泣いてもいいよ
その愛らしい声に驚き、春香は振り返った。
ここには誰もいないはずだった。
春香を見ているのは、今宵の月華のみ。
淡雪に包まれたこの場所で春香の存在に目を向けるものなど、誰もいない。
そう思っていたのに。
「どうして、泣いているの?」
煌々と照る月の光を遮るように、振り返った春香の顔に影ができた。
自分を不思議そうに見下ろしているのは、まだあどけなさの残る顔つきの少女だった。
春香よりもいくつか年上の、十か、それぐらいの少女。
桜の襲が愛らしい細長の袖から、淡い水色の衵が覗いている。
春らしい装いが雪の間にとても映える。
少女の大きく円らな瞳が月影を受けて、柔らかく輝く。
淡雪と共に揺れる髪を手で押さえながら、その少女は真っ直ぐに春香を見つめていた。
どこかの女御に仕える女の童だろうか。
いきなり現れた少女に春香は声が出なかった。
いつも幼いなりにも卒なく大人たちを捌いているが、今の彼にはそんな余裕はない。
情けない顔でただ少女を見上げるばかり。
思考が一旦停止をしてしまい、やっと動き出した時にはもう手遅れだった。
一気に不安が駆け巡る。
この少女が自分を東宮だと気付いたら、どのような悪評を立てるだろうか。
年端もゆかない子どもだって、大人の顔色を見て行動するものだ。
噂好きな宮中の女官たちに囲まれ過ごしている女の童ならなおのこと。
少女を警戒するように、春香は一歩後ろに身を引いた。
東宮とばれないように、そっと袖で顔を隠す。
だが、そんな春香よりも前に少女が一歩前に出た。
「泣いてもいいのよ」
少女は言うが早いか、いきなり春香を抱きしめた。
予想もつかないことに春香は抱きしめられたまま、呆然とした。
自分を包む温かさに、体の芯が震える。
一言口にすれば、心の奥に追い込めた感情が堰を切って溢れてくる気がする。
「泣いてもいいんだよ。我慢する方が体に良くないもの。もみじがこうやって抱きしめていてあげるから。こうすれば泣いているって誰も気付かないよ」
もみじと自分を呼んだ少女は春香に視線を合わせるとにこりと微笑んだ。
まるで陽だまりのように麗らかな笑顔。
その光は春香の中を一瞬にして突き抜けた。
未だ、蕾の固い桜の木の下――。
まだ薄く積もる雪の華がしんしんと降り注ぐ月下の中の出来事だった。
早春の夜は未だ寒く、まるで春香の心のように凍りついている。
今までどれだけの時間をこの凍りついた季節の中、過ごしてきただろう。
それはその千夜に比べれば、取るに足りないほどささやかな時間だった。
しかしその一瞬は、彼の全てを変えるのに十分だった。
凍りついた心が音をたてて、溶け始める。
心に火が灯ったように、胸の奥がじんじんと熱くなる。
こんな感覚は初めてだった。
歯がゆいような、それでいてずっと側にあってほしいと願ってしまうような。
「うっ………」
突き上げる感情はもう止められなかった。
一滴の涙が春香の頬を伝った。
泣きたくても泣けなかったはずなのに。
一度表に出た涙は止まる術を失って、後から後から溢れ出す。
もみじに縋るように、春香は声を出して泣き喚いた。
冷たい涙が段々と熱を帯び、温かく染まっていく。
抱きしめられた人の体温で涙はその温度を変えるのだと春香は始めて知った。
ずっと黙って、春香の背を撫でていたもみじが不意に何かに気付いたように顔を上げた。
「あら?あなた、とてもいい香りがするのね。淡い春の香り。とても心地よい香り。あっ、もしかしたら、春を告げに来た神様?」
屈託のない笑顔を春香に向けると、とんでもない閃きを口にした。
その愛らしい顔は真夜中にあって、目もくらむほどに眩く感じる。
言葉なく佇む春香に気にせず、もみじはもっと強く春香を抱きしめた。
「春の香りの神様、悲しまないで。あなたが悲しいとみんな悲しむわ。春も来なくなる」
自分はそんないいものではない。
春の宮と呼ばれる東宮の位にいても、いつその位を追われるかと戦々恐々としている小さな子どもだ。
春香はもみじの期待に添えない自分がとてもちっぽけに思えた。
なんと答えたらいいのだろう。
偽りや虚飾の中で生きてきた春香にとって、何の裏表なく声をかけられるのは初めてのことだった。
真っ直ぐ自分を見つめるもみじには同じように答えたい。
でももみじの言葉にどう答えたらいいか、初めてのことに言葉が浮かんでこない。
春香は、ただ駄々っ子のように激しく首を振るしかできなかった。
「う~ん?どうしたら涙が治まるのかしら?あっ、その涙は雪解けの証ね!深く積もった雪が溶け出してるのだわ!」
彼の心の叫びなどまったく意にせず、もみじは閃いたとばかりに口元をほころばせた。
もみじの想像は春香を置いて勝手な方へと進んでいく。
彼女は、自分の大発見に感動しているらしく、円らな瞳をさらに輝かせた。
「そっか!だから、泣き止めないのね。だって、それは冷たい季節を耐えた証だもの。雪が溶けて春になる。あなたはその準備をしているのね!とても頑張ったのね!!」
そう言ってもみじは春香の頭を軽く撫でた。
柔らかな髪に薄く積もった淡雪がひらりと落ちていく。
春香はどうしていいのか分からず、ただその心地良さに身を任した。
「春告げの神様は、寒い冬に頑張って耐えて、そして、ステキな季節を連れてきてくれるのね」
手前勝手な言葉だ。
しかしもみじから目が離せなかった。
目映い彼女の全てを心に焼き付けようと必死になる。
こんな感情は知らない。
こんな心が躍る感覚を母は教えてはくれなかった。
こんなにも甘く、切なく色を変える感情があることを兵部卿宮は言わなかった。
「雪はキラキラきれいだけど、その中で一人いるのは辛いわね。だからね、いっぱい泣いていいよ。もみじが早く溶けるように温めてあげる。だから、ねえ、泣き止んだらね、いっぱい笑ってね!あなたが笑えば、都中の桜も花開くわ、きっと」
彼が泣き止んでも花は咲かない。
それでもこの少女がそう言うなら、本当にそうなのかもしれない。
彼女の為なら、御所の花を全て咲かせることだって出来る気がする。
「あのね、うちの桜が咲けばお母さまとお花見をする約束なの。早く桜が見たいわ。そうだわ、その時は、あなたも一瞬にお花見しましょう!」