第6章 恋の秘め事
俺のものにしたい―。
年の離れた、幼い童にそう言われ、幼き姫と囁かれるもみじ姫の心は俄かに色づき始めた。
あの日から3日ほど経つが、あれ以来春香はもみじ姫の下に訪れることはなかった。
「はぁ。」
何か傷付けることをいったかしら。もみじ姫は母屋から御簾を上げた向こうに広がる雪原を見やり物思いに耽っていた。
このもみじ姫らしからぬ普通の姫ぶりにさすがの綾乃も喜ぶというより心配げにしている。
「やはりお風邪でもめされましたか?」
「心配してくれてありがとう。そんなんじゃないの。ただ…。」
そう、ただあの童のことが気になるだけ。
あんなに困らされて、唇を奪われてもどうしても忘れられないのはあの強い眼差し。
しかし、春香の存在を知らない綾乃には口が裂けても言えない。
黙り込むもみじ姫に綾野は腹立たしげにそっぽを向いた。
「お悩みを私には言って下さらないのですね。まぁ、私は鈴虫や松虫と違いまして姫とは乳姉妹でもありませんし、二人と比べてもお仕え申し上げて日が浅うございますもの。姫の心が綾乃にないのは当然ですわ。でも、私は姫の御為と心をとしておりますのに、少しくらい心を掛けて下さってもよいのではないですか?」
まるで物語でも読んでいるかのような仰々しい言葉を綾乃はさめざめと泣きながらもみじ姫に語る。 目を袖で隠し、嘘泣きをする。
もみじ姫は純粋で隠し事はできないたちである。
傍使えの綾乃はもみじ姫の異変にいち早く気付いていたが、もみじ姫から言い出すまでは思ってはいるのだが、姫の全てを守るのも綾乃の仕事。
後に知った時には既に遅しという事態だけは避けたいのだ。
だから気が引けても優しいもみじ姫を試すようなことを言わなきゃならない。
姫の大事はお家の大事、特に都でもって一、二を争うやんごとなき内大臣家。
女房も大変な仕事なんです。
「そ、そんなことはないわ。綾乃がいなきゃわたしはもっと子どものような姫だと言われてたわ。綾乃は厳しいけど、本当は優しいから。だからわたしはそんな風に綾乃を思ったことなんて。」
もみじ姫は綾乃の単衣の袖を摘むと必死に訴えかけた。
嘘泣きにここまで真剣になられると流石の綾乃も更に気が引ける。
「まぁ姫がそうおっしゃって下さるのなら、私の気持ちも晴れ渡るというものですわ。」
綾乃は苦し紛れに咳払いをする。
「姫が言いたくないなら、無理やり聞き出すようなことは致しません。ただ、姫の御身に関わることなれば、悪いことにお悩みではありませんね。」
「悪いことではないわ。本当気にしないで。」
もみじ姫はせいいっぱい笑ってみせた。
そして何かを思い出すように首筋に手を当てる。
ほぅと熱いため息を吐いた。
まるで恋をしているようなため息ですわ。
そんなもみじ姫を横目に綾乃は直感でそう思った。
「ねぇ綾乃は恋したことある?」
「まぁ姫の口からそのような言葉が出てくるとは。」
綾乃は目を見張った。女の子同士なら当たり前の話題なのに思わぬ言葉を聞いたとばかりに、動揺する。
「だ、誰かお慕いなさる方がいらっしゃるのですか?」
「い、いないわ!いるわけないじゃない!!」
今度はもみじ姫が動揺する番。
頬を真っ赤に、必死に首と手を振る。
ポツリと漏らした一言がそんな誤解を招くなんて、もみじ姫は焦って言い訳をする。
「わたしもいつかは誰かと結婚しなきゃならないし、その方の為にも恋の常識が必要だと思うの!」
「恋の常識?」
「そ、そう。だってわたし、よく鈴虫に感覚がズレてるって言われるから。相手の方も困られるかもと…。」
しどろもどろのもみじ姫に胡乱な目を向けつつ、綾乃はしばし考えた。
姫もいつかは誰かと結婚しなければと思ってるなんて…。
驚きつつ、自分自身を振り返る。
自分に他人に語れるような恋の話があったかしら―
恋に夢見るにはあまりに年を重ねすぎて、恋を所詮は恋よと割り切って…。
