春を届けに
もみじの母親が亡くなったのだ。
もしかしたら、もみじは何か予感を感じていたのかもしれない。
まだ来ぬ春を乞い続けるもみじ。
母親に桜を見せたいと笑うもみじ。
彼女は心のどこかでは、桜の季節まで母親がもたないことを知っていたのではないだろうか。
知っていて、見えない振りをして、そして純粋なほど真っ直ぐな思いで、母親の命が続くことを願っていた。
そう、見ず知らずの少年を春告げの神様だと思い込もうとすることで。
もみじも苦しんでいたはずだ。
でも屈託なく微笑む姿に春香はどれだけ心を救われただろう。
春香は走った。
もう春香の頭の中には、東宮の位だとか、取り繕うだとか、後見の右大臣の顔色だとか、そんなことはどうでもよくなっていた。
春香の中にあるのは、ただ一つ。
「春を……春を届けないと……」
一人冬の季節で嘆く、愛しい人のために。
同じ母を失った痛みを知っている春香に出来ることは、もみじが「春の香り」と呼んだ自分の香りを届けること。
春告げの神様ではない春香には、桜の花を咲かせることも、母親と一緒に花見をさせてやることもできない。
感情が体に追いつかない。
ただただ、心が望むままに春香は内裏を駆けた。
誰かに咎められたらどうしよう……そんな気弱な考えさえ思い浮かばず、邪魔するものがいれば、蹴り倒すくらいの気概がその幼い瞳に宿っていた。
「待ってて……もみじ……。春を届けに行くから……」
弾む息の中で、苦しげにそう宣言した。
その時。
「おやおや、急いでどちらへ?」
力強く腕を引かれ、誰かに抱き込まれた。
いつの間に側に来ていたのか、走ることに囚われていた春香はいきなり視界が覆われたことに混乱した。
何が起きたのかと体を固くする。
その頭上に飄々とした、低く甘い声が響く。
「東宮様ともあろう方がそんなに情けない顔をして……髪型も乱れてますよ?」
ふふっとこちらを揶揄するような言葉に、春香は顔を上げた。
確認しなくとも、春香に対してこんな無礼を働くのはただ一人しかいない。
「兵部卿宮!」
勢いをつけて、その腕から逃れると、春香は真っ直ぐに顔を上げて、長身の優男をねめつけた。
いつも通りの優美な顔に、意味ありげな含み笑いを浮かべ、兵部卿宮は楽しげに春香を見下ろしている。
その烏帽子の下の髪はわずかにほつれ、胸元が乱れた直衣姿がしどけない。
どこかの女房の元からの朝帰りだろうか。
色男と名高い彼の噂は幼い春香の耳にもよく届いた。
どう意味なのか分からないことも多々あったが、噂話を好む女房達の話でかなり耳年増な春香だ。
聞かずとも兵部卿宮が何をしていたのかを察し、蔑むように目を眇める。
「俺は急いでるんだ。お前に構っている暇はない!」
ぴしゃりと言い切る春香に、兵部卿宮は、おやおやと目を見開いて見せた。
「急いでどちらへ?」
「どこだっていいだろ?」
放っておいてくれと言外に含ませて、春香は兵部卿宮に背を向ける。
今はこんな捉えどころのない男に関わっている暇はない。
なのに、今朝に限って兵部卿宮は簡単に春香を解放してくれない。
先に進もうとする春香の腕を掴んで離さないのだ。
いつもは気まぐれに絡んできて、波のようにさっと去っていくクセに。
「離せよ!俺は急いでいるんだ!」
激昂して振り向けば、いつもはへらへらと笑っている兵部卿宮が真剣な顔をして春香を見下ろしていた。
「何をそんなに急いているんです?君らしくない」
春香の胸の奥にある全てを見透かすような視線に、春香は居心地が悪そうに視線を逸らす。
今は東宮の位などどうでもいいとさえ思っていた。
だが、そんな春香の熱せられた思考に冷水を浴びせかけるような兵部卿宮の鋭い眼差しに何も言えない。
やっぱりこの男は苦手だと、歯がゆい苛立たしさを感じつつも、幼い彼にはどうすればいいのか分からなかった。
何が一番正しいのか、自分は何を望んでいるのか、そしてどうすればもみじのためになるのか。
それでも……それでも春香は行かなければならない。
「離してくれ。行かないといけないところがある」
ゆっくりと視線を上げた春香は、子どもの顔でも、必死に取り繕っている東宮の顔でもなかった。
何かを決心した男の顔に、兵部卿宮は目を細める。
春香の中をすべて見透かし、ゆっくりと吟味するかのように視線を逸らさない兵部卿宮は、ふとその口元を緩めた。
春香から手を離し、優雅に腰をかがめる。
「ならば、お供いたしましょう。どちらか分かりませんが、お一人での外出など人目をひきます故」
生真面目にそう告げる。
そこからの兵部卿宮の行動は早かった。
誰ともすれ違うことなく車宿りに向い、すぐさま自分の牛車に春香を押し込む。
静かに控える牛飼いに、出せと短く命じた。
「それで、どちらに行きましょうか?」
大げさなほど慇懃な言葉だが、その顔は事態を楽しんでいるように笑っていた。
だが、春香が何をしたいのかを根堀葉堀聞いたりはしない。
春香には兵部卿宮の意図など何も分からなかった。
だが、今は目的のためには、彼の協力が必要である。
春香は牛車の御簾越しに遠ざかる御所を見つめていた。
(早く……早く春を届けなくては……)
春香の心にあるのは、ただそれだけだった。