兵部卿宮のおせっかい
牛車の行き先として「内大臣家」と告げた時、兵部卿宮は眉を寄せて目を見開いていた。
いつも飄々としていて、春香を牛車に乗せてからもその心の内を覗かせない兵部卿宮らしくない、本気で驚いた顔だった。
今度は春香が怪訝な顔をする番だったが、兵部卿宮は何も問いただしたりはせず、思案気に唇を指でなぞっていた。
「もう少しで内大臣家です。さすがに牛車で乗り込むわけにいきませんから、一人で行ってください」
「……分かった」
急に突き放すようなことを言われ、春香は戸惑いつつも弱気なところを悟らせまいと、顔をしかめて頷いた。
いつまでもこの男を頼りにしてはいけない。
そう自分に言い聞かせる。
この男は気まぐれで自分に手を貸しているだけで、時に手を貸している振りをして春香を試しているような時がある。
今まで右大臣家と内裏しか知らない春香には、都の大通りすら珍しい。
そんな春香は、他人の家に正当に入る手段も知らなければ、こっそりと忍び込む方法すら分からない。
ただ、だからといって兵部卿宮にそれを聞くのも癪に障る。
さて、どうやって内大臣家の中に入ろうか、どうすれば、もみじに会えるだろうか。
むっつりと黙り込み、考え出した春香に、兵部卿宮はははっと快活な笑いを零した。
「なんだよ」
「いくら大人びていらっしゃっても、女性のところに忍んでいく方法までお知りではないんだな~と思ってね」
「悪かったな、今考えているんだから、黙っとけよ」
「別に黙っていても構わないけど、それじゃ時間がないでしょ?」
何を知っているのか、クスクス笑う兵部卿宮の言葉に春香は声を詰まらせる。
今すぐにでももみじに会いたい。
名前を名乗って入れてもらおうか。でも誰が春香を東宮だと信じるのか。
考えが堂々巡りを繰り返し、春香は自分の無力を感じた。
何もできない。
東宮という位にいても、いくら聡しい頭脳を持っていても、春香にはもみじの悲しみを癒してあげる術がない。
でも、もみじが春香の悲しみを受け止めてくれたように、春香ももみじのために何かがしたかった。
「西の南の方……」
春香の思考を破るように、兵部卿宮が呟いた。
「え?」
「そういえば、築地が割れている部分があったな~って。ちょうど桜の古木があってね、その根が築地を押し上げているんです」
何のつもりだろうか。
それともからかわれているのだろうか。
不審な顔をして兵部卿宮を見上げると、彼は人好きのする笑みを浮かべた。
「まだ小さな東宮様なら、鼠のように身を縮めて入ることができるんじゃないですか?」
「馬鹿にすんな!」
そう叫ぶのが精いっぱいだった。
からかわれた。
そう思うと腹立たしくなる。
殴ってやろうと拳を振り上げれば、いとも簡単に掴まれてしまった。
仕方なしにこれでもかと目に力を入れて、兵部卿宮を睨んでやると、彼はもっと相好を崩す。
「フフッ。いつもの君らしい顔ですね。さて、何の御用かは知りませんが、ほら、そこが内大臣家です」
その言葉に春香は顔を上げた。
御簾の向こうに、広大な屋敷がある。
そして屋敷の築地の向こうに裸の桜木が見えた。
牛車はゆっくりと減速する。
完全に止まるまで待っていられず、春香は転がり落ちるように、牛車から降りた。
そのまま桜木を目指してかけていく。
「早く、早く、もみじに会いたい……」
ただ、その一心で桜木を目指す春香に、何故兵部卿宮が抜け道を知っているのか、そんなことは疑問すら思わなかった。