こんな話はもみじ姫にはできないなと瞬時に結論づけると、いつも通りの澄ました顔で何気ない風に当たり障りのない話をする。
「恋の一般常識がいかなものか分かりませんが、淡々とした日々を彩るものだと思いますわ。その方を思って一喜一憂する。」
「日々を彩る?」
「そうと聞きますね。」
「綾乃もそんな経験があるの?」
綾乃の話を真剣に聞いていたもみじ姫は小首を傾げ、何気なく聞く。
「…彩られた思い出はありませんわね。一般常識が常に当てはまる訳ではないのです。」
「あ、聞いてはダメだった?」
綾乃のふとした切なげな顔にもみじ姫は慌てた。しかし綾乃はいつも通りに笑う。
「いいえ、お聞かせするほどの話ではないということですわ。私は出会わなければよかったと思う思い出しかありませんが、姫はこれからがあるのですからよい方と恋をなさりませ。」
綾乃の言葉にもみじ姫は逡巡する。
「出会わなければ…と思う恋もあるの?」
「恋も色々あるということですわ。今まで恋や愛に興味を示されなかった姫が色々お聞きになるなんて、姫もちょっと幼いですが、やはり普通の女の子ですね。私は安心しましたわ。そうですね、恋物語でも取り寄せましょうか?物語を読むも一つ経験ですわ。」
普通の女の子って…。綾乃はもみじ姫をどう思っていたのでしょうね。
「綾乃、ありがとう。」
もみじ姫は綾乃の言葉のいいように捉え、ほにゃらと笑った。
「ではすぐに手配致します。夜も深くなりました。寝屋の用意を致しますわ。もうお休み下さいませ、もみじ姫。」
綾乃が去った後、もみじ姫は一人部屋で考えていた。
恋とはどんなものなのかしら。
それが分かれば、今のこの落ち着かない気持ちに名前を付けることができるのに。
でも…これが恋なら困ったことだわ。
だって相手は文使いの童。
恋をするには、身分も年も離れすぎて…。
いいえ。恋な訳ないわ!ただちょっとばかり驚いただけなんだわ。あんなことされて、変になったのよ。
もみじ姫は被りを振ると衣を頭から被った。
今宵の月も大層美しく、月影を受け白雪が淡く輝く。
いつも静かな青年の屋敷に今日は珍しく来客があった。
「やあ、雪の深い中訪ねてきてくれて悪いね。」
「いえ。」
捕らえ所のない青年と違い、真面目な顔つきの青年が軽く首を振る。
年の頃、十八、青年よりも二、三年下に見える。
「ん〜そうだね、なんとお呼びしようか?」
「えっ?いつも通り…」
「フフッ。今からするのは秘密の話さ。身分も名も隠してこの秘め事に従じないとね!」
口元を扇で覆い、青年は楽しそうに笑った。
「はあ。」
対する男君は訳が分からず、ポカンとしている。
「秘め事ですか?」
「そう、ヒメゴトだよ。小梅くん!」
青年の言葉に、小梅と呼ばれた男君は思わず手にしていた扇を落とした。
「な、な、なんでその名を…。」
驚き、言葉の続かない小梅を楽しむように、青年は笑った。
「いやぁ、賢き辺りの噂にね。」
にまりとする青年に小梅は顔を真っ赤に睨む。
「幼き頃の渾名がこんなところで…。分かっていてこんなことを言い出したんですか!」
「いやいや、それは穿った考えというものだよ。今からする話は恋の秘め事さ。仕事の肩書きで呼び合うなんて無粋だろ?それに可愛いじゃないか。小梅ちゃん。」
軽く片目を瞑ってみせた青年に小梅はため息を吐いた。
こういうからかいにはなかなかどうして慣れない。
ただ経験上、無視して進めるに限ると知っている。
「賢き辺りに、戯れ事はお止め下さいとお伝え願えますか?で、あなたはどのように?」
「そうだね…。これは簡単に口に出来ない秘め事だから、口無し、山梔子とでも呼んでくれ。」
自分は当たり障りないものを選んで…。
むすりとする小梅に山梔子の君は意味ありげに笑った。
「さて、それでは本題に入ろうかな。」
パチリと扇を鳴らし、山梔子の君は小梅を見据えた。