決意
突如咲き誇った桜の木々に、内大臣家の築地の側にいた兵部卿宮は目を見開いた。
ちょっとや、そっとのことで驚く質ではないが、こんな美しくも摩訶不思議な光景は初めてだった。
爛漫と咲く花はひらりひらりと散っていく。
咲くのも早ければ、散るのも早い。
何をそんなに生き急いでいるのかと問いたくなるような速さだ。
あっという間に桜木はただの裸の古木に変わった。
先ほどの光景がまるで嘘のようだ。
息をつく暇もなく、その光景を見つめていた。
「なん……だったんだ?今の桜……」
呻くように呟く。
外では腰を抜かした牛飼いが仕切りに念仏を唱えている。
呆気にとられていた兵部卿宮だったが、築地から見知った顔が這い出てきたことに気づくと、慌てて走り寄った。
突き放すように、知らぬ場所へ放り込んだことに対し、僅かばかり気が咎めていたのだ。
ただ付いて行ってやることは兵部卿宮には敵わないことだった。
ここには、かの人がいるから……。
かの人を思い、何度この屋敷の周りをうろついたことか。
その知識がまさか愛しい甥っ子の願いを叶えることになるなど、思いもしなかったが。
「大丈夫だったかい?中で、何が……」
内大臣家から出てきた春香の身を案じるように、身を屈める。
唇を引き結び、神妙な顔をした春香は真っ直ぐにこちらを見返してくる。
先ほどまで泣き出したいのを我慢していた子どものような顔をしていたのに。
しっかりと腹が決まった男の顔が真摯に兵部卿宮を見つめていた。
「帰る」
そう一言告げると、しっかりとした足取りで春香は胸を張って進んでいく。
「ど、どうした?中で何が……」
「守るって約束したんだ。そのためにもっと強くならないと……」
独り言のように呟く春香の視線には迷いがない。
母親を失い、迷子の子のようだった春香からは想像もつかないほど逞しい顔をしている。
彼は何かを守ると決めたらしい。
それは彼の心を強く支える思いとなっているようだ。
しっかりと地面を踏みしめ、歩く小さな背に、兵部卿宮は思わず口元を歪ませた。
「何してんだよ、置いていくぞ?」
立ち止まっている兵部卿宮を怪訝な顔で振り返り、春香は眉を寄せている。
「早くしろ。俺には立ち止まっている暇はないんだ。お前も協力しろ!」
そう言うとフンッと鼻を鳴らして、春香は牛車へと向かった。
その背を追うように、ゆっくりと歩を進めながら、兵部卿宮は苦笑を零した。
「御意。どこまでもお供いたしますよ?」
慇懃に頭を下げるが、春香の視線は遥か先を見つめている。
彼には目指す理想があるようだ。
足を進め、ふと、何かに後ろ髪が引かれるように兵部卿宮は後ろを振り返った。
幻想のような桜はどこにもない。
「……もこの桜を見ていたのかな?」
熱の籠った独白は誰にも届かずに、朝の光に消えた。