第8章 思わぬ方からの文
愛らしいもみじ姫の赤い唇が白い春香の額に、そっと触れた。
その瞬間―。
「ひぃ様!」
慌ただしい衣摺れの音と共に、鈴虫の声が聞こえた。
その声にもみじ姫はビクリと体を竦ませると、もみじ姫では考えられないほど素早く春香から離れる。
顔を真っ赤に、もみじ姫はいきなり現れた鈴虫を見やる。
「ど、どうした、の?」
焦りすぎて、簡単な言葉も噛む。
「ひぃ様こそ、どうしたんですか?顔を真っ赤に…。あやしい。」
息を切らしてきた鈴虫はやたらにそわそわしているもみじ姫を鈴虫は半眼で見つめた。
明らかに怪しい言動を必死に隠そうとして、逆に更なる怪しさをかもし出しているもみじ姫。
「残念だったね、もみじ。後少しだったのに!」
もみじ姫の横で、春香は満遍の笑みを浮かべる。
「もう!春香君は黙ってて!」
「えっ?春香の君?もみじって呼び捨て?ひぃ様、これどういうことですか?」
春香の存在に気付いた鈴虫が更に驚いたように目を開いた。
「二人だけの秘密?」
「違う!春香君とわたしはただの友達なの!」
状況を楽しむ春香の言葉に、もみじ姫はぎょっとなり、力の限り否定する。
しかし、その姿が更に誤解を招くことになるなんて、もみじ姫は考えも付かない。
「まあ!ひぃ様が声を荒げるなんて!友達?まさか、恋愛ごっこが本気になった?」
「違います!」
「恋愛ごっこ?僕は弄ばれてたの?もみじ?」
二人から交互に迫られ、もみじ姫の許容範囲を遥かに超える。
「まあ、何を騒いでいるの?」
そんな二人からもみじ姫を救い出したのは、鈴虫の姉、松虫だった。
「松虫〜!」
「まあまあ、どうなされたの?ひぃ様?それに春香の君も。」
「は、春香君とは友達なのよ!」
もみじ姫は松虫に泣きつく。
「まあ、ひぃ様が、こんなにお困りになることなんてそうありませんわ。何事にもあまり動じない方なのに!」
もみじ姫を抱きしめると、松虫は困り顔で二人を見やった。
それにしても何事にも動じないとはものは言いようというもの。
「お姉様…。表現の仕方間違ってません?」
「もう、そんな揚げ足取りはいいのよ。何故、急いでここに来たか、お前は忘れたの?」
姉の言葉に不服そうな妹を少ししかめ面で睨むと松虫はもみじ姫を見据えた。
「たった今、妹姫の小君様よりお歌を預かってきましたのよ。それは命一杯の皮肉と共に。」
松虫はため息を吐きつつ、その歌を差し出す。
「あちらの姫は我が強いと言うか、わがままというか何かに付けてはひぃ様に対抗なさろうとするから。ひぃ様ばかりが兄君や姉君から物語を貰ったことを恨んでいるのですわ。」
「まあ。小君ちゃんに嫌な思いをさせてしまったのね。」
「ひぃ様、違います!ひぃ様の方が年上ですのに、何を遠慮なさるのです?ひぃ様は優しすぎますわ。あの姫は内大臣の殿や北の方様の前では猫を被って、ひぃ様の前でだけ色々意地悪なさって。」
鈴虫は先ほどのことはすっかり忘れてしまったのか、小君の傍若無人ぶりに憤慨のもよう。
鈴虫よりも落ち着いている松虫も腹立たしげにしている。
「大体、ひぃ様は北の方様に遠慮なさって、お付の女房少なく綺紅殿でお静かに暮らされているのに、あちらはひぃ様の配慮をまったく感じずに、当たり前だと思って、ねえ、ひぃ様。」
「え…。特に遠慮してここにいるわけでは…。」
「ひぃ様の母君がご存命ならこんなことにもならないでしょうに。殿はこういうことにまったくの無頓着ぶり。ひぃ様が少しも泣き言をおっしゃらないから、気付きもしない。」
「泣くようなこともないし…。」
二人の言葉にもみじ姫は当惑しつつ、口を挟む。
確かにもみじ姫が少し筝の琴を弾けば耳障りだと手紙が来、女房と香合わせをすれば、臭いと苦情が来る。
また、もみじ姫に来客があってもどこで聞きつけるのかこの妹姫がもみじ姫より先に寝殿に通してしまい、もみじ姫は待ちぼうけ。
しかし、それを小君は陰でするからなかなか表に出ない。
でも、もみじ姫はなんとも思っていないのだから、かなりの強者というもの。
多分、少しはもみじ姫が怒るなり泣くなりすれば小君も満足するのでしょうけど、どこ吹く風と流されては闘争心に更に火がつくというものなんでしょうね。
「で、今回はどんな歌を詠んできたの?」
三人のやり取りを黙って聞いていた春香が静かに口を挟んだ。
「ああ!春香の君の事を忘れていましたわ。まさか、お家の諸事情がこんなところで表に出るなんて。」
「いや、バラさないけどね。小君が性格悪いのは分ったけど、それなら早く返歌を送った方がいいんじゃないの?返すのが遅れただけで、変な当てこすりをしてくるんじゃないの?」
あごに手をやり、冷静に話を分析する春香の手を鈴虫がぎゅっと握った。
「よっく分ってるわね。そうなの、毎度、嫌味たらしいお歌を送ってきて、返歌が遅いだの、歌が下手だの、こっそりと女房連中に噂を流して、結果、ひぃ様は歌も詠めぬ幼き姫と囁かれるの。」
