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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

歴史もの

新羅の虎

作者: しのぶ
掲載日:2017/08/16

 都が平安京に移ってからそれほど時も経たない代のこと。壱岐国(いきのくに)壱岐篤義(いきのあつよし)という武士がいた。篤義は壱岐国の国司である壱岐守(いきのかみ)宗行(むねゆき)に仕える武士であった。


 宗行は酒癖が悪かった。ある夜、宗行は都から来た友人を迎えて酒を飲み、歌を詠みかわしていたが、そこに控えていた篤義に言った。


「篤義、お前も何か歌を詠んでみよ」


 篤義は言った。


「私はただの武士で、歌の心得などありませんので……」


「しかし、歌の作法くらいは知っているだろう」


「まあ、知ってはいますが」


「だったら詠めないことはあるまい。さあ詠んで見ろ。客の前でわしに恥をかかせるなよ」


 篤義は、かねてから酒の席でからまれていた恨みもあったので、主人も酔っていることだしと思い、ついこんな歌を詠んだ。


“壱岐の海 名のごとくには いきがたし

かじ取る人の つたなくあれば”


 これを聞いて、こちらもすでに酒が回っているらしき客は笑って言った。


「なるほど、これは上手い歌ですな。武士にしておくのは勿体ないくらいだ」


 宗行は訳がわからないという顔で言った。


「どういう意味です?」


「わかりませんかな。『壱岐』というけれど、その海はその名に反して『行き』がたい……かじ取りの腕が悪いからだと。これはつまり、主人が悪いせいで己の人生も生きがたいと、あなたを暗に批判しているのですよ。ハハハ」


 すると、宗行は突然怒り出して、立ち上がって言った。


「篤義!この無礼者が!!叩っ斬ってやる、そこに直れ!」


 篤義はしまったと思ったが、時すでに遅く、客人がまあまあといさめている間に、屋敷から逃げ出した。


 さて屋敷からは逃げたものの、壱岐国は小さな島であって、その中に身を隠すこともできまいし、さりとて本土に逃げたところで、宗行が恨みに思って本気で探そうとすれば、いずれは見つかってしまうだろう。宗行の酔いがさめる頃に謝りに行けば多分許してくれようが、それも癪にさわるし、今後こころよく仕えることもできまいと思われた。

 それなら、いっそ日本を出て外国に行ってみるのもいいかもしれない。壱岐国は新羅(しらぎ)に近く、ちょうど新羅へ行く貿易船が留まっていた。

 

 従来、この辺りの海は海賊が頻繁に出るため安心して通れない地域だったが、近頃は新羅の張宝高という人物が海賊たちを帰順させて海の道を確保しており、新羅王から清海鎮大使に任じられて、張大使と呼ばれていた。さらに張宝高は日本、新羅、唐を結ぶ海の道に、さらにその周りの国々にまで船を出しているらしい。


 そんなわけで、篤義は張大使の部下の船に乗り込んで新羅を目指した。そうして船に揺られていると、呼び声がした。


「海賊が出たぞ!」


 ざわめく乗客たち。篤義も、今でも海賊が出るのか、運の悪いことだと思ったが、そこで船長が言った。


「皆さん、ご安心ください。近頃の海賊は昔と違って、たまに出てもせいぜい船が一隻か二隻、思いつきで集まった烏合の衆です。我らが撃退してやりましょう。おい、お前たち、行くぞ!」


 と言えば、船を警備する兵士たちが甲板に出て行き、船べりに盾を並べて弓を構える。篤義が見ると、なるほど海賊船は一隻だけのようだ。海賊船からも矢を射てきたが、こちらも負けじと射かえす。篤義は、ここは自分も加勢せねばと、弓に弦を張って表に出た。


 さて兵士たちに並んでみると、篤義の弓が日本式の、身長より高い長大な弓なのに対して、兵士たちの新羅の弓はやはり小さく見える。篤義がその弓を引き絞って矢を射れば、その矢は敵の盾を貫いて、さっそく一人を撃ち倒した。さらに続けざまに矢を放てば、敵は盾も鎧も貫かれて、一人一人と倒れていく。これに恐れをなしてか、海賊船は早々と逃げ去って行った。兵士たちは歓声を上げる。そこへ船長が来て言った。


