美しい人
はぁはぁと息を切らしながら、なんとか築地の割れ目から身を潜ませ、内大臣家に侵入した。
綺麗に設えた庭には山茶花の花が咲き、遠くに見える梅木には堅い蕾が見える。
その向こうにはいくつもの御殿があり、内裏よりも狭くとも、春香の小さな身では簡単に歩き回れない広さであることが見て取れた。
初めてくる場所に春香は僅かに怖気ずいた。
しかし、激しく頭を振って、弱気な自分を叱咤する。
自分はこんなところで立ち止まるために、内裏を抜け出してきたわけじゃない。
そう心に決め、春香は顔を上げた。
その視線の先には一つの御殿があった。
誰もいないのか、しんっと静まり返り、人の気配もない。
眩い朝の光だけが降り注ぐそこは、実に神聖だ。
その御殿を見つめ、春香はひゅっと息を飲んだ。
誰の気配もない御殿の簀の間に見知った姿があった。
まさかこんなにも早く会えるなんてと心が躍ったが、すぐにその心が凍りついた。
知っているはずの顔は、春香が見たこともないほど悲しみに染まり、いや、悲しみを通り越し、色を失っていた。
茫然自失の状態で、虚空を見上げる少女。
声を上げず、ただただ涙を零している。
その涙から彼女のすべてが流れ出てしまうんじゃないかと危ぶむほどに、かの人は絶望の淵にいた。
愛らしい顔を伝う悲しみはいかほどに深いのか。
問わずして全てを悟り、春香はそこから動けなかった。
もみじに会いたい。
その一心だったのに、今はどう声をかけていいのか、まるで分からなかった。
本当にあの、よくできた雛人形のような少女は、春香の知っているもみじなのだろうか。
でも、行かなければ。
春香は自分を覆いつくそうとする弱く、じめじめした自分を振り払うように、拳を握った。
「もみじが好きだ」
胸の奥底にある、真摯で情熱的な思い。
その感情に突き動かされるように、春香は一歩踏み出す。
「俺がもみじを守る。どんな悲しみからも……だから、笑って」
泣きそうな顔でそう呟いた。
その時だった。
「あら、知らない顔ね」
朗とした声は優しく低く、しかし心を掴まれるような琵琶の音色のような声が春香の頭上から聞こえた。
人の気配などまるでしない。
声が聞こえた今も、春香の側にでは人の熱などない。
ぎょっとなり、春香は自分の頭上を仰ぎ見た。
一瞬、桜木に話しかけられたのかと思ったのだ。
「あら、いい顔してるじゃない」
ニマニマと笑う顔が楽しそうに春香を見下ろしていた。
その姿に春香は、呆気にとられ、ただただその人を見つめた。
目が飛び出すほどに大きく目を見開く。
何かを問いたくても、言葉が声にならなかった。
春香が対峙していたのは、どこまでも眩い光だった。
いや、光が集まってできた女性だ。
目を凝らさなければ光に霧散してしまいそうなほど儚げな姿。
白く色をなくした顔は白磁のように硬質で、悲しいほどに美しい。
でもその中にあって瞳だけは別だった。
燃えるような瞳が、淡い面影の中で輝く。
意思の強そうな瞳が射抜くようにまっすぐと見つめてくる。
「貴方は……何故、ここに来たの?」
まるで春香が何者かを知っているような口ぶりだった。
春香の心の内を試すように、目を細めて言葉を待っている。
春香には何か予感があった。
その人知を超えた存在に畏怖を感じながらも、どこか懐かしさを覚えていた。
じっと自分を見つめてくる春香に、相対する女性はどこか満足げに口元を上げた。
「あら、なかなかの男前じゃない。この姿を見ても取り乱さないなんて」
屈託なく笑うと、その女性は来ている衣の袖を掲げて見せた。
そのままくるくると回って見せる。
「どう?どこまでも完璧に透けてるでしょ?意外と綺麗よね」
なんてのん気な言葉なのだろう。
ただ呆気にとられ、春香は強張った顔のまま、数回、カクカクと首を縦に振った。
「何よ、薄い反応ね。うちの子ならもうちょっと楽しませてくれるわよ?それで?可愛い皇子様は何をしにここへ来たの?一人で外出できるご身分じゃないでしょ?」
春香の視線に合わせるように腰を折ると、女性は春香の顔をのぞき込んできた。
理知的で、意思の強い瞳が印象的な女性だ。
すぐ側の御殿で泣いている少女とは似ても似つかない雰囲気だ。
だが、その面影はどことなく少女に通じるものがある。
「……春を届けに……」
なんと言えばいいのか分からず、春香は気まずげにそれだけを告げた。
春香の答えが意外だったらしい女性は、目をパチパチと瞬いて、不思議そうに春香をみやった。
「春を?」
「そう、約束したから。俺から春の香りがするって。だから、俺は春告げの神様なんだって。俺が泣き止めば、雪が溶け、春が来るって……」
「そう、あの子が言ったの?」
心惹かれるようにな低い声でそう問われ、春香はただ大きく頷いた。
「春が来れば、お花見をする約束なんだっって。その時は一緒に花見するって……」
誰とは言わない。
それでも、相手は春香の言葉の意味が分かっているはずだ。
伺うように視線を上げれば、その女性は静かに笑っていた。
「確かに。せっかく冬が終わったのに、桜も咲いてないんじゃ味気ないわよね。どうせ見送られるなら、華々しく送ってほしいわ。あんな痛々しい顔じゃなくて、いつもみたいに笑っていてほしい」
悲しんでいるのか、楽しんでいるのか、何を考えているのか分からない顔で微笑む女性はふと、側の古木を見上げた。