秘密の関係
その日から春香には秘密が出来た。
昼間は卒なく、理想の東宮を演じる。
そして夜。
お付の女官達が幼い春香を寝かしつけ自分達の恋人と愛を語っている間に一人、東宮御所を抜け出すのだ。
あの桜の大木を目指して。
そのたもとで待つ麗しい人の下へ。
雪月の下に出会った少女は、内大臣の二の姫だと名乗った。
帝の女御となった内大臣家の大姫、麗景殿の女御の所に内々に遊びに来ているのだと。
年始年末は色々な行事があって楽しいからと母から勧められたらしい。
「でもね、本当は内裏になんて来たくなかったの。お母さまと離れ離れになっちゃう。お母さまはね、体が弱くて、最近はずっと寝たきり。もみじもお母さまの看病がしたいの」
そう言って顔を曇らせ、しかしすぐにまた屈託のない笑みを浮かべる。
「お母さまやお姉さまがもみじに気を使ってくれて、内裏に行かせてくれたんだって分ってる。もみじの家族は、みんな優しいのよ」
二人は雪の溶けた桜の大木の元に腰掛け、夜空を見上げて取りとめもない話をする。
時には月の光を頼りに隠れ鬼をしたり、石投げをしたり、蹴鞠をしたり。
一度、もみじがとんでもない方向に蹴鞠を蹴り、二人で必死に逃げたこともあった。
二人だけの時間はあっという間に過ぎていく。
夜がずっと続けばいいのにと願う間もなく夜は明ける。
その短い時間、もみじはいろんなことを春香に教えてくれた。
彼女自身は軽い雑談のつもりだったのだが春香にとっては全てが新鮮で、驚くばかり。
もみじが見たこと、聞いたこと、感じたこと。
花の匂いや風の色に至るまで、彼女の言葉を借りて色鮮やかな世界が広がる。
それがもみじの見ている世界。
ただ聞いているだけなのに、言霊はするりと春香の中に沁みこみ、あっという間に芽吹き出す。
もみじの横でじっと話を聞く春香は、もうあの頃のように孤独ではなかった。
でも………。
一度この温もりを知ってしまうと、失うことが怖くなる。
遊びに来ただけのもみじはいつか自分の家に帰ってしまう。
それにもみじは早く家に帰って母に会いたいと言う。
残ってほしい、その言葉が出てこなくて、春香はただ縋るようにもみじを見上げた。
「帰りたい?」
もみじの袖を引き、上目遣いに聞く。
その顔があまりに心細そうに見えたのか、もみじは慰めるように春香の頭を撫でた。
「今はね、ここに来てよかったって思ってる。お姉さまにも久々に会えたし、それにね、お姉さまがお産みした姫宮にも会えたんだもの。本当は女御様の実家で姫宮をお育てするものなのに、お姉さまが手放そうとしないから、もみじはまだ一度も会ったことがなかったのよ。お兄さま達やお父さまは会ったことあるのに~」
もみじはぷくりと頬を膨らました。
本当にころころ表情が変わって、見ていてあきない。
自分にはないものを持っているもみじが羨ましく、そして、それ以上に愛しいと思ってしまう。
自分よりも年上なのに、小さな少女のようなあどけなさが可愛らしい。
もみじを見つめるだけで、春香の頬は緩んでくる。
「それに、一番はあなたに逢えたことね。神様!」
「お、俺、神様じゃないよ」
もみじは春香のことを神様だと信じて疑わない。
困ったように訂正するが、その言葉が嬉しくて、他に言葉が浮かばない。
「またまた~。やっぱり、神様ってこと内緒にしないといけないの?でも、大丈夫よ。もみじは内緒にしとくから。お母さまにも、お父さまにも内緒!もちろん綾乃や鈴虫、松虫にも言わないわ!」
にっこりと顔をほころばし、もみじは春香の手を取った。
その手をぎゅっと握り締める。
「約束する。だってもみじ達はお友達だものね」
「友達……」
「そう、お友達よ。離れていてもずっと!」
初めて言われたその言葉が嬉しいような、それでいて切ないような。
離れていてもずっと……か。
春香は、離れたくないと思っているのに、もみじの無邪気すぎる言葉が胸に突き刺さる。
「あのね、もみじ……俺……」
意を決して春香は握ったもみじの手を握り返した。
伝えたいことは沢山ある。
けれど一番伝えたいことは………。
「ずっと……あなたの側に……」
「わぁ~!神様!!見た?お星様が流れて行ったよ!!すごい!!」
春香が口を開いた瞬間、それよりも大きなもみじの歓声があがった。
その声に弾かれたように満天の星空を見上げる。
濃紺の空に微かに、筆で塗り上げたような光が走った。
瞬く間に消えていってしまった流れ星を懸命に探すように、もみじは夜空を見上げたまま。
興奮が覚めやらぬのか、頬を高潮させて、繋いだ手を感情に任せてぶんぶん振っている。
「知ってる?流れるお星様にね、お願いすると願い事が叶うんだよ?さっきはあっという間でお願いするの忘れちゃった~!もう一度流れないかな?」
悔しそうに顔をしかめるもみじに、春香はただ頷いて答える。
「そしたらね、お母さまの体がよくなりますようにって祈るの。それでね、春になったら、家族みんなでお花見が出来ますようにって!!」
そう言ってじっと夜空を見上げるもみじの顔は、どことなく愁いを帯びていて、知らない女性のようだった。
その顔に春香の胸の奥が大きく震えた。
「早く春になればいいのに。お母さまに春の花々を見せてあげれるのに……」
独り言のようにつぶやく。
そんな横顔に春香は言葉を失った。
さっき喉まで出た言葉が、今はもう表に出ない。
『ずっともみじの側にいたい』
もし流れ星が願い事を聞いてくれるなら、何に変えてもそう願うのに。
もみじの願い事がたとえ、自分に向けられたものでなくても。
彼女にとっての自分が、泣き虫の神様で、ただの友達なのだとしても。
それでも構わない。
自分よりもずっと大きくて、広い世界を見つめる彼女の視界に少しでも入ってるなら。
いつまでもこの日々が続くなら、今は満足だ。
そう思っていた。
別れの日がすぐ側まで来ていると知らず。