「見事なものですな。日本の弓は長大なだけあって、やはり威力には優れているものだ」


「そうでしょうか。新羅の弓と比べたことはなかったですが……こうして見てみると小型ですな」


「まあ、小型の弓のほうが小回りが利きますからな。むしろ日本の弓が大きすぎるのですよ」


「しかし、小型の弓では威力が足りないこともあるのでは?」


「そんな時は、矢に毒を塗って威力を補うこともあります」


「なるほど。ところで、この船の兵たちは戦慣れしているように見えましたが、あの兵たちは国から派遣されているのですか?」


「いや、実を言うと、彼らも元々は海賊だったのです。かく言う私も元は彼らの首領でね。私は金珍と言います。近頃は新羅も国が荒れてきまして、この辺りでは海賊に身をやつす者たちが多かったのです。しかし張大使のおかげで足を洗って、今ではまっとうな仕事ができるようになりました。大使には感謝してますよ」


「なるほどね……。私は壱岐篤義と言います。良い上司に合うというのは大事なものですな」



 そんなことがあった後、篤義は新羅の金海府というところについた。金海はかつて日本の内官家(うちつみやけ)だった任那(みまな)があったというところである。この任那という名は、崇神天皇の(おくりな)に由来すると云われる。

 そこで宿に泊まろうとしたが、そこは二階建ての宿で、一階の値段は安く、二階の値段はその二倍近くした。篤義は宿の主人に言った。


「どうして、一階と二階でこんなに値段が違うのですか」


 主人は陰気な顔で言った。


「知らないのかね、お客さん。近頃この辺りでは虎が出るんだよ。それも同じ虎でね。それで一階にいると襲われる可能性が高いというので、一階には人が泊まりたがらないのさ」


「虎が?こんな街中に?」


 そう言っているところで、誰かが叫んだ。


「虎が出たぞ!!」


 ざわめく街の人々。篤義が見ると、一頭の大きな虎が、街の大通りを風のように駆けている。そこへ人々が集まって矢を射かけたが、虎はそれをもかわしていく。虎は逃げていた人々の中に飛び込むと、その内の一人を一撃で打ち倒し、ぐったりした人をくわえてまた風のように駆け去って行った。篤義は、


(あれが虎というものか……。噂には聞いていたが、なるほどすごいものだ)


と思い、宿の主人に言った。


「今まで、あの虎に矢を射当てたことはないのですか?」


「ある。しかし、次に現れる時には矢が抜けているのだ」


「しかし、矢に毒を塗ったりはしないのですか?毒が塗られていれば、いずれ死ぬと思われますが」


「そのはずなのだが、次に現れる時にはいつも平然として現れてくるのだ。それだから人々は、あの虎はただの虎ではない、夜叉や羅刹のたぐいだと噂している。近頃は国にも余力がないのか、こんな辺境にまで虎退治の者をよこしてはくれない。これも国の乱れる兆しか。我らはどうすればよいのであろうか。おお、南無観世音菩薩」


「ほう……」


 そこで篤義が心に思うことには、


(我はこの国で頼るあてもなく、地位や財産があるわけでもない。ここで一つ手柄を立てて、なにがしかの地位を得たいものだ)


 篤義は言った。


「もし、私があの虎を退治したらどうなるのですか?」


「何かあてがあるのかね?あるなら金海府の国府に行くといい。国主は虎を退治できる者を求めているからな」


 そこで篤義は国府に行って、国主にお目通りした。国主は言った。


「そなたは、あの虎を退治できると言っているそうだな」


「そうするつもりです。あの虎はどこに住んでいるのでしょうか?」


「あの虎は亀旨(クジ)峰のふもとの林の中に住んでいるが、人々は恐れて誰もそこへは近づかない。虎は猫が鼠を捕らえる時のように伏せて近づいて襲ってくるので、見通しが悪い場所ではなおさら危険だからな」


