唐突の別れ
その夜、いつも来るはずの時間になってももみじは来なかった。
抜け出すのに手間取っているのかと思い、麗景殿まで迎えに行ったが、御殿はどこか騒がしく、入り込めそうにはなかった。
仕方なく、春香はいつも待ち合わせの場所にしている、二人が出会った木の下でもみじを待ち続けた。
春が近いといっても底冷えが厳しい季節だ。
春香の白い頬は朱に染まり、手もかじかんできた。
それでも春香はその場を離れることができなかった。
「あともう少ししたら、もみじは来るかもしれない」
もし自分がこの場を去った後にもみじがやってくれば、もみじを一人にしてしまう。
いや、絶対にもみじは来るという希望を捨てることができなかった。
「お願い、俺を捨てないで……」
もみじという存在に縋りつくように、春香は悲しみを堪えた声でつぶやいた。
もみじには、もみじの家があり、ずっと一緒にはいられない。
そのことは、春香自身よく分かっていた。
でも突き上げる激流のような感情を抑えることなどできない。
もみじこそ、彼がやっと見つけた光――。
もし、もみじがいなくなれば、自分は何を寄りどころに生きればいいのか。
前の、何もない自分に戻ることが春香は怖くて仕方なかった。
「もみじ、俺は……」
伝えたい人に届かない言葉……。
胸の奥で何度も叫んだ言葉は、表に吐き出そうとした途端に空気に霧散してしまう。
出会った時から分かっていた。
もうこの感情から離れることができないことを。
この感情の名前がなんというのか、それすら知らない。
でも、春香はこの想いを一生抱えて生きていくのだと、もみじの笑顔を見た時に自覚していた。
会えないことで更にその感情が増していく。
「もみじ、俺はあなたのことが好きだ……」
白く靄がかかった東の空を見つめ、春香は何かを決意するように胸の前で拳を握りしめた。
明けゆく空に春香は小さく吐息を漏らした。
朝靄にけぶる内裏からは衣擦れの微かな音が聞こえてくる。
いつまでも東宮である春香が御所を離れる訳にはいかない。
幼くともそれだけははっきりと理解している春香は、後ろ髪を引かれながら、のろのろとその場を後にした。
東宮が勝手に部屋から抜け出していると知れば、お付きの女房達はどんな反応を示すだろうか。
抜け出たことに対し、少しの罪悪感を感じつつ、自分の部屋へと向かう。
さわさわと衣をさばきながら、廊下を渡る女房達に気づかれぬように、春香は寝殿造りの屋敷の床下に隠れながら、自分の部屋を目指した。
誰も春香のことには気づいていないし、目指す東宮御所は普段と変わらず静かな朝の中にあることに春香は胸を撫で下ろした。
(よかった。気づかれていない)
一度部屋に戻って身支度を整えてから、今日はもみじを探しに麗景殿へと足を伸ばしてみよう。
そう心に決めた時、春香の心を見透かすように、頭上から声が降ってきた。
当たりをうかがうように潜められているが、その声は妙にはっきりと春香の耳に届いた。
「お聞きになった?麗景殿の」
「ええ、お気の毒に」
「女御はお嘆きのご様子で……」
その断片的な情報に、春香は血の気が引く思いがした。
冷え切った体の中で、心臓だけが痛いほどに鼓動を打つ。
「大分お体が悪くて……」
「今朝……身罷られ……」
その続きを聞きたくなくて、春香は全力で駆け出した。
春香が急に物音を立てたことに驚いたのだろうか。
後ろの方できゃっと女の悲鳴が聞こえたが、春香にはもうあずかり知れないことだった。