者と気安く触れられない王などでなくゆくゆくはこの国を実質的に支えていかねばならない。今のうちに民と親しみ、民と、引いては民の不満や不安、希望に直に触れられるのは得難き体験だ」
「…………それで、本音は?」
「普段の君に興味があった。案ずるな、王太子としての面子は保つし、仕事なら学業の片手間に熟すとも」
なんなんだこのひとは。私は最近頻発する頭痛を抑え込み、眉を少しだけ顰めるに堪えた。わからない、この人という人格というか心理というか思考というか、もうこの人の存在自体が訳が分からない。
リリィの知る世界の秘密では、彼が編入するのは来年からのはずだ。そう、あの少女と同じ年に入学するはずで、なら、なぜ今既にここにいるのだろう。
「訳が分からない、といった顔だな」
「わかりません。何一つわかりません」
困惑を全面に押し出して首を傾げると、殿下は薄く笑みを浮かべてから、また口を開いた。
「言っただろう。いろんなものを見せてあげる、と」
そのとき、私はどうしたらいいかわからなかった。そうでしたねと頷けばよかったのか、そんなことのためにと笑えばよかったのか、戯言をと嘲笑すればよかったのか。
ただ私は、ひどく、困っていた。彼が嘘を吐いていないことは直感でわかる、わかるけれど。
――『薬をきちんと服用していれば、すぐに退院できますよ』
――『大丈夫ですよ、いずれ快方へ向かいますからね』
――『はやく元気になってね』
――『みんな、家でお前を待っているんだからな』
―――『リカ! いつか一緒に見に行こうぜ。春の桜も夏の海も、秋の紅葉も冬の雪も。二人で、どこまでも!』
だめなのだ。どうしても躊躇してしまうのだ。手を、伸ばせやしないのだ。
お医者さまのうそっこの言葉も、看護師さんの引き攣った励ましも、お母さんのコンクリートみたいな建前も、お父さんの常套句みたいなでまかせも―――ななちゃんの、まっすぐで優しさと温もりしか詰まってない約束さえ、私は応えられなかった。
言葉も、身体も、心も。
だから、今度もきっとそう。この健康な身体でも、美しいかんばせでも、例え何もかもが変わったとしても。私が、私である限り。
だって私は、どれほど待ったと思う? 幾日、幾月、幾年、幾星霜も、その日を、その時を待っていたのだ。あのひとりぼっちの病室で。
それでも、終ぞ訪れなかったのだ。
なのに今更、たかが世界が変わった程度で。
―――いろんなものを見せてあげる、なんて。
そんなあっさりと、ななちゃんでさえできなったのに――
「ほら、手始めに、こっちだ」
「へ? あ、あの、十分後に授業がはじま、」
「君、学生の醍醐味を知らないのか?」
サボリに決まっているだろう!
手を取られ、廊下を逆走し、教室へ戻る生徒を尻目に、裏玄関から教室棟を出る。どこへ向かっているのだろう。なにぶん、私も学園内はそう深く知らない。本物のリリィ・シュタットフェルト自身の興味がなくて知識がなかったのもあるし、元リカがリリィとなってからは、そんな余裕はとんとなかった。
手を引く殿下の黒に近い藍色の髪が歩を進むたびに揺れて、時々こちらの様子を窺うように顔と視線を向けられる。私はそれにどう応えていいかわからず、ただ目を見つめ返した。殿下はそれをどう受け取ったのか、また前を向いて歩いていく。
校舎と校舎の隙間道を通り、テニス場の前を通って、廃校舎の裏手へ回る。
どこへ行くのですか、とようやく勇気を出して聞いたころ、殿下は振り向いて悪戯っぽく笑い、前方を指さした。
そこには、なにもかもがあるように見えた。
色とりどりに咲き誇る、美しい花々、草木。
よく晴れた青空がよく見えて、目に鮮やかな地と相まったコントラストが美しい。
「リリィ。手を」
殿下の指先まで美しく整った手が差し出され、誘われるように私は手を置き、くっ、と引かれる。