「しかし虎穴に入らずんば虎児を得ずと申しますから、向こうが来るのを待つよりは、こちらから打って出ようと思います」


「虎を射たことは今までにもあるが、あの虎は矢を一つ二つ射たくらいでは倒せないという。仕留める自信はあるのかね」


「この国では、小さな弓矢で毒を塗って撃ちますが、それではついには毒のために死ぬとは言っても、その場でたちどころに射倒すことはできません。それだから、逃げられたり反撃されたりするのでしょう。私は大型の弓矢で一撃に賭け、後を考えぬ不退転の覚悟で臨もうと思います」


「それでは、期待しておるぞ」


 そうして篤義が退出すると、集まっていた人々は、


「日本には虎もいないのに、あの日本人になにができるものか。命を粗末にするものよ」


と陰口を叩いた。



 さて篤義は林に行き、風下に立つように気をつけながらその中を進むと、虎がそこに伏せているのを見つけた。虎もこちらに気づいたようで、鼠を狩る猫のように、身を低くしながらこちらに歩み寄ってくる。

 篤義は弓に矢をつがえて引き絞ったが、外してしまっては二本目をつがえる間にやられてしまうだろうと、少しずつ、確実に当てられる距離まで距離を詰めていく。虎もまた、少しずつ距離を詰める。

 ぎりぎりまで来たところで、虎は弾かれたように襲いかかってきた。同時に篤義が矢を放てば、頭をわずかにそれて、肩口に突き刺さり、肩の後ろまで出た。しくじったか、と死を覚悟したものの、虎は身を翻して風のように走り去って行った。


 篤義はその後を追ったが、追いつけるはずもなく、虎を追って山の中に入っていった。

 見通しの悪い山の中では、死角から襲われてはひとたまりもないだろう。篤義は警戒しながら進んでいったが、虎は一向に見当たらず、このまま日が暮れてしまっては危うい、と思っていると、山の中に小屋が建っているのを見つけた。

 今日はここに泊めてもらおうかと思い、篤義は戸を叩いて言った。


「ごめん」


 すると中から初老の男が出てきて言った。


「何か用かな」


「道に迷ったので、今夜泊めてもらいたいのですが」


 老人はなぜかニヤリと笑って、言った。


「いいとも」


 中に入って、戸に弓矢を立てかけて小屋の中を見てみると、いくつかの壺が並び、草や木の実や木の根などが棚に並んでいた。篤義は言った。


「あなたは医者なのですか?」


 老人は篤義の隣に座って言った。


「いや、これは自分用の薬だよ。この辺りには毒虫がよく出るのでな。それで、虫に刺されたらこの薬を使うようにしているのだ。それに薬を使えば傷の治りも良いからな」


 そう言って肩脱ぎになると、その肩には真新しい傷がついていた。老人は言った。

 

「今日はまた、珍しい虫に刺されたよ。毒はないものの、いつもより大型の虫にな」


「ほう……」


 篤義は横目で戸口のほうをうかがい、そこに立てかけてある弓矢を見て、そこまでの距離を考えた。老人は言った。


「お若いの、もう少し近くに寄って、この傷に薬を塗ってくれないかね」


「……」


 篤義はさっと立ち上がった。老人もそれを見て立ち上がると、その姿はたちまち虎に変わった。篤義は剣を抜いて虎の喉元を突いたが、虎の振るった爪に引っかけられて弾き飛ばされた。運良く、戸口のほうに転がってきたので、立てかけてあった弓をとって矢をつがえる。

 虎は後足で立ち上がって、喉に刺さった剣を前足で引き抜くと、篤義に向かって風のように駆けてきた。篤義は矢を放つ。矢は虎の眉間に深く突き入り、さしもの虎も倒れて動かなくなった。

 篤義はさらに倒れた虎に矢を射込んだが、虎は反応しない。


「や……やったか」


 篤義は戸に寄りかかってずるずると座り込んだ。己の脇腹に触れてみると、虎の爪にかけられたところのあばら骨が三本折れていた。すごい力だ。まともにもらっていたら、一撃で叩き殺されていただろう。

 