「まあ、仕方ないわよね。事実だし。」
と誰よりも落ち着いているもみじ姫のぽやんとした科白に、さすがの春香もため息を吐いた。
もみじ姫としては毎度の小君の歌よりも、先ほどまでの春香とのやり取りが思い起こされてならない。
―なんで、わたし、口付けなんてしたんだろう。
恋の好きとか分らないけど、でもなんとなくしてあげなきゃ可哀想で…。
でも同情でするものではなかったのかも。
と一人、悩んでいる。
「ひぃ様分ってるんですか!」
「ひゃい!」
急に話を振られて、もみじ姫はびくりとする。
春香のことを考えていた自分を見咎めれたように感じ、一人恥ずかしさから真っ赤になりながら、こくこくと頷いてみせた。
怒りに捉われている鈴虫はもみじ姫の異変を不審に思うことなく、拳をかたく握り締めた。
「もう限界ですわ。このこと綾乃様に申し上げて、北の方か殿から注意していただきましょう。何もお咎めがないから図に乗るのですわ。」
「まあまあ、鈴虫。小君ちゃんも寂しいのよ。遊び相手がほしいんじゃないかしら?わたしには鈴虫も松虫も、それに綾乃もいるけど、あちらには小君ちゃんと同じくらいの年頃の女房もいないしね。それに自尊心の高い小君ちゃんをお父様や北の方様が怒れば傷つくじゃない。いつも通り、綾乃には内緒でお歌を返しましょう。」
鈴虫を宥めつつ、困り顔でもみじ姫は言う。
「ほんと、ひぃ様はご自分から辛き道を選ばれるのだから。」
「ごめんなさい。でも、わたしと小君ちゃんが喧嘩したら北の方様がとても悲しまれるわ。とても控えめで、わたしのことを気にしてくださっているし。」
「でも、ご自分の娘の暴走も止めれないではいけませんわ。」
もみじ姫はふんわりと笑う。
「わたしのお母様に遠慮なさっているから、仕方ないのよ。そんな北の方様が小君ちゃんは不憫に思われるのじゃないかしら。」
なんとなくのもみじ姫の言葉に姫の乳姉妹はでもと口を窄める。
春香は当たり前のように二人が聞き流した言葉に感心して目を細める。
―もみじ姫は幼い姫ではなく、人の心をよく見れる純粋な姫なのだろうな。
無意識に周りに気を使い、使われたほうはそれと知らずに幸せになる。
小君を変にあしらえば、もみじ姫いびりという生活の楽しみを小君は失ってしまう。
まあ、そんなものを楽しみにしている時点で性格の悪い姫なのでしょうけど、なんせ深窓の姫君は内に篭っている時代。
仕方ないこと。
それに事態を表に出せば、父である内大臣に北の方は顔向けできなくなる。
二人を思い、あえてこのままを貫き通しているなんて。
「わたしにはみんながいてくれるから、それでいいのよ。どんな姫であろうと何とかなるわ。」
ひぃ様…。
と乳姉妹は感激したように言葉を切った。
でも。
「また、そんなこと言って。ひぃ様はお歌を詠むのがお嫌いだから、逃げているのですわ。」
「う…。」
言葉に詰まるもみじ姫に、春香は少し買いかぶりすぎたかなと反省。
「よいお歌もたまには詠まれますけど、ひぃ様のお歌は当りが中々でませんし、でも返歌しなければ、これ見よがしに歌を送ってきますわ!」
ずいと身を乗り出す鈴虫にもみじ姫はそ知らぬとばかりに明後日を向く。
「そ、そうだわ。小君ちゃんにも物語を勧めてはどうかしら?」
「歌から現実逃避なさらないで下さい!」
「ま、松虫…。」
妹の隣で控えている松虫に助けを求めるが、普段優しい松虫も渋い表情。
「ひぃ様、私たちは私たちに対する非難ならいくらでも聞き流しますわ。でも、乳姉妹であるもみじ姫様の悪口だけはそうは流せません。お分かりいただけますか?」
「そうですよ。私たちの所為で幼いなんて言われてるんですからね。」
「ご、ごめんなさい。」
「こら、鈴虫!」
妹のあけすけない言葉にも、それに対して素直に謝るもみじ姫にも続く言葉が見つからない。
「だって、悔しいんだもの。ひぃ様はこんなにいい人なのに。そりゃ至らない部分はたくさんありますけど、でもそんなの気にならないのに。それを誰も知らないなんて、悲しすぎるわ。」
直情な鈴虫の言葉に松虫も頷く。
この言葉にもみじ姫も、目頭を熱くした。
「ねえ。お涙頂戴のやり取りもいいけど、なんとかした方がいいんじゃない?あまり付け上がらせるのは得策じゃないと思うけど。」
三人でひしと抱き合っているところに春香の冷静な突込みが入る。
「で、でも。」
「別に誰かに言いつける必要なんてないよ。純粋に歌で負けさせればいいんだから。」
困惑するもみじ姫に春香は艶やかな笑みを浮かべた。
「僕に任せて。これのお礼。」
片目を瞑ると、人差し指で自分の額を指した。
俄かにもみじ姫の頬は色づく。
「で、でも、春香君。」
「大丈夫!僕を誰だと思っているの?」
言葉つまるもみじ姫に、不敵な笑みを浮かべた。
「あなたのためなら、何にだってなれる。そう、例えば、月からの使者にだって。」