殿下はまるで花を踏まないように花畑を歩く道がわかっているかのように、上手く花を避けながら、私を花畑の中心へ、丘の上へ導かれた。その間も目線を下にして花をひとつひとつ丁寧に見る。ローズマリー、カモミール、コスモス、カスミソウ、ナデシコ、ラベンダー……季節も種もバラバラ、それなのに、どの花も活き活きと瑞々しく咲き誇り、香りを混ざらせず、風にしずしずと揺らされていた。
とうとう丘の頂上に立って、私は殿下を見上げて問うた。
「殿下、ここは……」
「俺も友人に教えて貰ったんだ。花が好きでな、栽培したかったんだが家では家人に止められ、学園では建前としてそんな事は手出しできず、致し方なくここでひっそりと咲かせているらしい」
ややこしい手続きや、教師への言い訳が大変だったそうだ、と殿下はからからと笑った。私はまた視線を花畑に戻して、絶対にひっそりではない、と思った。それほど、豪奢で、整然と、美麗で、可憐だった。なんと、美しいのだろう。
花畑に目を奪われている私の手を、殿下はさらに引っ張った。突然大きな力がかかって、いとも容易くバランスが崩れて身体が大きく傾く。
殿下はそんな私の身体を救い上げるように抱き上げ、花畑にそーれっという愉快な掛け声と共に放り投げた。驚いて魔法を使う暇すらなかったが、投げた張本人である殿下が使ったのだろう、私の身体は衝撃少なく地面に着地し、草花が頬や腕など、身体の縁を擽る。
「制服の代えなら用意してある。存分に寝ころぶと良い」
身体を動かすも、花は散らず、草も折れない。接触関係の魔法がかけられたらしかった。横向きになって身体を丸めると、すぐ傍に殿下も座り込んでいた。彼は宝物をひっそりと自慢する子どものような、楽しそうで、ちょっぴり誇らしげな顔をしてこちらを見つめている。その眼が、あんまりにも親愛に富んでいたので、私は、今度は迷わずに口を開いた。
「――ありがとう、ございます」
「どういたしまして。これからもっと見に行こう、もっと触れに行こう」
「どうして?」
わからない。何一つ、何一つだって分からない。
「どうして、そこまで………」
血のつながった家族さえ、治してくれるはずのお医者様でさえ、誰よりも大事に思ったナナちゃんでさえ、私を連れ出せなかったのに。
どうして、あなたが、そこまで。
「いつか、言うさ」
混乱する私の一方、殿下はただ優しく微笑みそう言うだけだった。
*
「――っていうことがあったんですよ」
『………確かに私は貴様にあった出来事を一つ残らず話せとは言ったが、そんな青春の一ページのような悩み事は聞いてない』
「うびゃーーっ!? なんで言うとおりにしたのに炎噴き上げるの!!? ひどい!!!」
この獣、私が不審なことをしていないか判断するために、一日一度報告義務を課してきたのだ。私には最早プライベートどころか人権すらなかった。この世界まともな人権ないけれど。
それにしても、言った通りちゃあんと報告したというのに、なぜ火を噴かれまでして怒られなければならないのだろう、至極理不尽だ。
『理不尽を喚きたいのはこちらだ。何が悲しくてポンコツ小娘の恋愛相談なんぞ聞かなければならないのだ』
「恋愛相談て………」
『どこからどう聞いてもそうとしか聞こえぬわ戯け』
―――当時の私は、恋というものを情報としては知っていても、実感としては全く知らなかった。自分とは縁遠い何か、そう認識していて、理解しようなどとは微塵も思わなかったのである。
人間らしくない王子と人間らしさを知らない婚約者などと、後にして思えば随分と皮肉った組み合わせである。それを知ってか知らずか、獣はフンと鼻を鳴らしてクロスさせた両前足の間に顔を突っ込んだ。
『もう下がれ、私は寝る』
「えっ、帰っていいってこと!?」
『喧しい。二度言わせる気か』
「アッハイ。じゃあ。えっと、また明日!」
国を滅ぼさんとする獣相手にまた明日ってなんだ。
ちょくちょく更新できると思いますのか宣ったのは誰でしょうね?(すっとぼけ)
学際と胃炎と風邪とテストと課題がやっとひと段落つきました!!