 さて篤義が虎を倒したことが知られると、人々はしきりに讃嘆し、日本の武芸は優れたものだと言った。国主は篤義を国府を守る武士に取り立てたので、篤義は当初の目論見通り、手柄を立てて地位を得ることができたのだった。



 時に、新羅には祭りの日に仏塔の周りを回って、念仏を唱える習慣があった。それで篤義が思うことには、


(我はこの国でそれなりに功成り名遂げることができたが、まだ結婚していない。この上は誰か良い人に巡り会って、我が名を伝える子を授かりたいものだ)


それで篤義が祭りの日に、近くの寺に出かけて仏塔の周りを回りながら、良縁に恵まれますようにと祈っていると、一人の娘が己を追い越して歩いて行く。篤義がその後ろ姿を目で追っていると、彼女は振り返って篤義を見て、彼に微笑みかけた。篤義は電撃に打たれたような感覚を覚えた。が、人ごみの中で彼女を見失ってしまった。

 何か運命的なものを感じたのだが……と思いながら、篤義が帰ろうとしていると、話し声がした。


「君、一人かい?うちに泊まっていかないか?」


「この近くにいい店があるんだ。紹介するよ」


「こ……困ります」


 そちらを見ると、先ほどの娘が二人の男にからまれているようだった。


「何が困るって?別に誰か人を待たせてるわけでもないんだろ?」


「いえ、私は……」


「さ、行こうか。ヘヘヘ、なに心配すんなって、悪いようにはしないからさ」


 そこへ篤義は歩み寄って、言った。


「姫、何やってるんですか。捜しましたよ」


「え……?姫?」


 篤義は男二人に言った。


「あんた達、この方に何か用なのかな?ん?」


「あっいえ……何でもありません」


 そう言って退散する二人。彼女は篤義に言った。


「ありがとうございます。助かりました」


「いえ、大したことでは。ここには一人で来たんですか?よければ、帰りを送っていきますよ」


「それじゃ、お言葉に甘えて。お願いします」


 篤義は馬を留めてあったところに来て、彼女を馬に乗せると、自らも馬に乗って手綱をとった。

 それからしばらく行くと、娘が言った。


「あなたは、仏塔の周りを回っていたとき、何を祈っていたのですか?」


「え?別に、大したことではありませんが……」


「そうですか?実を言うと私は、良縁に恵まれますようにと祈ってきたのです」


「ほう」


「私は小さいころに母を亡くして、父と二人暮らしをしていたのですが、その父も最近亡くなりました。父は私がまだ結婚していないのを心配していましたが、とうとうその日を見る前に死んでしまいました。それで私は、誰か良い相手に巡り会えますように、そうでなければ出家しようと思っていたのです」


「それは奇遇ですな。実は私も良縁を願っていたのです。どうです、もしよければ、私と結婚してくれませんか」


「そうですわね。これも何かの縁でしょう。ようございますわ」


「それはよかった。ところで、あなたの名は何と言いますか」


「ハヌル。姓は()です」


「良い名ですな。高姓ということは、もしかして高麗(こま)の王家の末裔なのですか?」


「そういうわけではないのですけど、たまたま同姓なのです」


「そうですか。私は篤義と言います。(うじ)……姓は壱岐です。壱岐氏は元をたどれば日本の摂政である藤原氏と同じ祖から出ていて、そこから分かれた雷大臣(いかずちのおおおみ)の後、壱岐直真根子(いきのあたいまねこ)という人が壱岐氏の祖です。まあ、本当に私がその家系から出ているのか、私の祖先の誰かがそれを僭称しただけなのかはわかりませんがね」


