守りたいもの
何の音もないそこを、春香は涙を流す少女を目指して駆けた。
必死に階を昇り、わき目も振らずに少女に駆け寄る。
「もみじ、もみじ!」
自分が泣いて縋りそうな勢いで、春香はその少女に抱き付いた。
しかし何の反応も示さず、その少女は虚ろな瞳から涙を流し続けている。
声すらも失ったのか、微かに動く唇は何かを言っているようだが、春香の耳には届かなかった。
「春を……春を届けに来たよ!外を見て!」
必死に少女の肩を揺さぶり、春香は訴えかけた。
でも何も変わらない。
このまま泣きながら死んでいくのではないか。
それほどまでに少女は衰弱していた。
内裏で出会ったもみじはここにはいなかった。
いるのは、母親を亡くし、道に迷った弱弱しい少女だった。
春香は胸を締め付けられ、感情のままに少女に抱き付いた。
「俺が、俺が守るから。俺がずっと側にいるから。だから泣かないで」
体の小さな春香は、ただ少女に縋りついているだけの状態だったが、それでも彼女を何者からも守るように、手を広げ包み込もうとあがいた。
「もみじ、俺、誰よりも強くなるよ。誰よりも賢くなる。誰ももみじを傷つけないように、もう二度と泣かせないようにするから!」
だから、もう一度笑って。
そう少女の耳元で祈るように囁く。
「……とうに……」
ピクリと少女の体が動いた。
虚ろな瞳に僅かばかりの光が戻っている。
春香は飛びつくようにその瞳を見つめ、大きく頷いた。
「もみじ、もみじ。約束を守りにきたよ。ほら」
自我を僅かに取り戻したもみじの手に、そっと桜の枝を乗せてやる。
美しい桜の花をところどころに咲かせた枝に、もみじは驚いたように目を丸くした。
「さくらだ……」
「そうだよ。お花見したいって、春が来てほしいって、もみじが言ったから。春を届けにきた」
「かみさま……」
表情のない虚ろな顔が急にくしゃくしゃの涙顔に変わる。
自分よりも年かさのもみじが縋るように春香を見つめてくる。
春香の着ている直衣をこれでもかとぎゅっと握りしめるもみじに、春香は胸の奥から熱い何かが溢れてくるのを感じた。
守りたい。
それはどこまでも真っ直ぐで、情熱的な思い。
決して消えない火が春香の中で炎へ変わっていく。
「ほら、あっちを見て!」
もみじの肩を優しく抱くと、春香は桜の古木を示した。
あそこにはもみじの望む人がいる。
その一心で指さした。
だが、再び見つめた桜木の下に、あの美しい人はいなかった。
ただ爛漫と咲き誇る桜が風に揺れて、音もなく揺れていた。
空から降り注ぐ光が花びらに照り返り、きらりきらりと反射する。
天上の美が春香の心をざわめかせる。
「あれ……なんで……」
どこを見てもあの女性はいない。
あるのは、季節を先取りしたように咲き誇る桜木と、ただただ散って舞う桜の花びらだけ。
もみじにあの女性の存在を教えたかったのに。
動揺して視線を彷徨わせる春香の側で、もみじはふわりと微笑んだ。
「うわ~さくらとひかりがおどっているみたい」
涙の跡が出来た顔で、悲しみを残したまま、もみじはたどたどしく笑った。
「ありがとう……神様。最後にお母さまと神様と一緒にお花見ができるなんて……」
そう呟くと、もみじは桜の枝をぎゅっと抱きしめた。
まっすぐに桜の木を見つめるもみじの目に何が映っていたのか、側にいる春香には分からなかった。