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コイハナ〜恋の花咲く平安絵巻〜  作者: 秋鹿
エピソード1~久方の光のどけき春の日に~
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封じられた心

「おやおや、心穏やかではないね」


 面白がるような、それでいて哀れむような声に春香は弾かれたように振り向いた。

 この、どこか間の抜けた、それでいて耳に心地よい低音には覚えがあった。

 春香がこの内裏で暮らし始めてから、どこからともなく現れる男。


兵部卿宮ひょうぶきょうのみや!」


 睨むように叫ぶと、闇が嘲笑うように揺れた。

 夜の帳のような衣に袖を通した、背の高い優男がお気に入りの扇で口元を隠し、ゆったりとした足取りでこちらに向かってくる。

 まるで真夏の花々のように濃厚で、むせ返る香りを漂わせ、どこかあどけなく、それでいて底の知れない闇を含んだ優美な顔に言い知れない笑みを浮かべていた。

 春香は彼が苦手だった。

 掴み所のない飄々とした態度や寄せては返す波のように気まぐれに自分の元を訪れ、さらりと去っていってしまう。

 そんな読めない行動もそうだが、その最たるは彼の顔。

 端正に整った顔は万人が認める美しさだろう。

 春香もそれは認める。

 その面影が父である御今上にさえ似ていなければ。


「何か用?」


 つっけんどんに返すと、兵部卿宮は扇を口に当てたまま苦笑した。


「お悔やみを言いに。母宮を亡くされ、さぞ落ち込んでいるだろうと」


「そんな風に見える?僕と中宮の間柄を知ってるくせに」


 目を合わせると心の中を読まれそうで、春香はそっぽを向いた。

 何かと自分にかまってくるこの叔父は、自分と父親の関係も、母親との関係も全てお見通しだった。

 彼が変な愛情を自分に対して抱いてくれていることは春香もよく知っていた。

 この内裏で、母親を除いて唯一、政治的な思惑など関係なく付き合ってくれる。

 それでも彼は父親の代わりにはなってくれない。

 彼は波のよう。

 迷惑なほどに構ってくるのに、急に手のひらを返したように一線を引く。

 それが彼の、春香に対する礼儀だとはこの時の春香は思いもしなかった。

 家臣としての一線だとは。


「ふふっ、どんな関係でも肉親でしょうに。人がいなくなれば、涙の一つでも流れるのが世の道理ですよ。人は桜が散り、落ち葉が風に吹かれるだけでも世の無常を嘆くのに」


「お前も誰かがいなくなれば泣くことがあるの?」


「ありますよ。私はこう見えて、感情的でね、日が昇れば、日が落ちることを考え落涙するし、川に流される虫を見れば世の無常を考える」


「いや、助けてやれよ」


 ぽつりと呟いた春香の突っ込みも無視して、彼の独壇場は続く。


「もちろん朝も昼も関係なく父母のことを泣き嘆くし」


「まだ死んでないだろ?死ぬ前から嘆くなよ」


「そして、そして夜にはかの人に思いを馳せる」


 ふざけていた兵部卿宮の表情が一瞬歪んだ。

 眉を寄せ、感傷的に口の端を上げる。 

 まるで自分自身を嘲笑っているかのよう。

 自分の知らない感情に惹かれるように、春香は身を乗り出した。


「かの人?」


「ふふっ」


 すぐにいつもどおりの掴みどころのない顔に戻ると、ふざけるように肩をすくめた。

 いつもこうだ。

 大切な部分は絶対に見せない。

 その癖に思わせぶりな態度をとる。

 兵部卿宮はぶすりとした春香の頭にそっと手を置いた。

 濡れたように滑らかな黒髪をそっと撫でる。

 いつもは子ども扱いするなと怒り出すが、その日の春香にはそんな気持ちは湧き上がらなかった。

 願うなら、その手で抱きしめてほしい。

 でも複雑な表情でされるがままの春香が気に入らなかったのか。

 いや、それ以上を望まれても与えることができないと自覚しているからなのか、兵部卿宮はひと撫でしただけで、その手を離した。

 僅かな温かみが春香の側を離れていく。


「きっと君もいつか分かりますよ。魂が惹かれる感情に」


 それだけ言うと彼は春香の側から腰を上げた。

 もっと側にいてほしいと言えれば、どれだけ楽になれるだろう。

 去り行く香りに目を伏せる。

 しかしいつもはあっさりと去るはずの兵部卿宮は、何を思ったのか俯く春香の頭を軽く叩いた。


「頑固なところ、母親譲りだね。でも頑なになって、自分の感情に封をするのは違うよ。私は心に封をして、そして感情自体を忘れてしまった男を知っている」


「え?」


「彼はね、上辺は幸せそうだよ。でも私はうらやましいとは思わない。報われなくても心揺さぶられる感情を持っている分、私の方がはるかに幸せだ。君がどうなるかは……君次第だ」


 訳の分からない謎かけのようだった。

 小突かれた頭に手を当てたまま、春香は去っていく兵部卿宮の後ろ姿をいつまでも見つめていた。

 あの時、兵部卿宮は何を伝えたかったのだろうか。

 幼い春香には彼の意図するところが分からなかった。

 いや、考えないようにしていたと言った方が正しいかもしれない。

 あの日から、母の葬儀や年始へ向けての行事などが立て続けに行われ、忙しさを理由に目を向けていた。

 そうでもしないと笑っていられなかったから。

 自分を値踏みする家臣たちの視線も、腫れ物に触れるような女官達の対応も、全てが春香を孤独に追い込む。


(俺は御今上になる人間だ。どんな時も弱みを見せてはダメだ)


 そう自分を奮い立たせる。

 いくら後ろ立ての右大臣が健在とはいえ、母亡き今、春香を東宮の位から追い出そうとする者が現れないとも限らない。

 春香の異母兄である一の宮が先の左大臣の排斥の為にその位を追われたように。

 表向きの理由は病弱のため。

 しかし都人の多くが裏の理由を知っていた。

 排斥も、東宮位を追うための陰謀であったとも。


『貴方は人の上に君臨する特別な人間よ。簡単に弱みを見せてはダメ』


 突き放したような母の言葉。

 それでもその言葉がこの内裏で生き抜くには必要だった。

 その言葉だけを心に無我夢中で、皆が期待する東宮を演じた。


『いいこと?この雅な宮殿に真実など一握りもないの。貴方は自分自身のみを信じなさい』


(分ってるよ、母上。俺は極みの位に昇る人間だもんね)


 ただふと立ち止まった瞬間、いいようもない無気力感に包まれる。

 訳もなく泣き出したくて、心の奥底に押し込めた感情を開放したくなる。

 心に出来た隙間は春香の気付かぬ間にその大きさを拡大していく。

 もう限界だったのかもしれない。

 母を失ったという悲しみに目を背け続けるのに。

 生きる目的を失ったことに気付かぬ振りを続けることに。


(苦しい。どうすればいいの?)


 母の教えは春香に生きる術を教えてくれたが、心が凍りつきそうな時どうすればいいかまでは示してくれなかった。



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