「家系なんてのはそういうものでしょう。大事なのは私達自身のことですわ。私達がこうして巡り会ったのも神仏の引き合わせでしょう。それが肝心なことですわ」


「そうですな」


 こうして、篤義はハヌルと結婚して、しばらくして子も生まれた。国主や国府の役人たちも喜んでくれて、全ては順風満帆であるように思われた。


 そんなある日、篤義は家で赤子をあやしていたが、ハヌルが針仕事をしているのを見て、何とはなしに言った。


「こうしていると、初めてこの国に来た時のことを思い出すな。人生は何が起こるか分からないものだ。あの虎のことがなければ、今こうしていることもなかっただろうなぁ」


 ハヌルは言った。


「あの虎?どんなことがあったのですか?」


 篤義は、眠った赤子を寝床に寝かせて、言った。


「そういえば、君には話していなかったかな。あれは不思議な体験だった。初めてこの国に来た時、宿に泊まろうとしたのだが、一階の値段がやけに安くて……」


 と、篤義は虎退治の一部始終を話した。ハヌルは黙って聞いていたが、話し終えると、その針仕事の手が止まっているのに気づいた。ハヌルは言った。


「……それで、全部ですか?」


「そうだ」


「そうですか。……ああ、それを知っていれば……。父の仇と結婚したりはしなかったものを」


「え?」


 ハヌルは立ち上がった。すると、たちまちその姿は虎に変わり、篤義はあっという間もなく床に組み伏せられた。

 虎の姿のハヌルは、篤義の首に爪を突きつけて、言った。


「本来なら、私はここで父の仇を討つべきでしょうが、あなたは夫でもあり、我が子の父でもあるから、やはりそれも忍びない。悲しいけれど、お別れです。あなた、どうかあの子のことを守り育ててくださいね」


 そう言うと、ハヌルは風のように走り去って、窓を飛び越えて行ってしまった。


「あ……!ハヌル!」


 篤義は起き上がって外に出たが、もはやハヌルの姿は影も形もなかった。呆然としていると、家の中から、目を覚ました赤子の泣き声がした。

 篤義は戻って赤子を抱き上げ、また外に出て、茫々たる天を仰ぎ、地上を眺めて言った。


「……なんてことか……」



 篤義は、妻は急に病気になって死んだのだということにしておいた。それからしばらくして、篤義のもとに客が尋ねてきた。それは忘れもしない、かつての主人である壱岐守宗行(いきのかみむねゆき)であった。篤義は言った。


「何の用です?まだ私を憎んでいて、その恨みを晴らすために外国までやって来たのですか?」


 宗行は言った。


「いや、そうではない。あれは私が悪かった。今は酒も控えるようにしているのだよ。ところで聞いた話では、お前はこの国で虎退治をして、それが評判になっているそうじゃないか。我が国の名を上げたことに免じて、過去の恨みは忘れることにしよう。また日本に戻ってきて、私のもとで働いてくれないか」


「そうですな……」


 篤義は、一時はこの国に骨を埋めようと思っていたが、ハヌルのいなくなった今は、この国にいても過去が思い出されて辛いだけのようにも思えた。篤義は言った。


「それでは、国主の許しが得られたら帰ることにしましょう」


 こうして、篤義は国主に暇乞いして、それが許されたので、また日本に帰ることになった。再び日本の土を踏むことになるとは思わなかったが、人生は何が起こるか分からないものだ。

 ちょうど、唐から新羅に来て、日本に渡る船が来ていたので、篤義は赤子を抱いてそれに乗り込んだ。船は陸地を離れ、新羅の海岸が遠ざかって行く。


 その船の船長は、新羅に来た時と同じ、張大使の部下の金珍だった。この時はすでに、張大使は新羅王と仲違いして、乱を起こし暗殺されていた。篤義は金珍に言った。


「久しぶりですな。今でも交易は続けられているのですか」


 金珍は言った。


「まあ、昔のようにとはいきませんがね。近頃は張大使がいなくなったせいでまた海賊が増えてきて……。その上、張大使が逆賊の汚名を着せられてしまったので、私も肩身の狭い思いをさせられています」


 それから金珍は、篤義の抱く赤子を見て言った。


「ところであなたは、日本に帰るつもりなのですか?」


「そうですな。一時は新羅に骨を埋めようと思ってましたが、今となっては辛い過去を思い出させるばかりであろうと思われるので……」


「そうですか」


 そこで、一人の僧侶らしき人が篤義に言った。


「あなたは日本人なのですか?」


「そうですが、あなたは?」


 金珍が言った。


「この方は日本の僧で、唐に渡って九年も仏法を学んで来たのですよ」


 僧は言った。


円仁(えんにん)と申します」


 篤義は言った。


「しかし唐と言えば、近頃、唐の皇帝は仏法を弾圧していたのではなかったのですか?」


「そうです。そのためもあり、滞在や旅行の許可が下りなかったこともあって、唐ではいろいろと苦労しましたが、その折りは張大使に何かと助けられました。大使がすでに亡くなられたのは残念ですが、今となっては唐で学んできたことを日本に持ち帰ることが報いになるかと存じます」


 篤義は言った。


「それでは、船旅の間、唐での旅の話など聞かせてくれませんか」


「そうですな。私は唐について天台山に行こうと思っていたのですが、旅行の許可が下りなかったので、唐の赤山というところに滞在していました。そこには張大使の建てた赤山法華院という寺があって、そこに泊まっていた間、五台山に行けば仏法を学べるし、州から許可証を出してもらえれば内地を自由に旅行できると聞きました。それで私は赤山法華院の護法善神だった赤山明神を守り神として、無事に旅を終えて日本に帰れたら赤山明神のために禅院を建てると誓いを立てました。その甲斐あって、こうして日本に帰ることができていますが、その間はいろいろと苦労がありまして……」


 と話しているところへ、


「海賊が出たぞ!」


と呼び声がした。ざわめく船の乗客たち。見ると、海賊船が五隻も連なってこちらに向かってくる。金珍が言った。


「やれやれ、近頃はまた海の治安が悪くなってきたものだ。おいお前たち、行くぞ!」


 と言えば、船を警備する兵士たちが甲板に出てきて、船べりに盾を並べて、弓を構えて敵を待ち構える。新羅に来た時を思い出させるが、あの時とは違って海賊は数も多く、その船も大きいように思える。円仁が言った。


「ああ、あと少しで日本に着くというのに。赤山明神よ、終わりまで旅を全うさせて下さい」


 篤義は、これはまた己も加勢しなければなるまいと思い、弓に弦を張ろうと思ったが、そこで抱いていた赤子が泣き出した。赤子を誰かに、円仁にでも預けようかと思った篤義だったが、腕の中を見ると、泣いている赤子はなんと虎の赤子の姿になっていた。篤義は驚き、人目につかないように隅に行って、赤子をあやしながら言った。


「困ったな、こんな時だというのに。よしよし、早く泣き止んで元の姿に戻ってくれよ」


 しかし、赤子は一向に泣き止まない。篤義は、早く元の姿に戻ってくれないかと焦ったが、そのうち、海に風が出てきたのに気づいた。それも、子供が泣き声を上げると風が強く吹き、泣き声が弱まると風も弱まるのに気づいた。


「こ、これは……?」


 風が波を起こし、黒雲が出てきて雨まじりの風が吹き付けてきた。海が荒れてくると、五隻の海賊船は波にもまれてお互いにぶつかり合い、遠くに押し流されていった。逆に、篤義たちの乗っている船は、追い風を受けてどんどんその場から離れていく。やがて風はやみ、海原を見渡して見れば、海賊船はもう影も形も見えなかった。船の乗客たちは歓声を上げて、口々に神仏に感謝した。

 篤義はあっけにとられて海を眺め、腕の中の赤子を見てみれば、すでに赤子は泣き止み、人の姿に戻って眠っていた。そこへ円仁が来て、言った。


「見ましたか、矢の一本も射ずに海賊船は流されていきましたよ。これは赤山明神のご加護です。私はさっき、赤山明神が船のへさきに立っているのを見たのです。赤い衣に、白羽の矢を背負った姿でした」


「そうですな……、そうかもしれません」


 篤義は赤子を抱いて海を眺めて、独りごちた。


「虎は風を起こすと聞いたことがあるが、そのためか。この子にもその母と同じ霊威が備わっているのだろうか。彼女のことを思い出させることよ。願わくは、その霊威が常に我らを守ってくれると良いのだが」


 こうして、篤義たちの船は無事に日本に帰り着いたのだった。








 

 







 

 


 






 

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